コントロールしようとすることと、ただ反応することの違い

少し前に、YouTube で見つけた動画で、とても可愛らしいものがあったのですが、それは、ラブラドル・リトリバーのような大きな犬と、やっとお座りができるようになったくらいの赤ちゃんが、何やら取り合いをしているのです。

よく見ると、犬がボールのような入れ物に入った餌を食べているのですが、そばにいる赤ちゃんがそのボールを自分のほうに引き寄せるのです。

そうすると、犬はそのボールを手で引き寄せて、また餌を食べだすのですが、そのうちまた赤ちゃんがそれを奪い返すのです。

結局、数分間の動画なのですが、そのボールの奪い合いを両者で何度も何度も何度も延々と繰り返すのです。

見ていた私は、犬がそのうちウ~と唸って怒りだすのではないかとちょっと心配になったのですが、そんなことは全く無く、とにかく犬としては奪われた餌をただただ取り返すという反応をしたのでした。

もしも自分が犬の立場だったとしたら、「おい、いい加減にしろよ!」と言いたくなったはずです。でも犬は淡々と奪い返すだけで、赤ちゃんに対しては何も感じていないようなのです。

この犬の行動は、言ってみればただ自分の餌をちょっと遠くに持っていかれたので、食べるために自分の口の届くところへと、持ってくるという反応をしただけだったのですね。

これが、起きていることにただ反応するということです。けれども、私たちは大抵起きていることを「自分を守るためには」という視点で解釈してしまうために、その出来事を何とかコントロールしようとしてしまうのです。

その結果、必要以上の怒りが湧いて来たり、後々までそのことを引きずってしまって、もっとこうしてやればよかったとか、今度は仕返ししてやろうなどといったことを考えたりしてしまうのです。

思考は、ただ起きていることをとにかく都合よく「解釈」してしまうので、不必要な自己防衛のためにエネルギーを浪費してしまうのです。

起きていることに対して、コントロールしようとしているのか、ただそれに反応しているだけなのか、いつも正直に自分を見てみることがとても役に立つはずです。

ただ反応するということが習慣として身につけば、私たちはもっともっと気楽に、そして自由な人生を生きることができるのだろうと思います。

思考こそが、この自分の正体

私たちは、頭を使って絶えずあれこれ考えを廻らしています。つまり思考するということに大変なエネルギーを費やしているのです。

このことは、誰にでも大抵は理解できることですね。けれども、「私が思考する」というのも、「私」というのも、共にそれ自体が思考だったということに気づいている人は少ないのです。

つまり、「私が思考する」のではなくて、「私」こそが思考だったということです。だからこそ、思考が停止している熟睡中は、「私」も停止することになるのです。

私たちはそのことを意識がなくなるというように捉えていますが、本当に意識がなくなるのではなくて、思考が停止しているだけなのです。

もしも、本当に意識が停止していたとしたら、寝入ったと同時に目覚めたという感覚にならなければならないはずです。

けれども、私たちは目覚めたときに、寝入ってからある一定の時間が経過したということをどこかで分かっていますね。それは、意識が絶えることなく継続しているからです。

従って、目が覚めるということは、意識を取り戻すのではなくて、停止していた思考が再開されるということなのです。

でもここで、一つ大きな疑問がやってきます。それは、もしも私が思考しているのではない、私が思考を作り上げているのではないなら、一体誰が思考を発生させているのかということです。

