個人という狂気

自我の根本的な病みとは、自分は他と切り離された独立した存在だという信念を持っているところだと思っています。

その自我のほんの一瞬の隙をついて、全ては繋がっている、分離など存在しない、全ては一つという感覚を体験した人も多いのではないでしょうか?

会社員時代の同僚の男性が、あるときガンの告知をされて病院からの帰り道に、道端に生えている雑草と一つになるという体験をしたそうです。

きっと彼の自我が前途に絶望してしまったために、ほんの少しの間だけ自我の不在状態になったのでしょうね。

だから全ては一つだという感覚になったわけです。彼はその後、誤診だったことがわかり、晴れて明るい自分を取り戻したそうですが。

かつてスピリチュアル系の人たちの間で、ワンネスという言葉が流行ったことがありましたが、これも同じことですね。

私の場合は、少し傲慢に聞こえるかも知れませんが、全ては一つというよりも、自分が全てだったという驚きに近いです。

もちろん、その自分とは自我のことではなく、純粋な意識のことを言っているのですが。何であれ、個人という狂気を、驚嘆の気持ちで眺められるようになるといいですね。

ノールールで生きる

より自然により自由に、というのを別の言葉で表現すると、自分自身に対して何も押し付けないこと、人はいかに在るべきかという観念を持たないこと。

ノールールで生きること。もちろん、社会の中で生きている限りは最低限のルールは守る必要があるはずです。

けれども、内側では常にノールールであることです。ただ、どうしても懲罰的な考えがやってきて、自分を縛ろうとするのです。

そんな時には、その考えを受容してあげればいいのです。もしもカルマによって地獄に落ちるとしたら、それは自分自身がそうさせているのです。

あなた以外の誰にも、裁かれることなどないと理解すること。とある霊視のできる方の動画によると、人は死ぬと霊界というところに行くらしいです。

そして、生きている間の所業によって、その報いを受けるためにそれぞれに見合った霊界の場所に行くのだとか。

もしもそういうことが本当にあるとしたら、それはやはり自分自身の思考によるのだと思います。罪悪感などが自分に懲罰を与えようとするのです。

生きている間に、なるべく罪悪感を恐れることなく過ごすことができたら、きっと死後霊界に行ったとしても大丈夫だと思います。

私は個人的には霊界にもこの世にも戻ってきたくないですけどね。 

自我は執念深い

osho がよく言っていたことですが、現在というのは時間の一部ではないということ。現在は永遠の一部だということですね。

私たちは常に時間の流れの中で過ごしていると感じています。ということは、現在という永遠を見失い続けているのです。

人生物語は時間の流れの中にしか見つけることはできません。あなたがマインド(自我)から生きていれば、必然的にそういうことになるのです。

独り静かにいて十分に意識的であると、時間の流れから解放されてずっと継続する現在にとどまることができる感じはするのです。

けれども、一度誰かがやってきたり何かが起きると、私のマインドが一瞬にして立ち上がって、物事を支配し始めてしまうのです。

私の自我は時間の中にしか生きられないので、現在の中にくつろいでいる間も戻って来れるチャンスを伺っているのでしょうね。

そして戻ってきたら、現在のことを忘れてしまえとばかりに、過去や未来のことばかりを考え始めるのです。

こうしたことの繰り返しが続いていて、何が起きても自我に戻らずにいられるなんてことを、想像することも難しいですね。

聞いた話しですが、数十年もヒマラヤの洞窟で瞑想をしていた人が、もう自我に戻ることはないだろうと思って、下界に降りた瞬間に自我が活躍し出してしまったらしいです。

自我の執念深さは尋常ではないですね。

在ること、成ること

自分に対して、何だか自信がないという人が大勢います。そんな時、自分の何に対して自信がないのかを見てもらいます。

自分の能力、経験、成果、あるいは自分の外見、このようなものを全部傍に置いたうえで、最後に残った自分の何に自信がないのかを見てもらうのです。

それは自分の存在に対して自信がないのだということに気づくのです。なぜすぐに気づくことができないのかというと、自分の存在に対して日頃から意識を向けていないからなのです。

人生という物語の中では、自分の存在というものがクローズアップされることがないからなのでしょうね。

いつも自分の身に何が起こったのかとか、どう思われているのかなど、どう評価されているのか等々、全て自分の存在とは無関係のものばかり。

つまり、自分はどう成っていけばいいのかということだけに焦点が当てられているわけです。それは、自我の範疇のこと。

それに対して、自分の存在、ただ在るということは自我とは無関係なのです。けれども、存在に意識が向くことでしか、真実を感じることはできないのです。

騒がしい自我を少しの間だけでも傍らにおいて、ただ在ることにのみ意識を向けることです。その時には、人間という範疇からはかけ離れた存在を感じ取ることになるはずです。

科学は客観、宗教は主観

アインシュタインの言葉で次のようなものがあります。『宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。』

