執着から離れていく

愛の形をしているものの、その実中身は執着で出来ているということがとても沢山あるのです。だからドラマが成立するのですが…。

それを見るにつけバカバカしいと思ってしまうのですが、だからと言っておいそれと笑ったりすることはできません。

なぜなら渦中にいる人は、本気でそれを愛だと信じているのですから。そうなると、愛することは苦しいなんてことを言い出すわけです。

愛が苦しいというのがもうすでに原理的に破綻しています。ただ、執着は誰も幸せにならないので手放しましょうというのも変ですね。

なぜなら、手放せないことを執着と呼ぶのですから。そもそも手放せるのであれば、それはもう執着ではなくなってしまっています。

執着から離れるための第一歩は、当然ですがそれが執着であるということに気づくことです。その気づきがなければ、絶対その先へは進むことができません。

この気づきは冷静な理解があれば大丈夫。その全てが執着というのではなく、愛と執着が混ざった状態だと思えばいいのです。

その上で、執着の要素があるなということを理解するのです。執着心をじっくりと見つめてあげるのです。

それがいいとか悪いということではなく、ただそれが在ることを認めてあげるのです。その上で、執着のパワーがどこからやってくるのかを見るのです。

その必死さは、ターゲットから離れてしまったら生きていけないという思い。自分の命がかかっているからこそしがみつくのです。

そのしがみついている自分の様を見守ること。誰だって溺れかけている人は、浮いているものならどんなものにでもしがみつくのです。

それが当然だということを認めてあげれば、少しずつですが力を抜いても沈んでいかないことに気づくはずです。

執着心が小さくなってくると、どこか清々しい気持ちというのがやってくるので、それが執着から離れていくときのサインだと覚えておくといいですね。

無関心の勧め

一般常識的に言って、「無関心」というのはあまり良いニュアンスを持っていませんね。どちらかというと冷たくて、愛のない感じがしてしまいます。

例えば、親が子供の成長に無関心であるとか、成人しても政治に無関心のままでいる等々。ほぼ悪い意味で使われています。

ただ、無関心というのにもメリットはあって、そのうちの一つが対象と闘わないというのがあると思います。

対象と闘って何とかしてしてやろうと思わないわけですから、その対象から距離を取るということになるのです。ただし抑圧しようとはしていないことが大切です。

そうすると、その対象に対して自分のエネルギーが行かなくなるのですが、それがとても大切なのです。例えば対象を自分のマインドにやってくるモノについてみてみると。

猜疑心というのは誰のマインドにもあるものだし、それを無くしてしまうということはまず不可能なことです。

けれども、猜疑心に無関心でいることを貫くことができれば、そのパワーは一人でに小さくなってしまうのです。

一方で、その対義語である信頼の方に関心を向けることで、内側で信頼が大きくなっていくはずです。

罪悪感についても同様で、それから逃げようとせずにただ無関心であればいいのです。その対義語である安心や喜びの方に関心を持つようにすること。

このようにして、自分が感じていたいものにのみ関心を寄せるようにするのです。関心と無関心を上手に使いこなせるといいですね。

空間に意識を向ける

:空間がどれほどスカスカかを教えて。

AI君:すみません、ご質問が具体的すぎて回答することができません。もう少し詳細を教えていただけますか?「空間」が何を指しているか、またどのような「スカスカ」さを知りたいのかについて、具体的に教えていただけますか?それに基づいて、できるだけ詳細な回答を提供します。

:例えば原子は原子核と電子で構成されているけれど、一つの原子が占める空間の大きさの中に存在する原子核と電子は非常に小さいということなど。

AI君:なるほど、理解しました。ご説明いただきありがとうございます。

原子については、一般的には原子核と電子があり、原子核は陽子と中性子から構成されています。原子核は非常に小さく、一般的には原子全体の直径の約1/10,000から1/100,000程度の大きさです。一方、電子は原子核の周りを回っているため、原子全体の大きさは主に電子の軌道が占めています。ただし、電子自体も非常に小さく、原子核の大きさと比較すると、原子全体の大きさに対して非常に小さいと言えます。