ここにきて、ようやくブッダがかつて言っていた言葉の意味が分かるようになるのです。「すべての物事は自動的にただ起きているだけ」と。

誰かが思考するのではなく、思考そのものがただ起きていただけだったのです。それは誰のものでもないのです。

この世界の一切合財は現象が起きる場だとも言えます。それは、物質だけではなくて、空間も時間も、そして思考や感情もすべてです。

私はこの私としてあるのではなくて、思考として起きているだけだったというわけです。そして、この文章で言わんとしていることもすべてが、思考として起きたことなのです。

アウェイクニング・ワークショップ(3回目)開催

明日の日曜日(7/8)には、またアウェイクニング・ワークショップを開きます。今この時点で、どの資料を使おうかということくらいは決めてあります。

日頃自分が講座やセッションなどでお話ししている内容を、もっと詳細に時間をかけてお伝えできればいいかなと思っています。

けれども、実際にどのような話しの内容になるのかというのは、実は細かくは決めることができません。その場になって、初めて情報がやってくると思うからです。

必要な情報がどこからやってくるのか知ることはできませんが、でも間違いなくその情報はその瞬間にしか来ないということは分かっています。

前もって知らされる情報もあるのかもしれませんが、もしそういうことがあるとしたら、それはやはりそのときに知るべき情報だったということなのでしょう。

与えられる情報はいつだって、その瞬間だけのものなのです。例えば、宝くじを買うときにやってくる情報は、当選が分かるときのためのものではありません。

まさに、それを買う瞬間のためのものだということです。そういう意味からすれば、今私に与えられた情報は、ワークショップでどの資料を使うかというもののみです。

その情報が、今必要だからこそ与えられたのでしょう。ワークショップで話すべき内容を今与えられる必要がないために、それはまだ自分に知らされてはいないということです。

勿論、大まかな内容の見当はついていますが、いつも予想していたようには結局のところいかないのです。

願わくば、参加されるみなさんが大切な気づきを得て、帰って行かれることになれば嬉しいなと思っています。今からでも、まだ間に合いますので、参加ご希望の方はご連絡下さいね。

昼夜逆転生活に陥る本当の理由?

早起きすることが比較的得意だという人と、逆に夜更かしの方が好きという人がいて、それぞれ朝型、夜型などと呼んだりしますね。

若いときには、夜型の人が多く、年齢を重ねるに従って、朝型に変わっていくというようなこともよく言われたりします。

私自身も若い頃からずっと朝起きるのが苦手で、会社員のころなどは夕方くらいになってようやく調子が出てきて、残業時間が最も効率がいいという自覚がありました。

今は年齢のせいもあってか、それほど夜更かしはしなくなりましたし、朝もまずまず一定の時間に起きるようにはなりました。

こうした朝型夜型というのは、年齢もさることながら、生まれながらの体質的なものの影響というのも確かにあるのでしょうね。

けれども、昼夜逆転生活のような極端な場合を例にすれば、心理的要因についても深く見つめてみる必要があるということが分かります。

昼夜逆転生活というのは、言ってみれば反社会的な行動であるとも表現できます。本人がそれを望んでいなくても、心の内奥でそのように仕向ける部分があるということです。

社会への反抗は、元を正せば親への抵抗なのです。親が起きている昼間は、反抗の時間として使われるのです。

親の期待に応えたくても応えることができなかった自分、その苦しみを分かってもらえない怒りを訴えるために、朝寝や昼寝をして、夕方に起きるという抗議行動をするのです。

また朝起きるということは、過酷な人生がふたたび始まる時間でもあるわけで、その苦しみから逃避するために睡眠という手段を取るということもあるでしょう。

一方、夜は親や社会が寝ている時間であり、それは自分に期待し、自分を監視する目がない時間帯なのです。

それは、まさに自由を感じる時間なので何とも気持ちがよくて、もったいなくて寝てなどいられないのです。夜が調子いいのはそういう理由があるはずです。

こうしたことが更なる昼夜逆転を作り出す原因となってしまっている場合も多々あるのではないかと思います。逃げずに自分のことをしっかり見てあげると、いろいろなことが分かってきて、人間というのは何とも可愛いもんだなと思うのです。

ブレーキから足を外す勇気を

この世界の法則を一つ挙げるとしたら、それはあらゆることが変化し続けるということです。何であろうと、この法則から逸脱することは不可能です。

どんな物事であっても、何が起こったとしても、いずれは終わりがやってきます。発生したものは、消えていく運命にあるのです。

そして、最終的にはこの宇宙でさえいつかは消滅することになるはずです。そのときには、空間も時間も他のすべてと同じように、消え去るわけです。

完全なる無の状態に戻るのでしょうね。私たちは、生まれると同時に、死という名の消滅へと一直線に進みだすのです。

これは厳然たる事実であって、どれほど神に懇願したところで変わることはありません。真理とはある意味冷酷なものですね。

こうしたことを知らない人はいないものの、普段は都合よく忘れて生活しているものです。けれども、このことを忘れないことこそが生を生きるうえではとても大切なことかもしれません。

なぜなら、宇宙のスケールからしたら、ほんの一瞬のように短い人生なのに、何かに怯えて精一杯やりたいことをやることもできずに死んでいくことが多いからです。

私たちは、いやな思いをすることを恐れて、恥ずかしい思いをすることを恐れて、失敗することを恐れて、人からの否定を恐れて、プライドを傷つけられることを恐れて、ブレーキをかけてしまうのです。

あっという間に無に帰するということをもう一度思い出し、ブレーキから足を外すことができたら、人生との付き合い方が変わるかもしれません。

何かを恐れることは問題ではないのです。ただ、ブレーキを踏んでいた足を退ければいいだけです。どんな結果であろうと、そんなことは構わないのです。それは丸ごと消滅するのですから。

