嫉妬のメカニズム

誰のマインドにも嫉妬の仕組みが備わっています。つまりは、嫉妬深い人であれあまり嫉妬をしない人であれ、同じく嫉妬するメカニズムはあるということ。

なぜなら嫉妬というのは、そもそもが生物としての生存本能からやってくると考えることができるからです。

だから人間でなくても、知能の高いワンチャンや猫ちゃんでも嫉妬をするのを目撃することがありますね。

ただし、人間の場合はそこに心理的な要素が加わることで、そこそこ複雑な嫉妬をするようになったのです。

嫉妬心は大切なあなたに捨てられたら自分は生きていくことができないという切実な恐怖心と怒りのブレンドからできているのです。

無力な幼児の時に、親から見捨てられるかも知れないという恐怖を植え付けられてしまうと、それが大人になっても色濃く残ることになるのです。

そうなると、彼氏が別の女性と話しをしているだけで嫉妬心がメラメラと燃えてくるのです。そのエネルギーが強すぎて、理性では抑制できなくなることもあるでしょうね。

もしも自分の嫉妬心を持て余しているという場合には、繰り返し幼い頃の見捨てられ不安(恐怖)の物語を思い出して、その時の感情を味わうことです。

恐怖と怒りの混合物である嫉妬心の中にしっかりと入り込んで、かつての幼児を救ってあげれば嫉妬は小さくなっていくはずです。

柔らかくある人

この社会で素晴らしいとされているものは沢山あります。向上心とか、探究心、正義感、信念、根性等々。

ただこうしたものも、一つ間違えると面倒なことを引き起こす原因にもなり得るのです。なぜなら、それらはすべて自我のものだからです。

たとえば信念というのも思考の一つであって、そこから頑なさというものを伴うならば、柔軟さに欠けることになるのです。

あまり世間的には評価されにくいかもしれませんが、私は人の柔らかさというものにいつも注目しています。

柔らかい人は、正しさに価値を見出さない人です。凝り固まったような信念も持ち合わせていないし、特別こうじゃなければいけないというのもないのです。

身に起きることに対して、その瞬間瞬間に柔軟に応答することのできる人。あらかじめ決まった答えを持ち歩いていないということです。

特定の誰かの意見に味方をするのでもないので、時として優柔不断と思われるかも知れませんが、要するに流れている人です。

生の流れと共にいる人は、この柔らかさをいつも携えているのです。これこそが自然でいることにつながるのだと思います。

自我は今を満足できない

自分のことを自我だと思い込んでいる人にとって、最も喜びに溢れる時というのは、もうすぐ願いが叶うという瞬間なのです。

望んでいたことが実現してしまった時というのは、もうすでに喜びのピークは過ぎた後だということを、子供の頃に知っていました。

たとえば、子供の頃週末になるとボーリングに連れて行って貰うことを凄く楽しみにしていました。

その頃はスコアを手書きでつけるのが普通でしたので、ボーリング場に行き、実際にボーリングを始める前に、そのスコアシートをもらってくるのです。

私の記憶では、そのシートを受付でもらってきたときが一番嬉しくて、その興奮が少しずつさめた辺りで実際にボールを投げる感じでした。

年頃になって、大好きな人とデートできることになった前日の夜、興奮は最高潮に達するんですね。

不思議なことですが、実際のデート中よりも喜びのピークは高いのです。デートが楽しくないわけでは決してないのですが…。

いいやそんなことはない、宝くじがあったたらその瞬間が一番嬉しいはずだからと言う人がいるかもしれません。

けれども、その場合も宝くじが当たって嬉しいのは、そのお金で好きなものを買えるからなのです。

つまりは宝くじが当たった喜びというのは、この後何でも好きなものが手に入るという直前のワクワクした喜びなのです。

このことから分かることは、自我というのは近未来を予知して喜ぶものだということです。それが実現してしまえばピークは過ぎて、また別のものを探し出すのです。

自我は今手に入っているもので満足することはできないのです。もうまもなく手に入るだろう未来を見ているときにだけ、喜びを感じる生き物なのですね。

