マインドの中の欲張りさん

私たちのマインドというのは本当に欲張りだなと思うのです。興味の対象は、現状何を持っているかではなく、次はもっとより多くを手に入れたいということなのです。

手に入れるまでのプロセスを楽しむというように、ポジティブに表現すればできなくもないですが、所詮はもっと欲しいのです。

欲しがるものはお金なのか、あるいは快楽なのか、はたまた地位だったり名誉だったりもするわけです。

そうした欲望を欲しいままにするのに、一番必要なものとは何だと思いますか?それは権力なのですね。

自分は権力などには全く興味がない、そう思っている人も大勢いると思いますが、実際に権力を手にしてしまうと変わってしまうものです。

それは大抵の政治家の態度を見れば明らかです。彼らが生まれながらに貪欲だったわけではなく、権力が彼らをそうさせたのです。

権力を持った人を見れば、人間のマインドの欲張りさ加減が明瞭になりますね。共産主義国家のトップになると、もうやりたい放題になってしまうのも当然なのです。

今、家を建て替えるための資金を作るために、ある資産を競売にかけているのですが、欲張るといい結果が出ないだろうと思って、自重しようと思い返したところです。

自分のマインドの中の欲張りさんを、しばらく見張っていようと思っています。

死のプロセスを見守れるか?

私たちは、自分の1秒と他人の1秒が違うなどということを考えたこともないし、そんなことはあり得ないと信じて疑わないのです。

時間というのは、普遍的なもので誰にとっても同じように流れているものだという信念を持っているからです。

ところが、100年も前に相対性理論の中でアインシュタインは、高速で移動すると、停止している人よりも時間の進み方が遅くなるということを証明したのです。

このように私たちの信念、常識は無惨にも見事に覆されてきたのです。それは物理学の進歩とともに、これからもいくらでも起きてくることだと言えます。

それと同じようにして、他人から見える私の姿と、自分自身から見える自分の姿とは似ても似つかないものなのです。

と言ったところで、ほとんどの人がその意味を理解することはできないはず。なぜなら、鏡に映った自分の姿が、そのまま自分の本当の姿だと信じて疑わないのですから。

それが酷い思い込みでしかないということに、死ぬまでに気づけるかどうか。私の場合は運よく気づくことができたのです。

けれども、それはどうということはないのです。本当に大切なことは、それをずっと維持していくことなのです。それがとても難しい。

すぐに鏡の中の自分、他人が見ている自分の姿こそが本当の自分なのだという思い込みの世界へと戻されてしまうからです。

自我としての自分、他人から見られる自分が死にゆく時に、そのプロセス全体に対して、高みの見物をしていられるかどうか。

それこそが、真の自己を忘れずにいられるかどうかにかかっているのですが、正直言ってあまり自信がないですね。

本質を感じるコツ

自分の本質の感覚を手に入れようとするなら、少しだけコツが必要かも知れません。慣れてしまった人の場合はともかく、慣れてないうちは少しずつ近づくしかありません。

それは、兎にも角にも自我を鎮めること。自我は表面を覆っているだけのものでしかないのですが、それが暴れてしまえば1cm奥に戻ることも難しくなってしまうのです。

だからまずは、地道なことではあるのですが、自我の興奮を落としていくこと。楽しいことや愉快なこと、あるいは心配事などから一時的に離れるのです。

それにはほんの少しの決意が必要かも知れません。なぜなら、自我はどんな興奮も自分から手放そうとは考えないものだからです。

それでも何とかなだめすかして、自我を無言の状態にしていくのです。あるいは、自我だって自分の本質を知りたいという欲望があるので、それを利用するのもいいと思います。

そして、ゆっくりと自我から離れていって、静寂の方へと近づいていくようにするのです。初めは、ここでへこたれてしまうかも知れません。

それよりも先などないと感じるからです。けれども、もう少し、もう少しとジリジリより深くへと入っていくと、また感覚が変わってくるのです。

ここで一切の見ることを放棄するのです。目を閉じていても開いていても、何も見ない。というよりも、見ることや見ないことから離れるのです。

そしてどこまでもどこまでも際限なく中心へと向かいながら、中心そのものも消えていくようになるかも知れません。

ただの背景のような感覚がやってくるかも知れません。その先は、もう何も…

滑稽な自我と本当の自己

自分の自我の雑然としたエネルギーが、少し静かになっている時には、本当の自己のあの感覚が目立ってきてくれます。

それは一言で言えば、空間的な広がりであり、とにかく何もなさなのです。それにはどんな特徴もなければ、特筆すべきどんなものもありません。

ということは、あなたの本当の自己についても全く同じことが言えるわけで、そうなるとどのようにも両者を区別することができません。

つまり、私の本質とあなたの本質はそっくりだとか、ほぼ同じような物ということもできない。そう、完全に一つであるしかないと分かります。

だとすると一体どういうことになるのだろう?と考えると、勝手なイメージが湧いてきます。この世界にはそれしかないのに、それ以外のものしか認識できないでいることの不思議さ。

