文句を言いたい自分

自分は昔から何に対しても評論したがる傾向があったようです。今でもそうした部分は残っています。学生のときの仲間にも、同じような友人がいました。

今思い出しましたが、社会人になりたてのときの先輩に、評論家と呼ばれている人がいました。どこにでも、一人や二人、そうした「うるさがた」的な人はいるものですね。

またどんなジャンルにも評論家と言われるような人がいるものです。例えば、政治評論家、映画評論家、スポーツ評論家など、本当に様々です。

そうした人たちは勿論それで生計を立てているわけですから、私や職場の先輩のような素人評論家とは比べ物にならないくらい、知識も豊富ですし分析の能力もすぐれているのでしょう。

そして、私たちはプロの評論家と呼ばれるような人たちの言った言葉や書いたものなどを参考にして、それを便利に活用しているという面がありますね。

しかし、評論というものは少し間違えば批評や批判につながります。そうなったら、冷静な評論というよりも文句の類とほとんど同じになってしまいます。

人は誰でも心のどこかに、自分の外側の何かに対して批判したい、文句を言いたいという欲求を持っています。実際に態度に出すかどうかは別として、そうした気持ちがあるのです。

それは生まれたときから死ぬまで、一生を通して持ち続けてしまうものなのです。文句は、自分以外を批判することで反対に自分は正しいということを証明することに繋がるからです。

文句を言いたい自分というのは、実は誰かを否定することが本当の目的ではなく、それによって自分を守ろうとする行為であるということに気付くことです。

幼いうちは、それが表面化しやすいため、子供は親によく文句を言うのです。駄々をこねるというような表現があるのも、文句を言う表現の一つです。勿論子供と言えども、何かの理由でそういう子供っぽさを出せずにいる場合も沢山ありますが。

しかし、いずれにしても成長するにつれて、そうした文句を言いたい自分を抑えて表現しなくなるようになっていきます。そうやって、本音と建前のような二重構造になっていくのです。

つづく

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