結局今この瞬間には実在しないものへの「期待感」を頼りに生きている不思議な生き物、それが自我だということです。

簡単に言えば、自我は今この瞬間がどうであれそれに満ち足りるということができないのですね。

助け合いと分かち合い

今世界中を恐怖に陥れている武漢風邪ですが、これまで見たこともないくらいの経済的な大打撃がやってきそうです。

とても一時的な災難のレベルでは済まないでしょう。私の長い人生でもこれだけの世界規模でのピンチは初めてだと言えます。

よくピンチの後にはチャンスありと言われますが、このウイルスを恐れる集団催眠から導き出されるチャンスとは一体どういうものでしょうか?

そこをよくよく見据える必要があると思います。きっと多くの人がこれは絶対に大丈夫と思っていたものが、崩れ去っていくのかもしれません。

逆にこれまであまり光が当たらなかったところが脚光を浴びるようになるのかもしれません。

外側の世界にばかり目を向けて来た多くの人々が、内側を意識するようになる大きなチャンスが到来するのかもしれません。

マインドが追い詰められると、その奥に隠されていた信頼が表面化するのです。人々は無防備になり、助け合いと分かち合いが広がることになるような気がします。

遠隔コミュニケーションの時代へ

武漢風邪のウイルスよりも先に、それへの恐怖が蔓延してしまったおかげで、自粛要請だらけになって、生身で触れ合うセッションができなくなりましたね。

そんな中、あるクライアントさんから遠隔ヒーリングのリクエストが来たので、本当に久しぶりに施術してみました。

かつては結構な頻度でやっていたのですが、最近はとんとご無沙汰だったのでちょっと新鮮な感じがしました。

やっぱりいいですね。ヒーリングを始める直前まで何だか寒い感じがして、自室に暖房を入れていたのですが、いざ始めてみるとあっという間に汗ばんできます。

すぐに暖房を切ったのですが、終わる頃にはポカポカを超えて身体がかっかしてしまうほどでした。不思議ですが昔からそんな風になります。

今後はあらゆるものがリモートで行われるようになるでしょうね。ネットも5Gやその先の6Gといったように進化すれば、人とのコミュニケーションも立体映像によって、よりリアルなものへと変化するはず。

そうなっていくと、人のエネルギーに過敏過ぎて苦しんでる人たちにとっては、少しは楽になれるのかもしれませんね。

武漢風邪=瞑想チャンス

私たちのマインドというのは、時間と空間の広がりの中をあっちに行ったりこっちに行ったりして飛び回ることで生きています。

勿論この場合の時空の広がりというのは思考の中での話しですので、実在とは何の関わりもありません。

この時期、武漢風邪のせいで外出の自粛をしているときでも、マインドは彼方此方と飛び回っているわけです。

この自覚は誰にでもあるはずですね。マインドはこうして想念の時空を駆け回っているのです。

もしもあなたの身体と同じようにして、自宅のなかでゆったりとして今この瞬間にここだけにいるなら、マインドは停止してしまいます。

その練習をするのが瞑想ということになります。身体が忙しく物理的な時空の中を動き回っているときには、あまりチャンスはありません。

だから今この時期が瞑想のチャンスなのです。身体が静かに落ち着いている時、部屋の中でマインドを今ここに留めておくのです。

武漢風邪のせいで窮地に追いやられている人が沢山いますが、瞑想の大チャンスがやってきているという見方もできますね。

準備万端にしておく

究極のことを言ってしまえば、私たちが真に救われるためにはただ目覚めること以外にはありません。

お金持ちになっても、欲しいものが手に入ったとしても、どんな希望が叶ったとしても、それはすべて同じこと。

自我にとってはそれは嬉しいことかもしれないけれど、自我の興奮はすぐに終わってまた次の欲しいものへの渇望が始まるのです。

だからこの生を、あるがままの生を人生と勘違いしている限りにおいては、本当の救いにはならないということです。

それはたとえば、眠りの中で夢を貪っている人がいたとして、その人の夢の中に介入してその夢をハッピーなものに変えてあげたとしても、それはただの夢に過ぎないのと同じこと。

