気づくということ

気づきというのはとても不思議な現象ですね。一般的に言えば、気づくということは知らなかったことを知るようになるという意味です。

けれども、ここで言う「気づき」というのはそれとはだいぶ意味合いが異なるのです。一番の差異はなんなのか?

それは元々知っていたものなのに、それに対して新たな気づきがやってくるということです。ではなぜそのようなことが起きるのか?

それは、知っているということに秘密があるのです。私たちは知っているということを誤解して覚えているのです。

実は知っているというのは、そういう情報があることを知っているということであって、そのこと自体を知っているのではないということ。

ここがミソなんですね。知識として知っていたことに対して、腹の底から腑に落ちるという状態になること。

これこそが気づくということの本当の意味なのです。何度も繰り返し同じ本を読んでも、その度に入ってくるものが変化するというのも同じことです。

自分の顔が見えない状態で周囲を見ている時、自他の二元対立を思い出せば外側だけが見えているということは起きないはず。

そのことは知ってはいたのですが、今朝クルマを運転していてそのことが気づきという形でやって来たのです。自も他もどちらも真実ではないということ。

とても新鮮な体験をしたという感覚ですね。ただし、気づきというのは自分の中に定着させて初めて意味があるのです。

大切な気づきがまた消えていってしまわないように、繰り返し練習する必要があるということですね。

今ここに戻るとは?

osho はよく「今ここに戻ってきなさい」という言い方をします。それには本当はどんな意味合いが込められているのか?

今というのは、もちろん過去でも未来でもない現在のこと、今この瞬間のことを意味するわけですね。

そしてもっと言えば、今とは時間の概念から外れることを意味しています。時間というのは思考が作り出した概念です。

同様にして、ここというのも空間の概念から外れること。あっちでもそっちでもない、あなたが在るところ。

それに大きさや位置という概念はないということです。だから「今ここ」というのは自我にとっては未知の分野なのです。

自我は今ここに戻ってくることはできないということ。じゃあ一体誰が戻ってくることを想定しているのか?

誰でもない、私たちの本質は戻ってくるどころか、今ここにしか在りえないのです。では戻ってくるとはどういうことか?

それは、夢の中でどこかに行ってしまっていたのに、夢から目覚めた瞬間にずっとい続けたここに戻ってくるという意味と同じです。

今ここに戻ってきなさいとは、夢から目覚めなさいということですね。

取り憑かれないために

もしも悪魔か何かが誰かに取り憑いてその人を自由に操って、不幸にしたり災いの中に自ら入っていかせようとするとします。

仮にあなたがその悪魔だったとしたら、どのような人をターゲットとして狙うでしょうか?幼い無邪気な子供でしょうか?

それとも、日頃から悪事ばかりを働いている困った人物を標的にするでしょうか?よく言われるのが、心が空っぽの人は忍び込まれやすいというのがありますね。

私が悪魔であったなら、思考だらけの人を狙うと思います。それは、日頃からその思考に飲み込まれているからです。

思考も外からやってくるものであって、それが容易にその人の中に入り込んでコントロールしているわけですから。

そういう人を狙うのは当然のことです。逆に心が空っぽの人というのは、全くコントロールすることができないはずです。

なぜなら、思考のない自我のない全き空間では、乗っ取る誰もそこにいないのですから、手の打ちようがありません。

もしもあなたが、良からぬものに取り憑かれたくないのであれば、マインドに思考がやってきても見守っていられるような訓練を日頃からすることです。

やってきたものに闘うスペースを与えずにいられれば、あなたの協力がもらえずに相手は力を失って退散していくでしょうね。

自他という二元対立を理解する

昨日のブログでは、自我はただそれのみで生きることはできない、ということを説明させていただきました。

今日は、それをもう少し深掘りしたいと思います。自我それ自身だけでは生きられない、成立しないとはどういうことか?