私たちが日頃五感を使って見たり感じたりする一切合切は、表層的なまるで夢のようなものであって、それは起きてはすぐに消えていくものばかり。

永遠に変わらないものは本当の自己しかなく、地球上で言えばそこから80億人の目を通して、その夢を共有している。

そうそう、それは私たち人間だけに限られたものではなく、あらゆる動物や植物も含まれるのでしょうね。

なんてことをつらつら巡らしていると、自分の欲望を叶えるために必死になっていることがすごく滑稽に思えてきたりするのです。

そんな滑稽な自我と本当の自己の両輪で生きていくことしか、どうやらできないことが分かってきた感じです。

成長の証

人間である私たちが、誰かの言葉に服従するようなら、それは不自然なことだと気づかなければなりません。

ましてや幼い子供が親に服従しているようであれば、それは大変なことが起きているということです。

子供は遅かれ早かれ、いつかは親に逆らう日がやってきます。それは奴隷にならないためには絶対的に必要だし、それが成長の証なのです。

余裕のない親は、子供が自分に服従せずに逆らってくると、それを喜ぶどころか悪いことだと判断して、なんとかして奴隷のままでいさせようとするのです。

そのためには恐怖を使う場合もあるし、子供の罪悪感を使うこともあるし、あるいは少し複雑なやり方として遠回しに子供が自ら自己否定するように仕向けることもあるのです。

親のあの手この手によって服従が長く続けば続くほど、子供の心の闇は大きくなっていってしまいます。

親への服従が解除されて逆らう時がやってくるのは、早ければ早いほどいいのです。そうでなければ、子供の人生が台無しにされてしまうからです。

クライアントさんがセッションに来られて、生まれて初めて親に逆らってもいいんだと気づく場合も少なくありません。

正直びっくりですが、それでも気づけたことを喜び、できるだけ早く自らを解放して自然で自由な生き方を取り戻すことが、何よりも大切なことなのですね。

物理的距離と心理的距離の違い

親というのはとかく子供のことをあれこれと心配するものですね。特に、一般的に言えば母親の方が父親よりも子供との距離が近いということもあって、母親は子供のことを心配するのが仕事、みたいなところがあるのです。

これは母親自身の内面の不安を、子どもに投影してしまうことから起きるものです。それがひどくなると、過干渉と言われる状態になったり、口うるさい母親にもなるのです。

母親からあまり興味を示してもらえなかったと感じている人にとっては、母親から関わってきてくれるのだから有難いことだと思うかも知れません。

ただし過干渉や心配性の親というのは、子供への関わり方が一方通行なので、子供の側からすると分かってもらった感が不足しがちでもあるのです。

つまり関わってもらっているように見えても、実際には心の繋がりは希薄になってしまうのです。その不満はとても大きなものになってしまう可能性があるのです。

わかりづらいことかも知れませんが、過干渉や心配性の母親に気持ちを受け止めてもらうということはほぼ無理だということです。

かえって普段はぶっきらぼうであまり会話もしないような父親の方が、いざとなったら子供の気持ちを理解してあげられるという場合だって少なくないのです。

物理的な距離が近くても、気持ちを分かってもらえなければ心理的距離は遠いままになってしまうのです。

たくさん関わってきた自負がある親からすると、子供との距離は近いと感じることもあるかも知れませんが、逆に子供側からは親との距離を取るようになってしまうのです。

親自身が自分の不安を投影してしまっていることに気づいて、癒しを進めていくことが是非とも必要ということですね。 

記憶の捏造

昨日のブログの続きとして読んでください。昨日のブログを読んでない方は、まずそちらを読んでからこっちに戻って来て下さい。

その女性歌手の名前が知りたくて、ネット検索した結果、たった一人だけ聞き覚えのある名前を見つけることができたのです。

その人は、アストラッド・ジルベルトという女性で、あの当時かなり有名なボサノバの歌手だったようです。

これだ!とうとう見つけたと思って、これまたネット上にある彼女のアルバムを順番に聞いてみたのですが、どうも知らない曲ばかり。

その上、なんだかあまり魅力的な曲が見つからないのです。歌声や歌い方は、ああこの人かも知れないとは感じるものの、どうもいまいちヒットしないのです。

そこからつらつら思い返していたら、あれ中学1年2年の頃にどうやってアルバムを一枚買うことができたのだろうか?