その人を救うには、あなたは今夢の中にいるんだよと教えてあげること。そして夢から覚めるように身体を揺さぶってあげること。

そうやって揺り起こしてくれるのがマスターですね。でも身近にはそんな人いないので、何かの力を待つしかないですね。

勿論ただ待つのではなく、それがいつ自分をノックしてくれてもそれと分かるように準備しておくことが大切です。それが瞑想かもしれませんね。

目的地はここ

日本には様々な「◯◯道」というのがありますね。柔道とか、剣道とか、合気道、武道、花道、茶道等々。

で、道というくらいですからどこかへ向かって進んでいくというのが共通している根っこにあるものです。

道はエンドレスに続いていく場合もあれば、目的地がある場合もあるのですが、いずれにしてもその道に沿って進んでいくためのものです。

何となく進んでいく先には、何か期待できるものが待っていてくれている、素晴らしい目的地があるような気がしてしまいます。

ところが仏陀は、進んでいくべき道などないと言っているのです。あるのは「ここ」だけだと言うわけです。

この真っ向から異なる主張をどう捉えたらいいのでしょうか?私が思うにどちらも当然間違っているわけではありません。

道があるかのようにして進んでいく必要があるのは、私たちが自我と同一化してしまっているためなのです。

どの道であれ、その終着点はどこか知らないところではなく、「ここ」なのです。ここ以外にはどこもないのだということを仏陀は言いたいのでしょう。

目指すべき目的地が本当になくなったとき、身を持ってそのことを知ることになるのでしょうね。

当事者意識はいらない

これが自分だと思っている自分、つまりそれが自我なのですが、その自我というのはいつも自分の人生の当事者だと思い込んでいるのです。

あらゆる体験にはそれを体験する当事者としての自分がいると思ってもいるし、選択や決意についてもそれをする当事者としての自分がいると信じています。

だからこその罪悪感だったり、あるいは手柄感がやってきたりするわけです。ただし、ときには激しい防衛によって無意識的に当事者ではないような顔をする人もいます。

罪から逃れたくて、失敗した惨めな自分から逃れたくて、それはまるでお笑いのネタのようにして、誰かのせいにしたりするのです。

が、それはあくまでも防衛からくる無意識のなせる技ですね。一方で、癒しを進めていくと不思議なことに当事者意識が薄れてくるのです。

自我は自分がやったことだと言い張ってはいるものの、癒しと共に自我との距離ができてくることによって、まるで人ごとのように感じ出すということです。

そうなると、罪悪感は小さくなってしまうし、手柄もなくなってしまいますが、一番都合がいいのは否定される恐れも小さくなってくれるのです。

当事者意識が薄れてくると、何が起きても飄々とした風情を醸し出すようになるかもしれません。いつもどこかで人ごとのように感じているからですね。

意識的に生きれるようになると、この当事者意識から離れていくようになるのです。その気楽さは格別ですね。

選択とは執着と拒絶

覚醒した人は、よく無選択でありなさいといいますが、これは自我(マインド)にとってはとんでもないことです。

なぜなら、マインドは常に何かを選択し続けているからです。選択せずにいたら、マインドはもたないでしょう。

だから無選択であれというのは、マインドに死ね!と言っているのと同じなのです。ところで選択というのはどういうマインドの働きでしょうか?

どちらか一方を選ぶというのは、極端に表現すれば選んだ方に執着するということであり、選ばなかった方を避けるということです。

この執着と避けることを同時に行うことを選択と呼ぶわけです。もちろんそれほど強い意志のないレベルの選択もあります。

そのときには、マインドはあまり使われていないということですね。その逆にどう考えたってこれを選択するという場合には、執着と回避をしているのです。

つまりレベルの差こそあれ、選択というのは執着と回避(拒絶)がマインドの中で行われているということを知ることです。

このことを知るにつけ、やはり選択というのはあまりお勧めできるようなものではないということになります。

明日から、選択する数を減らして行けるように意識してみるのもいいかもしれませんね。