つまりは、自我というのは自分が個として存在していると思っている存在ですが、それは自の反対である他を必要とするということ。

自他という言葉があるように、自と他はこの二元生の世界における二元対立の代表のようなものです。

自が存在するためには、他が絶対的に必要だということ。もちろんその反対も然り。私たちにとって、他というのは他人でありその他の一切合切の自分以外の存在を意味します。

けれども、他が自分の存在にとって不可欠だということを普段は忘れているのです。無人島でたった独りでも生きていけると思っている人もいるかもしれません。

それはそれまでの他とのあらゆる関わりによって作り出された自分をベースに生き延びることができると言っているに過ぎません。

そもそも自我というのは他人との関わりの集合によって出来上がっているのです。そのくせ自分は他人とは分離していると思い込むのです。

これが自我の真骨頂ですね。自我の本当の姿とは、自と他の間の関係性の中にあるのですが、個として存在したいのでそのことを忘れるのです。

もしもあなたが消えたとしたら、この世界からあなたにとっての全ての他(他人や他のもの)も同時に消失するということです。

このことの深い理解をすることで、日頃ムカついてしまうような他人や外での出来事に対しても、自分の存在を支えてくれているものだと思うと、少しは気持ちが穏やかになりますね。

自我は永久機関

自我にとっての不安というのは、孤独と共にその仕組みからして持たざるを得ないものだということを理解する必要があります。

それをいいことに、自我は闘う対象がなくなってしまった時に、その生来の不安を上手に利用するのです。

このことを理解するためには、自我はただそれのみで生きることができないモノであることも分かっておく必要があるのです。

別の言葉で言えば、自我は何かに従事していること、自分以外の何らかの対象との関わりを必要としているということです。

それが病気であれ貧困であれ、あるいはあらゆる苦しみや痛み、そういった対処すべき問題が必要なのです。

もしもあなたが全ての問題を解決してしまい、あらゆる欲望が叶って恵まれた人生を生きるなら、自我は困りだすのです。

そして必要とあらば、妄想の世界に入り込んでまで不安の原因を作り出すのです。それがどれほどの詐欺行為であれ、それは成功します。

なぜなら、前述した生来の不安を元々持っているからです。それを使えば、死ぬまで安泰でいられるのです。その不安が枯渇することはないからですね。

自我が持っている不安という自前資源は半永久的なものであり、それをうまく利用して自我は一種の永久機関として成立するということです。

内側には誰もいない

昔SFモノの映画で見たことがあったのですが、ごく普通に生きていたある人物が何かのきっかけで自分は人間ではなかったと気づくのです。

サイボーグと言えばいいのか、あるいはシンプルにロボットと呼べばいいのか、とにかく血の通った人間ではなかったのです。

その時の彼のショックというのは、計り知れないものがあるでしょうね。自分は人間だと深く信じて生きてきたのですから。

それに似たことがかつてあったのですが、それは自分自身の内面深くに入っていった者たちが、そこには誰もいないということに気づいたのです。

私たちは自分が人間であることを疑わずに生きています。それが本当なのかどうかを見極めたいとも思わずに。

それでも少数の人々は、やはりそこに興味を持って内側を覗こうとするのです。まずはっきり分かるのは、肉体の内側をどのように捜しても、この自分は見当たらないということ。

じゃあどこにいるのか?見つからないだけで実在するはずだとすることもできます。それなら、「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるように、考えることで自分があるのだと。

そう捉えるとすると、自分とは思考の塊ではないかと考えることができます。けれども、そんな怪しげな存在でいいのでしょうか?