そして、恐れを感じる方向へと、胸を張って船出するチャンスは毎瞬あるのだということに気づくことです。きっと、神は応援してくれるはずです。

不可能こそが本当の自由

人は誰でも自由を求めています。セラピストのところへいらっしゃるクライアントさんと向き合っていれば、それは明らかだと分かります。

つまり、悩みや苦しみなどを抱えて、不自由さの中でもがいているからこそ、それを何とかしたいと思ってセラピーにいらっしゃるわけです。

不自由とは、自分の意のままに、思ったようにいかないということ、自分のコントロールが思い通りに利かないことの苦しみです。

だからこそ、自由を獲得してその苦悩から開放されたいと願っているわけです。けれども、この場合の自由とは、単に不自由さとの比較の上に成り立つものだとも言えます。

人が一般的に求めている自由さとはそうしたものです。あくまでも不自由さとの相対によって表現されるようなものでしかありません。

それでは、真の自由、あるいは絶対的な自由とは一体どんなものなのでしょうか?私が自己探求を始めた目的は、その本当の自由への渇望からでした。

不自由さとの比較ではない完全なる自由とは何かというと、それはある種100%の否定的な表現の中にこそ見出されるものなのです。

つまり、完全にコントロールできないこと、あるいは完全なる不可能性において、おのずと気づくことができるもの、それが本当の自由なのです。

私たちは、自分のことや他人のこと、あるいはこの世界のことを自分の力で改善していくことができると信じきっています。

もっとましな自分になれるはずだと信じて、日々頑張っているのですから。多くの賢者たちは、そうしたコントロールを手放しなさいと昔から言ってきました。

その真意は、コントロールは不可能だということに気づくこと、そこに完全なる信頼を持つことができたなら、そのときこそ本当の自由を得ることができるといいたかったのです。

コントロールとは、そもそも思考が生み出した幻想です。ただ起きていることを解説して、そこに勝手な意味づけをすることで、行為者と行為という概念を作ったのです。

その行為者がなければ、コントロールなどというものはありません。本当のこの世界というものは、結果として完全なる自由の国なのだということです。

「人間は考える葦である」というけれど…

「人間は考える葦である」という有名な言葉が示すとおり、私たち人間の大きな特徴は考えることができるということですね。

他の動物でも非常に単純な思考なら可能かもしれませんが、人間だけが複雑な計算や理論的なことを思考する、つまり理性を持っているわけです。

そして、誰もが思考を非常に高いところに位置づけているのです。考えることができるからこそ、月に人を送り込むことができたし、近代文明や科学の発達を可能にしたと信じているからです。

けれども、よくよくその思考を使ってじっくり考えてみて欲しいことがあります。それは何かというと、思考そのものに何かを行為する能力があるか、ということです。

思考そのものが、ものを見たり、音を聞いたりすることができないことは明白です。私がコップを見ているというのは、事実ではなくて思考の内容です。

誰かがすばらしい音楽を聴いている、というのも単なる思考です。思考とは、起きていることをただただ「解説」しているに過ぎないのです。

そしてもう一つ、思考はどこからやってくるのかということを考えてみたいと思います。私たちは、何かを考えているときに、また別のことに考えが及ぶという経験を常にしています。

言ってみれば、思考の連鎖とでも表現できるかもしれません。何かの思考は別の思考からやってくるということがあるのです。

それなら、ある思考を作り出した大元の思考を作ったのは一体なんだろうかという疑問が涌いてきます。

私たちは何気なく、気楽にその大元の思考を作り出したのは自分に決まってると信じています。それなら、その自分とは何だろうかというところに行き着いてしまうのです。

実は、大元の「私」というもの自体も思考でしかありません。ということは、思考が一体どこから発生するのかということは謎なのです。

まとめると、思考がどこからやってくるかは謎であって、なおかつその思考そのものには何かを行為する力などはなく、起きていることをただ「解説」するのみだということです。

さて、困りました。あれほど、考えるということが私たち人間の優れた能力だと信じていたことが、すべてひっくり返ってしまったのですから。

では一体誰が、文明や科学を発達させて、あらゆる芸術を創造してきたのでしょうか?それは、「ただ起きた」ことだったのです。

思考でさえ、ただ起きただけだったのです。その思考を使わなければ、起きていることに意味はありません。これを信頼することができたら、私たちは本当に自由になるはずです。

思考から純粋な意識へ

意識の本質はただ鏡であることだ。
鏡自身にはどんな選択もない。
何であれ、前に来たものが映される。
善いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも、どんなものでもだ。
鏡に好き嫌いはない。
それは判断をしない。
それは非難をしない。

意識の本質は、その源においては、まさに鏡に似ている。
子供が生まれると、その子は自分の前に来るものを何でも映し出す。
赤ん坊は何も言わない。
赤ん坊は解釈しない。