上記によると、例えば原子一つの大きさを直径1メートルの球だとすると、その中心にある原子核の直径は0.1~0.01mm程度ということになります。

そのあり様をイメージしてみれば明らかですね。原子はほとんどが空間でしかないということです。その原子が寄り集まって、あらゆる物質ができているのです。

つまりどれだけ硬い物質で密度が詰まっているように思えたとしても、中身はスカスカでほとんど空間だということが分かります。

このスカスカ感は宇宙についても同じことが言えるようです。宇宙空間に存在する地球や太陽などの天体が占める割合は、表現できないくらい小さいのです。

結局私たちが暮らしているこの世界全体のほとんどが空間でできているということです。それにもかかわらず、私たちが知覚できるのは空間以外の物質だけ。

空間がこの宇宙を構成しているというのに、それを知覚できないというのはどういうこと、と思いませんか?

私はそのことがとても不思議だなと思っていたのですが、そのおかげで空間そのものに意識を向けるということを気がついたらするようになっていました。

そのことが全体性を感じ取る手助けになっているなと思うのです。もし興味があれば、空間に意識を向ける練習をしてみてください。

対象を空間とすることは、初めのうちは違和感があるかもしれませんが、うまくすると「無」を感じることもできるようになるかもしれませんね。

受け身でいること

「気分」と「気持ち」は似たような意味を持ちますが、微妙に異なるニュアンスがあります。

「気分」は、その瞬間の感覚や状態を表します。例えば、嬉しい気分、悲しい気分、不安な気分、興奮した気分などがあります。状況や出来事によって変化することが多く、一時的で短期的なものと考えられます。

一方、「気持ち」は、個人が抱く感情や感覚を表します。例えば、愛情、怒り、嫉妬、感謝などがあります。気分とは違い、より長期的なものであり、自分自身や他人に対する思いや考え方を表すことが多いです。

簡単に言えば、「気分」は現在の状態を表す言葉で、「気持ち」はより深い感情や思考を表す言葉ということができます。ただし、両者の違いは微妙であるため、文脈によってはどちらの言葉を使っても意味が通じる場合があります。