確かに時々ふと思うことがあるのですが、宇宙の成り立ちや構造などを解明しようとして、頑張ってきた人類の歴史があります。

ほんの一部かも知れませんが、実際に例えば量子力学がなければスマホの出現もありませんでした。私たちの知らないところで、その理論は使われているのです。

なぜ人間が宇宙の一部を解明することができたのか、本当に不思議な感じがします。人類が宇宙の一部だから、などともっともらしいことを言われてもあまりピンとこないのです。

ただし、どれほど科学が発展したとしても、客観的な観測をベースとする科学では、明らかに限界があるのだろうと思っています。

というのも、真実は全くもって主観的なものだからです。そして主観は決して測定することができないからです。

主観を宇宙の中で共有することは不可能なのです。主観は宇宙とは次元が異なるのです。それを宗教と呼ぶらしいですね。

もちろん、私たちが普段イメージしている◯◯教と呼ばれるような、宗教組織で教えているようなものとは違います。

そこには本質的にはどんな教えもありません。あるとすると、それは方便でしかないはずです。共有できないからこそ、それについて語る時には方便となるわけです。

客観的世界と主観的世界の両方に、いつもまたがっているようにして生きることができるといいなと思っています。

過去のエピソードを見直す

以前プロのキックボクシングの選手が言っているのを聞いたことがあるのですが、試合中はスネなどを何度も蹴られても、ほとんど痛みを感じないらしいですね。

試合が終わって、猛烈に出ていたアドレナリンが収まってくると、途端に蹴られてミミズバレになっているところが腫れて、しかもひどく痛くなるのだとか。

試合中は、脳が痛みを麻痺させて感じないようにしてしまうのですね。つまりは、痛みの自覚がなくなっているわけです。

自覚があろうがなかろうが、身体は大変な傷を負っていることに変わりはないわけで、それは身体だけでなく、心でも同じようなことが言えるのです。

例えば、怒りを抑える三つの要素があるのですが、それは恐怖と罪悪感と自己否定感です。この三つのうちのどれか一つでもあると、怒りは抑えられて感じなくなってしまうのです。

この場合も、怒りがないわけではなくただ単に抑えられて心の奥底にしまわれてしまうだけなのです。したがって、このようなことが続けば、いずれその怒りは爆発することになるのです。

幼い頃に安心できずに、不安や恐怖の中で過ごしてしまうと、本人の自覚がないままにさまざまな感情や無邪気さなどが抑えられてしまうのです。

それが後々人生のあらゆる場面で好ましくない影響を与えてくるのです。幼い頃の自分には自覚がなくても、大人の自分が過去のエピソードを見直して本当の気持ちや感情に気づいてあげること。

催眠療法にはそうした効果を期待することができるのです。ご興味があれば、ぜひ一度試してみることをお勧めします。

無目的の人生

私たち人間は、頂上を求める生き物ですね。7合目や8合目では決して満足することができないのです。頂上が大好きなのです。

そして、一つの山の頂上を制覇したなら、今度はまた別の山の頂上を目指すことになるのです。それも間髪を入れずに続いて行くのです。

多くの人がその途上で生きているのです。仮に全ての山の頂上を制覇してしまったなら、今度は制覇した回数を競うのです。

あるいは、より難しいルートを選んでみたり、制覇した人の中の最高年齢を更新することにチャレンジしてみたり。

こうした営みに対して善悪は勿論ないですし、本人のやりたいだけやり続ければいいと思うのですが、いつの日か目指すことから解放されたいとは思わないのかなと?

偉業を成し遂げる系の人生は、どうしても自我を強大にしてしまう傾向が強いと思うのです。途上で終わるのか、燃え尽きて終わるのか、どちらにしてもあまり好みではないのです。

