対極とのペアで成立する

誰もがより幸せになりたいと願っているものですね。ただその究極の幸せとは一体何なのかというのは曖昧なものです。

それもそのはず、幸せの正体とは比較から生まれてくるものだからです。不幸だという思いがなければ、幸せもなくなるのです。

最初からずっと幸せな状態のままでいて、幸せを体感することは不可能なのです。きっと何も感じることはできないはず。

それと同じように、ずっと健康体でいることができるなら、健康とは何だろうということになるのです。

それも不健康との比較によって見出すことができるだけ。食べ過ぎて胃もたれが起きて、初めて胃袋の存在を知ることになるのです。

健全な胃の状態では、胃の存在を知ることができないのです。要するに、不健康があって健康が意味を持つのです。

不幸があって幸福を認識できるのです。不安があるからこそ安心が分かるのです。幸福だけ、健康だけ、安心だけというのは妄想に過ぎません。

二元性の世界とはこのように作られているのですから、都合のいい方だけを求めることが理に適っていないことに気づくことです。

快感を求めた瞬間に不快がついてくるのです。全ては対極にあるものとのペアで成り立っていることを忘れないことですね。

程度の差でしかない

膨大な数のクライアントさんのマインドと出会って来て分かるのですが、全てのマインドの違いは単に程度の差でしかないということ。

全く見たことも聞いたこともないマインドなんてどこにもないのです。どのマインドも同じ材料、同じ仕組みで活動しているのです。

個々の違いは程度の差だということ。例えば、嫉妬深いことで自分自身を持て余してしまっているという人がいます。

一方で嫉妬などしたことがないと豪語する人もいるはずです。けれども、両者の違いは嫉妬の度合いの大小でしかないのです。

ほんの些細な嫉妬心であれば、本人が自覚できなくても当然です。言葉を変えれば、どのマインドであれ嫉妬をする仕組みを持っているということ。

嫉妬の大小と比較してしまう大小も関連があるかもしれません。すぐに他人と自分を比べて惨めになってしまうマインド。

その一方で、他人のことなど見向きもせずに我が道を生きるという人もいます。けれども、そういう人であれ全く比較をしないというわけではないのです。

困っている人がいたらすぐにでも助けたくなるマインドもあれば、放っておくマインドもあるのです。

その両者にしても、ただ程度の差があるだけだということです。他人が怖い人もそうでない人も、不安だらけの人もそうでない人も。

怠け者もそうでない人も。こうした程度の差に気づくことができれば、マインドを理解するうえで大きな助けになりますね。

生死を超えた自己

私たちは、一瞬一瞬やってくる身体からのあらゆる情報を受け取り続けています。気持ちよさだったり、不快な感覚だったり。

それがどんなものであれ、その情報とは無縁の部分があるということに気づいているでしょうか?

