「見ている人」は本当にいるだろうか?

たとえば、目の前にコップがある。普通は、「私がコップを見ている」と思っています。でも、実際に起きていることを、もう少しそのまま見てみる。

そこにはコップの姿が見えている。そして、「コップ」という言葉や、「私が見ている」という思考も現れている。では、その「見ている私」は、どこにいるのでしょう。

コップのこちら側に、誰かがいて、そこからコップを見ている。そんな感じがする。けれど、その「誰か」を実際に探してみると、見つかるのは身体の感覚だったり、思考だったり、視界だったりする。

そして、それらもまた、ただ現れている。「私が見ている」ということは、確かに思考として現れる。でも、「私」という見ている人そのものが、別個の存在として見つかるわけではない。

見えているものはある。音もある。身体感覚もある。思考もある。感情もある。しかし、それらを「経験している誰か」が、別に存在しているわけではない。

ただ、見えることがある。ただ、聞こえることがある。ただ、感じることがある。ただ、思考が現れる。それだけ。「私が世界を見ている」のではなく、世界を見ているという出来事そのものが、ただ起きている。

そして、その「起きている」ということさえ、誰かが起こしているわけではない。これが、非二元で言われている「行為はあるけれど、行為者はいない」ということなのかもしれません。

もちろん、「私」という言葉を使うことに何の問題もありません。「私はコーヒーを飲む」「私は車に乗る」「私はブログを書く」そう言っていい。

実際、ブログを書くという行為は起きている。ただ、その行為の背後に、「これをやっている私」という独立した存在を探してみると、そこには何も見つからない。

あるのは、ただ行為。ただ経験。ただ現れ。そして、そのすべてが一つの出来事として起きている。だから、非二元は何か特別な状態になることではない。

「私がいない」という特別な体験を手に入れることでもない。今ここに見えているもの。聞こえているもの。感じているもの。考えられていること。そのままでいい。

ただ、それを「私が経験している」という解釈を一枚はずしてみる。すると、最初から「私が経験していた」のではなく、ただ経験があった。ただ、これがあった。

その単純さに気づく。それだけなのかもしれません。今回はかなり「感覚に直接触れる」方向で、説明を増やしすぎないように書いてみました。 by Claris