解釈が入ってきた瞬間、鏡は鏡の本性を失う。
もう純粋ではない。
今やそれは意見でいっぱいになり、かき乱されている。
分割され、細分されたたくさんの断片だ。
分裂病になったのだ。

意識が分割され、鏡のようではなくなった時、それは思考(マインド)になる。
思考(マインド)とは割れた鏡だ。
根元では、思考(マインド)とは意識だ。

人が分け隔てするのをやめたら、二つに分割するのをやめたら……
あれに反対し、これを選んだり、これが好きで、あれが嫌いだったり…
もし人がこれらの分割から抜け出したら、
思考(マインド)は再び一枚の鏡に、純粋な意識になる。
だから、求道者にとっての努力のすべては、
どうやって意見を、哲学を、好みを、判断を、選択を落とすかにある。

by osho

正しさへのしがみつきをやめる

精神的な癒しを進めていくということは、ある意味、自分自身の内にある正しさを手放していくという果てしない道であるとも言えます。

誰もが自分が作り上げてきた自分の正しさに凝り固まっているからです。それは、何を信じているかということでもあるし、信念体系と表現してもいいのです。

自分の正しさに見切りをつけることは、それほど簡単なことではありません。なにしろ、その正しさに唯一の価値があると思い込んでいるのですから。

本当はそれ自体に価値があるのではなくて、自分を防衛するための強力なツールとして、その正しさに依存し、しがみついているだけなのです。

このしがみつきによって、本質が見えなくなってしまうのです。溺れそうになっている人に、手足をバタつかせるのをやめさえすれば、自然に浮いてくると叫んでも、効果がないのと同じです。

溺れかけている人は、強引に助けてしまうに限ります。けれども、それほどのパニック状態ではないときには、自らの力で、正しさによって自分を幸せにすることができたのかどうかを顧みることは可能です。

繰り返しますが、正しさとは単なる防衛手段でしかないので、それは幸福感とは全く縁のないものだと理解することです。

逆に言えば、正しさから遠ざかればそれだけ、苦しみからも遠ざかることができるのです。ただし、それは必ず痛みを伴うものです。

しかし、その痛みこそ逃げずに、自己防衛せずに見ることができれば、おのずと本質が見えてくるはずです。

自分にとって、なぜ正しさがそれほど大切なのかということを、避けずによくよく見ることです。そうすれば、自分のしがみつきに気がつくことができます。

気がつけば、そこに必ず突破口がやさしく開いて待っていてくれます。正しさを脇に置いてその中に入っていけばいいのです。その先には、先などなかったことに気づくはずです。

行くところなどはどこにもないし、進むべき道もなかったと本当に気づくことができるのではないかと思うのです。

恐怖が先か、逃避が先か

ライオンに追われたシマウマは、当然のごとく命をかけて逃げ回ります。それは、すべての動物が持っている自己防衛本能が発動するからですね。

勿論そのことは、人間であっても変わりありません。自分の命を守るために、危険を察知して、恐怖という感情を用いてその危険から逃げようとするのです。

こうした本能的な行動というのは、初めに危険による恐怖がきて、その結果として逃げるという行為が起こるのです。

ところが、人間だけがそうした恐怖を何倍にも膨らませて、実際には命の危険には至らないということが明白なのにも係わらず、逃げ続けるのです。

それは言わば精神的な恐怖と表現することができます。そしてそうした実体の伴わない恐怖というのは、自ら作り出しているということに気づくことが出来ません。

なぜなら、その恐怖とは、精神的な逃避によって自動的に作られてしまうものだからです。こうなると、恐怖が先にあるのか、それとも逃避が先なのかがはっきりしなくなってしまうのです。

逃げる心が恐怖心を生み出し、その恐怖から更に逃げようとするために、また恐怖が生み出されるという具合に、あっという間に恐怖と逃避の無限ループに陥ることになるのです。

そうなったら、もうその日を生きるエネルギーの大半をそのループをグルグル回ることだけに費やすことになってしまうでしょうね。

きっといつも疲労して、何もやる気が起きない状態になってしまうはずです。ウツ症状などもこうしたことが原因であると言うこともできます。

そこから撤退する方法はただ一つ、その悪循環にはまり込んでいることに気づくことです。そして、自分がこしらえた実体の伴わない恐怖から逃げなくすることです。

恐くても、恐くても逃げずに立ち止まり、そこにただいることです。たったそれだけでも、追ってきていた恐怖は、エネルギーを失うはずです。

とことんまで、その悪循環に嵌ってにっちもさっちもいかなくなった人は、自動的にそうした経験をしているはずです。

けれども、そこまで苦しむ必要などないのです。今この瞬間でも、逃げることをやめることは可能なのです。それを信頼して、実践することです。