「行為はあるが、行為者はいない」非二元では、よくそんなふうに言われます。昨日のブログでもそのことに触れました。
歩くことは起きている。話すことは起きている。食べることは起きている。ブログを書くことも起きている。でも、それをやっている「私」という行為者はいない。
これは、かなり深いところまで「私」という感覚を見ていく言葉です。ところが、ここでもう一歩、見つめてみる。本当に「行為はある」のでしょうか。
たとえば、今、手を動かしたとします。手が動いている。それは確かに見える。でも、「手が動く」という出来事そのものが、どこかに実体として存在しているわけではありません。
ある瞬間には、ここに手がある。次の瞬間には、少し違う位置に手がある。その連続を見て、思考が「手が動いた」と呼んでいる。
つまり、「動き」というものを直接見ているわけではない。ただ、異なる姿が次々と現れている。そこに「動いている」という意味を与えている。
映画のフィルムを考えてみてもいい。一枚一枚の静止画が次々と現れることで、「人が歩いている」という動きが見える。
けれど、一枚の静止画の中には「歩く」という行為はない。「歩いている」というのは、静止画の変化に対して思考が与えた名前です。
もちろん、これは「映画は本当ではない」という話ではない。映画の中では、人が歩いているように見える。ただ、「歩く」という独立した実体が、そこに存在しているわけではない。
同じことが、この現実にも言えるのではないでしょうか。今、誰かがコーヒーを飲んでいる。口が動く。手が動く。カップが持ち上がる。液体が減っていく。それらはすべて見えている。
しかし、「コーヒーを飲む」という一つの行為が、実体として存在しているわけではない。ただ、そう見えることが起きている。
そして、その「起きている」ということさえも、もう一度よく見てみる。何かが起きているように見える。しかし、その「起きている」という現象を、現象とは別に取り出して見ることはできない。
見えるものがある。聞こえるものがある。感覚がある。思考がある。そして、それらが変化しているように見える。
そこに「時間」が加わることで、「何かが起きた」「何かが起きている」「何かが起きようとしている」という物語が生まれる。
けれど、本当に確認できるのは、いつでも「今現れているもの」だけです。過去は思考として現れる。未来も思考として現れる。
「さっき手を動かした」という記憶が今現れる。「これから手を動かそう」という予想も今現れる。だから、「行為が起きた」ということさえ、今ここに現れている思考や記憶によって成立している。
そう考えると、「行為はあるが、行為者はいない」という言葉も、まだ少し二元的なのかもしれません。行為者を消して、その代わりに「行為」を残しているからです。
でも、さらに見ていくと、行為者も見つからない。行為も見つからない。ただ、そう見えることがある。ただ、そういう現れがある。
そして、「現れがある」ということさえ、誰かが確認しているわけではない。これを言葉にしようとすると、とても難しくなります。
「何も起きていない」と言えば、何かが起きていないという状態があるように聞こえる。「すべては幻想だ」と言えば、幻想ではない何かが別にあるように聞こえる。
だから、結局は言葉では届かない。歩いているように見える。話しているように見える。考えているように見える。生きているように見える。世界が存在しているように見える。
でも、その「見える」ということの外側に、本当にそれを起こしている何かがあるわけではない。行為者はいない。そして、行為もない。ただ、行為があるように見える。それだけ。
もしかすると非二元というのは、「私が何もしていない」と理解することですらないのかもしれません。「何もしていない私」もいない。「行為をしている私」もいない。
「行為」そのものもない。ただ、この見かけがある。そして、その見かけさえ、誰かに見られているわけではない。それはただ、こうである。 by Claris
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