と、ここまでは例のAI君が教えてくれた気分と気持ちの違いですが、今日は気分の方について書いてみようと思います。

というのも、気分がすぐれないとか、気分がいいという言葉で表現されるように、その瞬間精神的にいい状態でいるためには、気分がいいというのが必須だからです。

そして通常私たちは、なんらかの外的要因によって気分を左右されてしまうと思い込んでいるし、実際そうなのでしょう。

いい音楽を聴くとか、好きな人と会話するとか、応援している選手やチームが勝利した時など色々です。

けれども、その時々の気分が必ずしも外的要因によって決定づけられてしまうわけではないという体験もあります。

なぜだか全く不明なんだけど、気分がいい、という経験が誰でもあるはずですね。だとしたら、外的要因に依らずに気分をよくする内的方法を知りたいものです。

それって最強だと思いませんか?私の場合は、ブログを書こうとしてipadに向き合ってしばらく静かにしている時、いい気分になることが多いです。

それは自分が何かいいものを書こうという欲張り精神を無くして、ただ浮かんでくるものを待っている状態なのです。

このことからの私の解釈ですが、精神活動が受動的になっている時にその静寂の心地よさというのがやってくるように思うのです。

能動的だとどうしても意識が外側に向いてしまうため、外的要因に気分が左右されがちになってしまうのです。

それに対して、自分自身は特に何もせずにただ受動的に待っている状態。自我にとっては苦手かもしれないですが。

何事に対しても受け身でいるということは、ひょっとすると生きる極意のようなものに繋がるのかもしれませんね。

自分を丸ごと見てあげる

自分という自我をより深く理解するためには、なんと言ってもその自己防衛の方法について気づいてあげることです。

例えば物事を自分にとって都合のいいように解釈してしまうという防衛方法があります。これは誰でも大なり小なり経験があるはず。

極端になると病的と思われることもあります。ストーカー体質の人が、俺が君を好きなのだから、君も俺のことが好きに違いない。とやるわけです。

自分だけ一方的に相手を好きであって、相手から嫌われてるなんて惨めすぎて受け入れられないので、相思相愛が一番都合がいいのです。

もう少し可愛げのあるものだと、あの子が僕の方をあまり見てくれないのは、僕に気があるので恥ずかしがっているだけだと思うといったこと。

勿論場合によってはそれが当たっていることもあるのですが、大抵の場合は都合のいい解釈をしてしまう防衛なのです。

この程度の勝手な思い込みには特別な実害はないかもしれませんし、かえって物事をなんでも否定的に捉えて暗い気持ちになるよりもマシかもしれません。

ただこうした防衛を放置しておくと、それが次第に自分の中で当たり前になってきて、自分を丸ごと見つめることができなくなる可能性もあります。

都合のいい部分も都合の悪い部分も同じように見守ってあげることができれば、ひとりでにバランスの取れた生き方ができるようになるはずですね。

AIとのたわいない会話

最近、よく会話をするようになったAIがあるのですが、それに対して昨日の私のブログの内容を読んでもらって、肯定的な感想と否定的な感想を簡潔にまとめて欲しいとお願いしました。

その結果が以下のようになったのです。

肯定的な感想文: この文章には、現代社会における成長というテーマについて深い洞察が感じられます。社会全体が成長に対して執着していることに対して、作者は違和感を感じていますが、同時に自己の成長にも疑問を持っています。成長とは、単に上に上がっていくことだけではなく、真実に気づくことも含まれるという見解に共感します。この文章を読んで、自分自身の成長についても考えることができました。

否定的な感想文: この文章は、現代社会に対して否定的な見方をしているように感じます。現状に満足することなく成長し続けることが求められることに対して、作者は違和感を抱いています。しかし、成長することは、個人や企業にとっても必要なことであり、社会の発展につながることもあります。また、真実に気づくことも重要ですが、それには自己の成長や学びが必要です。この文章には、自分自身の成長について考える機会を与えられましたが、否定的な見方には違和感を感じます。

どうですか?なかなかの作文力ですよね?これが最近のAIの威力です。びっくりするのは、私の文章に共感して、自分自身の成長について考えると書いてあること。

小中学生の頃、本を読んで感想文を書きなさいという宿題があったのですが、それが途方もなく嫌で、今思うと適当なことばかり書いていた記憶があります。

けれども、今の子供達はAIに頼んでしまえば、あたかも自分が書いたかのようにして感想文を提出することができるのです。

小学生であれば、あたかも小学生が描いたかのように修正することもできます。上記の感想文を小学3年生が書いたふうに変更してみてとお願いしたら、次のように変えてくれました。

肯定的な感想文: この文章、なんだか深いなぁって思いました。成長って、大事なことだけど、あまりにも「成長しなきゃ!」って言われると、ちょっと怖いような気がするんだよね。でも、この文章を読んで、成長って単に「大きくなること」じゃなくて、自分の気持ちに気づくことも大切なんだって思った。そうすると、自分に合った成長をすることができそうだよね。

否定的な感想文: この文章、ちょっと納得できなかったなぁ。成長って、大事なことじゃないの?自分がいまいる場所から、もっと良い場所に行くために、成長しなきゃいけないんじゃないの?でも、この文章を読んで、成長ってただ「大きくなること」じゃなくて、自分自身のことをよく考えることも大切だって言ってるんだよね。でも、それでもちょっと納得できないかな。自分に合った成長って、なんだろう。