身体からの情報はあくまでも身体のものであって、そこに影響を受けない部分があるのですが、それこそが本当の自分なのです。

私は以前瞑想をしていて、瞑想が深くなっていくに連れてえも言われぬ感覚がやってきた時に、覚醒とはこの先にあるものだと勝手に思い込んでいたのです。

ところがそんなものは、覚醒とは何の関わりもないものだと気づいてからは、そういった身体からの特殊な感覚に重きを置くことは無くなりました。

身体からの情報、感覚とは別にマインドからの情報というのもあります。気持ちだったり、気分だったり。

そういったものもまた、気持ちよさや気分の良さがとても価値のあるものであって、その先に覚醒が待っていると誤解していたのです。

今や身体やマインドからやってくるどんなものも、覚醒とは無縁だと気づいたのです。この認識があってからは、心身がそれほど重要ではなくなったのです。

そのどちらでもない不動のもの、全く変化したことがないもの、それが意識であり、それこそが真の自己なのですね。

覚醒とはそれ以外は全て幻想だと気づくことなのではないかと。それを見抜くことによって、純粋で形のない、生死を超えた自己に気づくのでしょうね。

緩慢な子殺し

動物の世界に、「子殺し」というのがあるのをご存知でしょうか?私が知っているのは、サルの集団生活の中で起きるものです。

オスザルの群れが、母系集団を襲ってそこのボスザルを追い出してしまうらしいのです。そうして、襲った群れの中から勝ち抜いた一匹がその集団の新しいボスになるのです。

この時に、その新しいボスザルが子ザルを片っ端から殺してしまうのです。子供を殺された母サルは2週間くらいで発情期を迎えるのです。

ボスザルはそのメスザルと交尾をすることで、自分の遺伝子を残そうとするということらしいのですが、本能だとしても随分と悲惨なことが起きるのですね。

ただ自然の摂理からすると、勝ち抜いた最強の遺伝子を持つボスザルの子供が作られることになるわけです。

だからその種の全体のことを考えれば、真っ当なことが起きているとも言えるのです。自然とは厳しいものです。

それに比べると、人間の親が子供にする執拗で陰湿なイジメはどうでしょうか?本能でもなければ、種にとってもいいことはありません。

そういう親は、子供を緩慢に殺しているようなものです。実際に子供は、緩慢な自殺をすることもあります。

それは普通の自殺と違って、本人の知らぬまにゆっくりとハートを閉じて、心を殺していくということです。

ただ人間は動物と違って癒すということができるので、そこに希望がありますね。回復することは十分に可能だと思います。

思考は真実を隠す

思考と意識の違いに気づくことができると、それだけで何かが変わってくるはずです。逆に言えば、その違いが曖昧であれば自我に100%乗っ取られて無意識でいるということです。

とにかく自我というのは、思考に基づいて活動しているので、思考がなくなってしまうと窒息することになるのです。

私たちが息を止めて何とかして持ち堪えられるのは、せいぜい2分とか3分くらいのものですね。自我はどうでしょう?

