あまりにも自明すぎる全体性

以前にも書いたことがあったと思うのですが、会社員の頃にステレオグラムに嵌ったことがありました。みなさんは、そのステレオグラムを覚えているでしょうか?

今でも、本は売っていますし、ネットでも沢山の画像を見ることができますね。ステレオグラムというのは、平面上の画像に立体的な要素が隠されているものです。

一度コツをつかんでしまえば、いとも簡単に隠れていた立体が浮かび上がってくるのを経験することができます。

それは何と言うか、外側には何の変化もないのに、自分の知覚が急に変化してしまうことによる見え方の激変を体験するわけです。

不思議なことに、その画像の中に立体を見ている状態になると、どういうわけか普通に見ているときと比べて緻密さが出てくるような気がします。

どうすればそれが見えるのかが分からない人にとっては、初めとても難しいことのように思えるかもしれませんが、一度でも経験した人からすれば何と簡単なことかと分かるのです。

これって、個人としての自分が一瞬にして全体であるものに変容する感覚と似ているように感じます。

けれども、ステレオグラムを見るときよりももっと容易く全体性を感じることができますし、個人の感覚と全体性は両立します。

同時に両方の感覚を感じていることが可能です。それは、ステレオグラムとはまったく異なる特性ですね。ステレオグラムは、普通の見方と立体のどちらか一方しか見ることができません。

全体性を感じるのには何の努力も工夫も必要ないということも、ステレオグラムとは違うところです。あまりにも簡単すぎて、説明ができないところも違います。

ステレオグラムの場合には、視点にある操作をすることによってその状態に持って行くのですが、全体性は実はずっと生まれたときからそれが途切れたためしがありません。

ただいつも「在る」ものを見ないようにしてきただけなのです。簡単すぎることは、私たちはとかく敬遠しがちだということも、分からなくなってしまった要因の一つかもしれません。

誰もが本当はわかっている、この全体性にはっきりと気づくときが確実にやってきます。分からないというのは、呼吸をしていることを忘れているというのに似ています。

でも呼吸していることに意識を向ければ、それに気づけない人はいません。それと同じことです。そのくらい当然の感覚なのです。

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