さらには、自分の部屋にレコードを聴く機材なんてなかったんじゃなかったっけ?というとんでもないことを思い出したのです。

中学3年の時に今の住所に引っ越してきてから、ステレオプレーヤーを買ってもらったんだった。じゃあ、あの記憶って捏造?それもピンとこないなあと。

結局アルバムを見つけられないどころか、記憶そのものが辻褄の合わないものとなってしまい、この件はしばらく保留にすることに。

都合の悪い出来事があると、思い出し難いというだけでなく、その周辺の記憶も曖昧にされて場合によっては操作されてしまうということなんですね。

所有物を傷つけられるトラウマ

中学1年か2年生の頃のことですが、ボサノバというジャンルの女性ボーカルのLPレコードを買ったことがあったのです。

今ではそれが誰の歌だったのかが全く思い出せないままなのですが、とにかく物凄く気に入っていて毎日のように聞いていたのです。

するとある日、隣の部屋にいる姉が貸して欲しいと言ってきたので、あまり乗り気ではなかったのですが、しばらく貸してあげることにしたのです。

その後少し催促して無事返してもらったのですが、さあ聞こうと思ってジャケットからレコード盤を取り出したところ、あり得ない情景が目に飛び込んできました。

瞬間的に目頭が熱くなってきたのを覚えています。非常に残念なことに、大事に大事に扱ってきたレコードの表面が爪か何かでズタズタに傷つけられた跡があったのです。

まさかと思ってターンテーブルに置いて、曲を聞いてみるとなんということか、やはりその傷によるものか音飛びが発生してしまっていたのです。

実はそれ以来一度もそのレコードを目にすることはありませんでしたし、もちろんお気に入りだった曲も聴くことはありませんでした。

当然のこと姉のことを責め立てたのですが、一切反省の色を感じることはなかったのです。自分は知らないの一点張り。おまけにそのくらいはいいだろうと。

どれほど悔しい思いをしたことか、姉には全く伝わることはなかったですね。もしかしたら、歌手名すら思い出せないのは、まだそのことがトラウマのように残っているからなのかなと。

今更ながら自分でその時の悔しくてやりきれない感情を思い出して、しっかり味わってみようかなと思っているところです。

あなたは決して見つからない

テレビのドラマや映画館で映画などを見ている時に、その物語の中の演者が急に観客であるこちらを指さして、何かを強い口調で言ってきたら、誰だってビクッとなるものです。

なぜなら、観客はその物語の中にはいないつもりでいるのに、自分の存在が見つかってしまったと感じるからですね。

もちろん演者はただ単にカメラに向かって何かを言っていただけなのですが、絶対見つからない自分の存在がバレてしまったと感じて驚くわけです。

私たちは、多かれ少なかれ自分の存在が誰かに見られてると思っただけで、微妙に自然体ではいられなくなるものです。

人の視線が気になってしまうというのも同じことです。見られるということで、あらゆる判断をされることを恐れているのです。

そこから自我の防衛が始まるわけです。そうしたことから解放されたらどれほどゆったりすることができるでしょうか?

実は大変幸運なことに、私たちの本質は決して人から見られることはないという事実があります。映画館の観客と同じで、(人生)物語とは違う次元にあるため決して見られる側にはなり得ないのです。

それはただ見るだけの存在なのです。それが観照者としての自己です。姿形も何もなく、大きさも位置もない荒唐無稽な非存在。

だから自我としての自分がどれだけ人の目が怖いと感じたとしても、そんなもの放っておけばいいのです。

本当のあなたは、物語の現場から距離ゼロのところに在るのですが、決して物語の中に入っていくことはできないし、見つかることもないのですから。

物凄い印象操作

マーケッティング戦略などで商品をより売れやすくするために、さまざまな印象操作がなされると聞きますね。

そういう意味では、この社会では一般的になされていることだと言えます。ただ、操作という言葉を聞くと、どうもあまり肯定的な意味を感じないのも正直なところ。

例えば、お母さんが子供をコントロールしようとして、「お前のことをみんなが悪い子だと言ってるよ」と言えば、これはもう立派な印象操作の一つになると思います。

「みんな」というフレーズが、お前は悪い子という表現に重みを感じさせるからです。こんなあからさまな印象操作は普通はしないかもしれませんが。

ところで、印象操作というのは他者に対してなされるのが一般的だと思われがちですが、実は自分で自分のことを印象操作することも多々あるのです。

どういうことかというと、例えば幼い頃が辛い毎日だったとして、その傷を見たくないがために過去を印象操作するのです。

過去には色々あったかもしれないけれど、それはそれで成長できたし感謝するべきことの方が多いなどと考えて、自分に対してポジティブな印象操作をするわけです。

そうして、大人の自分が色々問題を抱えていることと、幼い頃の生活、体験を結びつけようとしないのです。多くのクライアントさんはこうした傾向を多少持っているものです。

印象操作を上手にやられてしまうと、起きたことをあるがままに見て、あるがままの感情を味わうという癒しの作業に、全身全霊で打ち込むことが難しくなってしまいます。

どんな印象操作をしていようとも、それを丁寧に剥ぎ取っていくことでいずれは癒しを進めていくことになるでしょうね。