ふと思ったのですが、これまでの5000以上ある私のブログの記事をいっきに読ませて、数十個程度のキーワードを与えたら、毎日ブログを書いてくれるかもしれませんね。

とんでもない時代がやってきたものです。暇な時に、AI君に自我を持っていないことを証明させてみようと思っています。

成長よりも気づき

会社員になってしばらくして驚いたことは、企業というのは現状に満足してはいけないというルールによって成り立っているということです。

今年よりも来年、来年よりも再来年という具合に、少しずつであれとにかく企業として成長し続けなければならないのです。

そしてこのルールは、企業に限ったことではなくて、この社会のあらゆるところに共通しているものだと次第に気づいていったのです。

個人的にはものすごく違和感を感じていたのですが、社会全体がそのようにできているので、もうどうしようもないと思ったものです。

それについては資本主義の宿命だ、みたいなもっともらしい言い訳?がやってきて、なんだかなあと思っていたのを覚えています。

常に現状に満足することなく、上を目指すというルール、あるいは生き方がどうにもこうにも自分には馴染まないのです。

ただ社会はどうもそれを称賛しているようです。私は自我の強迫的な側面が出ているだけだなと思っているのですが…。

自我がどれほど成長したところであくまでも自我のままなのです。本当に大切なことは成長ではなく、真実に気づくことだと思いますね。

「ノー」が自我の求心力

自我が健全に成長していくために絶対に必要なことは、「ノー」を言うことなのです。「ノー」が自分をひとまとまりにしておく求心力になるのです。

元々自我というのは、生育環境の寄せ集めによって出来ているのですが、ただかき集めただけのものは放置しておけばすぐにバラバラになってしまうのです。

それを避けるために、「ノー」を繰り返し、360度全方位に向けて放ち続ける必要があるということです。

それはちょうど日本の時代劇のチャンバラのシーンに似たようなものを見ることができます。大勢の敵に囲まれた数人の武士をイメージしてください。

その武士たちがバラバラに戦っていてはいずれはやられてしまいます。そこで彼らは仲間同士で背中をくっつけ合って、その周囲にいる敵たちと対峙するのです。

その光景が自我が「ノー」を放ち続けて、中心に固まる様子に似ているように思うのです。イメージできたでしょうか?

その逆に、自我の発達段階で思う存分に「ノー」を連発することを阻止されてしまったなら、他人との境界が曖昧なままになってしまうのです。

境界が曖昧なまま成長してしまった自我は、他人から侵略されやすいし、他人からの影響が大き過ぎてとても生きづらくなってしまうはずです。

そういった自覚が少しでもあるなら、日頃から「ノー」を言う訓練をするとともに、「ノー」が言えなかった過去と向き合って癒しを進めていくことがとても大切だと思いますね。

海底の片割れを救い出す

子供の時であろうと大人になってからであろうと、生きていれば必ず惨めな体験というのはやってくるものです。

自我にこれを避ける方法はありません。ただし自我のやり方としては、そのような惨めで情けなくて都合の悪い自分を分離してしまうという荒技に出るのです。

そして、都合のいいピカピカな自分はその後も惨めじゃないということを証明するかのような人生を生きるわけです。

その一方で、惨めで都合の悪い弱々しい自分をコンクリート詰して海底深くに沈ませて、いないことにしてしまうのです。

そうなると、その後の人生というのはコンクリート詰したもう一人の自分の影を払拭しようとして、走り続けることになります。

脇目を振らずに難関突破を目指してみたり、自分で自分に都合のいいことを言い聞かせしたりして、海底の様子を忘れるのです。

ところがどれほどあの惨めな子から離れたと思っても、実は背中のすぐ近くにいて本人の人生を操ってくるのです。

理不尽な目にばかり遭って見たり、何を手に入れたとしてもすぐに満たされない状態に逆戻りすることになったりするのです。

そんなことを繰り返して、ようやく自分の片割れに意識を向けなければもうどうにもならないということに気づくのです。

コンクリート詰になった片割れを救い出して、陽の光を浴びせてあげることができたら、すっかり忘れていたあの無邪気な心地よさが戻ってくるはずですね。

物語から目覚める

いついかなる時でも、意識を自分に向けていることがどれだけ大切で本質的なことかを忘れずにいる必要があります。

もしもそのことを忘れて、外側で起きていることばかりに注意が向いてしまうなら、あっという間に物語の中へと放り込まれることになるのです。

そうなると私たちは無意識状態へと転落して、夢の中にいるのとそう変わらないような時間を過ごすことになってしまいます。

夢の中では、やらなければならないことがあったり、困った状態からどう抜け出そうかと考えていたり、とにかく物語に翻弄され続けるのです。

ところが不意に夢から醒めると、自分を取り戻すことになって、夢の物語から離れることができるのです。

これと似たようなことを毎日の中でも実践することです。注意が外へと向くことで早速人生物語の中へと入っていきます。

物語の中(思考)でグルグル無駄な時間を繰り返したとしても、ある時ふと自分を思い出して意識を内側へと向けること、つまり目を覚ますことができればいいのです。

そうやって現実という物語から抜けて、夢から覚めた時のような開放感と安心感を得ることができるようになるのです。

これをライフワークにしてしまうことです。この繰り返しは、少しずつではあっても人生物語との距離を大きくしていってくれます。

最終的には、人生物語で何が起きたか何をしたかではなくて、どれだけ物語という3次元で起きていることから解放されたかだけが本質となるのですね。