自我は思考なしの状態でも息を止めて冬眠しているような感じで、かなり長く生きていることができるのではないかと。

それでもあまりに長い間思考なし状態が続けば、いずれは自我は消滅せざるを得ないはずなのです。経験がないので、そのあたりは微妙なのですが。

もしもあなたが真実を垣間見たいと本気で願うのであれば、思考が作り出す自我の世界から離れる必要があります。

思考の描く世界は、真実を覆い隠すものでしかないからです。人間が生み出す社会というのは、そのほとんどが思考で彩られています。

思考の世界で生きることが悪いということではないのですが、それが全てだと思うのは間違いだということです。

それはあまりにも軽薄過ぎるのです。私たちの本質はこの社会の中にあるのではなく、その次元から離れた真実にこそあるのですから。

不安をそのままにしておく

あなたの人生が今そうなっているのは、良いことも悪いことも決してあなたのせいではありません。

それはあなたの生き方がそういう結果を生み出したのです。けれども、あなたの生き方を決めたのはあなたではないのです。

それは、幼い頃からの親との関係性の中で育まれてきたものです。従って、何がどうなろうともあなたのせいではないのです。

ただあなたのこれまでの考え方、生き方の結果が今のあなたの人生を作り上げたことに違いはないのです。

もしもこれまでの人生を振り返り、人生を変えたいと願うのであれが、それはこれまでの生き方や考え方を変えるしかありません。

これまで努力してきた人が、もっと努力をして人生を変えようとするのは間違いなのです。なぜなら、生き方が変わってないからです。

多くの人に共通する生き方というのがあるのですが、それは不安や心配事に対してなんとかそれを解決して安心しようとすることです。

この生き方を変えることができるなら、間違いなくあなたの人生は激変してしまうでしょうね。

つまりは、不安がやってきてもそれをそのままにしておくのです。不安と共にいるようにするということです。

すると不思議なことが起こります。あれほどしつこく自分を悩ませていた問題が、ひとりでに小さくなってしまうのです。

その理由は簡単。防衛が小さくなるにつれてそれだけ自己犠牲も小さくなるからです。その結果、無邪気で屈託のない自分の自然さが戻ってきてくれるのです。

不安がやってきた時にチャンスだと思って、それに対して何もせずにいるように心がけてみてください。その効果は意外に早くやってくるはずです。

分離という信念が恐怖を生む

信念というのは、堅く信じて疑わない事と定義することができますが、本当は信じることの中に疑いは必ずあるのです。

自分が信じていることが間違っていては困るので、安心するために疑う心を封印してしまうということです。

その信じることの最上級のものが信念であるので、信念の下には当然のこと疑いが隠されているということです。

そのことを知った上で、私たち自我が最も頼りにしている信念とは、自分は分離しているという考えです。

自分とはこの肉体の内側であって、外側の世界とは分離していると信じているのです。誰もがそのことを疑ったりしないのです。

けれども、分離という信念の奥には必ず疑いが隠れています。その疑いの心を捜すことです。それを見つけ出すのです。

なぜなら、もしも分離という信念は間違いだったと気づくことができれば、あらゆる恐怖感が消えてしまうからです。

私たちが抱えている恐怖感は、この分離しているという信念から作られるからです。恐怖から解放されたいのであれば、まずは分離を疑う心を見つけること。

岩のように固い信念に騙されない勇気が必要なのです。分離しているという信念が消失すれば、その瞬間から恐怖も消えてしまうはず。

自分の存在が全体と一つだと気づくことで、生死がなくなるのです。そうなったら全く違う人生を生きることになるでしょうね。

「くつろぐ」ためには…

私たちが「くつろぐ」ということをイメージするとき、当たり前ですが何か心配事などが頭に浮かんできたら、くつろぐことはできなくなってしまいます。

それをもう少し精度を上げて表現するなら、外側に注意(意識)を向ける必要を感じない時に初めて、くつろぐことができるのです。

仮に何か気になることがあったとしても、一時的であれそういった物事を一旦忘れていることができれば、くつろぐことができるということです。

つまりは、外側に向いていた意識を内側に向けることができれば、自然にくつろぐことができるとも言えるのです。

ただし間違ってはいけないのですが、内側に意識を向けるといっても自分のことを考えるということではありません。

考えてしまえば、その対象がたとえ自分自身のことだとしても、それは必ず外側の世界と繋がってしまうからです。

思考活動は常に外側の世界と関わることになるだけでなく、過去や未来とも関わってしまうことになるのです。

思考が緊張を作り出す張本人であり、思考から解放されて意識だけになることができれば、自ずとリラックスしてくつろぐことになるのですね。

広大な内側の世界に気づく

自分の外側で起きていることにばかり捉われて、その中心にいる自分自体のことを見過ごしてしまっている人は沢山います。

この状態であれば、何も人間に生まれる必要はなかったと思わざるを得ません。動物は皆そんなふうに生きているのですから。

せっかく人間として生まれたからには、人生の中心である自分自身にもっともっと注目して生活することです。

そこで初めて、自分は思考ではなく意識だということのニュアンスくらいは分かるようになるのだと思います。

外側の世界でありとあらゆることが起きていて、それに比べてちっぽけな自分の内側なんてと感じてしまうのかもしれません。

けれども、外側の世界と同じかそれ以上に内側の世界は広大なのです。見つめれば見つめるほど、底なしに深いことに気づくはず。

この世界でどれほどの成果を成し遂げたとしても、それが単に外側で起きていることであるなら、一過性のものに過ぎません。

代わりに内側に真実を見ることができるなら、それは決して一過性のものではないのです。人生を超えて普遍的な領域に踏み入ったということです。

それによって、無限に輪廻をし続けるのか、あるいは二度と戻らないことになるのかに大きく影響するのですね。

得難いものを得ている

友人の死を目の当たりにして、いつもよりも深く自分の死を見つめることができて、少しだけ生きる感覚が変化した感じがしました。

死をリアルに感じようとすればするほど、今この瞬間の生というものが有難いもの、得難いものを得ているという感覚になったのです。

そうなると、当然のことながら感謝のような気持ちが溢れてきますね。初めのうちは、今の仕事をするようになってからの人生への歓びがきました。

そのうち、自分にとって都合のいいことも都合の悪いことも、分け隔てなく全部丸ごとがプレゼントなのかもと。

更にいえば、ああやっぱり人生という物語は夢のようなものだなという感覚。不確かで、何一つ残るものがないのですから。

どんなに激しい夢であっても、朝目が覚めれば消えてしまうのと同じこと。身体から解き放たれて本質に戻れば、全ては夏の夜の夢と同じ。

若い頃はほとんど不可能に近いことかもしれないけれど、自分の死としっかり向き合うことのメリットは絶大です。

今日、亡くなった友人の最期の顔を見にご自宅まで押しかけてきました。ただ穏やかに眠っているようで、もうすでに本質に戻ったのかなと。