より自然に、より自由に生きていくためにはある意味動物のように、幼な子のように生きることが大事ではないかと。

動物や幼な子はみんな無目的で生きています。大人になったとしても、外側では社会に順応して、内側では野生のままでいること。

それができたら素晴らしいなと思うのですね。

信念が邪魔をする その2

昨日のブログでは、信念が自然で自由な人生を妨害しているということについて書きました。今日はそれの補足になります。

というのも、信念は自分の信条や確固とした生き方のためには、絶対に必要なものだから決して悪いものではないと思っている人が大勢いると思うのです。

なので、一つ事例を挙げて話してみたいと思います。例えば、あなたが「弱音を吐いてはいけない、強くあれ!」という信念を持っていたとします。

するとどうなるでしょう?この社会という荒波の中で負けずに強く生きていくためには、必要な良い信念のように捉えることもできますね。

けれども、深く見つめて見れば分かるのですが、もしも幼い頃からこんな信念に乗っ取られてしまえば、辛く苦しい人生が待っているのは当然なのです。

人間は元々弱い存在です。特に幼い頃というのは無力で弱虫で、一人では何もできないか弱い存在なのです。

そのころに、親などから弱音を吐いてはいけない、強くあるべき、という信念、正しさを与えられてしまったら、自己否定とともに生きる人生が待っているはずです。

そして、何か不満があったとしても自由に自己表現することもできなくなってしまいます。なぜなら、それは弱音を吐くということに繋がる感じがしてしまうからですね。

もうお分かりだと思いますが、弱音を吐くことは別に悪いことではなく、いたって自然なことなのです。

強くある必要はなく、自然で自由であればいいのです。信念はなければないだけいいということを、少し実感してもらえたかなと思います。

信念が邪魔をする

私たちのマインドというのは、誰のものであれ同じ仕組み、同じメカニズムで動いているというのが私の考えの根っこにあります。

それなのになぜ、個人個人で考え方や生き方が大きく違うのでしょうか?そこにはさまざまな要因が隠されていると思うのですが、その中の一つである信念について考察してみようと思います。

信念というのは、強く信じ込んでしまった考えのことです。つまり単なる思考には違いないのですが、その思考が信念のレベルまで固められると、本人にとっては真実となってしまうのです。

そのために、その人の人生に大きな影響を与えることになるのです。信念の一つに、自己イメージというのがあります。

自分とは◯◯に違いないという信念とマッチするものは受け入れて、異なるものは受け入れられないのですから厄介です。

ということは、生きれば生きるほど信念は更に固くなってゆくため、年齢を重ねてから信念をアップデートすることがどれだけ大変なことになるか、想像に難くありません。

私たちが自己イメージに縛られて生きていかざるを得ない理由がここにあるのです。自己イメージの他にも、私たちはたくさんの信念を持っています。

その人に特有の正しさ、正義感、倫理観や道徳感、その他にも私たちが持っている信念はそれこそ多岐に渡るのです。

私は本質的には信念不要論を標榜しています。何かを信じるだけでもそれに縛られてしまうのに、それが信念のレベルにまで固められれば、そこからやってくる縛りは相当なものになるのです。

私のモットーである、より自然に、より自由に生きるということを実現するために、最も邪魔になるのが信念ではないかと思っています。

一度持ってしまった信念を簡単に無くすことはできないのですが、そのことを知って不要な信念を使わずに生きるということはできる気がしています。

自分が持っている信念をできる限り洗い出して、その馬鹿馬鹿しさに気づくことができれば、その信念から離れて生きることができるかなと思っています。

母親崇拝は危険

人が3人集まると、そこにはさまざまな人間模様が生まれます。あなたとAさんとBさんの3人のグループをイメージしてみてください。

あなたが最も恐れるのは、AさんとBさんが仲良しになり、2人が結託して自分を否定してきたりすることだと思います。

そうであるなら、あなたとAさんやBさんとの関係はともかくとしても、AさんとBさんがあなた抜きに仲良くなるのが一番危険なわけです。

あなたが病んでいるなら、あなたに最も好都合な状態とは、あなたとAさんは仲良しで、あなたとBさんも仲良しであって、しかもAさんとBさんは競い合う関係であることです。

表現は悪いですが、AさんとBさんがあなたを求めて競い合う状態がベストなのです。この関係性を維持できるなら、あなたはやりたい放題になるはずです。

こうした関係性が家庭内で起きることもあるのです。大体の予想がつくと思いますが、お母さんが子供達をうまく支配したい時に、似たような戦法を使うのです。

子供達は、誰もがお母さんは絶対、いつも正しいと思い込んでいるだけでなく、お母さんに自分が一番だと思われたいとして、互いに競い合う関係になるのです。

こうなると、子供達はお母さんのことをある意味崇拝するようになるので、口答えはおろか正直な表現もできなくなってしまうのです。

その結果はもう明らかです。兄弟同士は大人になってもなぜか仲が悪い状態となり、一人ひとりは他人と対等の関係を作るのが難しくなってしまいます。

そうして、自己表現ができなくなり結果としてあらゆる自己犠牲を自分に強いる人生になってしまうのです。

このような場合には、母親を崇拝してしまっていた時代のことをしっかりと思い出し、どんな我慢や抑圧をしてきたのかを明らかにし、蓄積している感情を解放してあげることです。

時間はかかるかも知れませんが、母親への崇拝が解けてくればもっともっと生きやすい人生へと変わっていくはずですね。