思考なんて吹けば飛ぶようなあやふやなモノです。そんなもので自分が出来上がっているというのも、どうも納得しづらいですね。

この辺りで、多くの人は諦めてしまうのです。けれども、諦めずにずっと追求していくと、人物らしきものなどないということに気づいてしまいます。

思考を止めてもそこに残るもの、それは人物などではなく、つまり人間などではない普遍的な何かでしかないのです。

それが私たちの本質なのですね。自我にとってはこれは非常に不本意なことですが、認める以外にありません。

自己否定の裏にある存在否定

私たちはことあるごとに自分を責める習性を持っています。目標を達成できずに終わった、他人よりも悪い成績だった等々。

確かに自分が想定していたものよりも、悪い結果になってしまったとしたら、そのことを残念に思うのは当然ですね。

けれども、だからと言って自分を否定することに直結させるのはどうなのでしょうか?自己否定には本当はどんな理由もありません。

自己否定をするつもりで自己否定をしているだけで、そのために自分で様々な理由をでっち上げるのです。

本人としてはいたって真面目に、◯◯だからダメなんだと如何にも当然のごとく否定するのですが、それに騙されてはいけません。

自己否定の根っこにあるものの多くは、幼い頃の親からの否定もしくはそのエネルギーを浴びることからくるのです。

そして、子供自身はその親からの否定を自分の「存在」否定へと変換してしまうのです。ここを理解する必要があります。

味噌汁をこぼしてしまったことを怒られただけなのに、自分の存在を否定されたとやってしまうわけです。

その結果、存在否定だけが残ることになって、それ以降はあらゆる理由をでっち上げては自己否定するようになるのです。

ここに気づくことができれば、バカバカしい自己否定から解放されることになるはずです。自己否定の裏に隠された存在否定を見つけてください。

その上で、不当な存在否定をじっくり時間をかけて成敗していくことです。それには、繰り返し自分を受容してあげる練習を積むことですね。

見ることで救われる

私たちは本能的にも心理的にも、都合の悪いものからは目を背けてしまい、できるだけ離れていようとする習性を持っています。

その都合の悪いものには、それこそありとあらゆる辛いもの、不愉快なもの、不快なもの、苦しいもの、痛み等々があるのです。

例えば、自分が惨めだと思うならその惨めさはとても心理的な痛みを伴うものなので、それを見ないようにするのです。

無意識の領域へと抑圧したり、怒りという感情によって隠してしまうこともします。さらにはその怒りでさえ感じないようにするかもしれません。

嫌われて見捨てられたら生きて行けないという恐怖がやってくるので、それを隠すために奴隷のように生きる人もいます。

辛い記憶を忘れようとしてお酒に溺れたり、トラウマから逃げるために年中無意識的にゲームをやり続けたり等々。

誰もが薄々気づいていることなのですが、目を背けている限りはそこから脱出することはできないのです。

唯一の解決方法は、その都合の悪いことから目を背けずに対面すること。もっとシンプルに言えば、それを見ることです。

実は見ることは問題自体を解決してくれるわけではないのですが、見ることで都合の悪いことから距離ができるのです。

勇気を持って見てしまえば、それが自分とは隔たっているということに気づくのです。解決する必要すらなかったと理解することになるわけですね。

思考を止めようとせずに見守る

思考がいつまでもグルグル回転して止まらずにいると、困って何とかしてそれを止めようとしてしまうかもしれません。

けれども、思考を止めようとする必要はないのです。というよりも、止めようとして止まる思考などほんの表面的なものばかりなのです。

止めようとするその意志、その意欲、その決意は、全てが思考でもあるのです。だから思考で思考は止められないと知ることです。

あなたが意識側に注意を向ければそれだけ、思考は緩んでくるはずなのです。思考を操ろうとしないことです。

どんな判断も区別もせずに、ただただ活動している思考を見守ることができれば、自ずと思考は非活性化していくのです。

それは思考にエネルギーが注ぎ込まれなくなっていくからです。逆に思考を止めようと思考を働かせればそれだけ思考にエネルギーが注入されてしまうのです。

思考と戦わないこと。戦いも思考を使うからです。思考は決して悪者ではないのですから、それをただ見守るだけいいのです。

そしてあなたが意識的であればあるほど、思考はあなたの中には入ってくることができなくなっていくということも覚えておくことですね。

本質に注意を向ける

自分の中にこの世界とはまったく関わっていない部分があるということに気づくことがとても大切だと思っています。

それはこの世界と距離ゼロにあるのにも関わらず、接してはいないと言うことです。これが何を意味するのか?

それは次元が違うということです。重なっているように見えても、実際にはくっついているわけではないのです。

あなたがどれほど悲しんでも、どれだけ怒り苦しんだとしても、その部分はそれを全部知りつつもどんな影響も受けない。

逆にあなたがどれほど幸福で、楽しい瞬間を過ごそうが、やはりそれはそれを見守っているだけなのです。

それはこの世界の法則からも除外されていて、つまり諸行無常の原理の外にあるものです。変化する何ものもない。

だから時間からも空間からも独立しているのです。それこそが私たちの本質なのです。それを意識と言ってもいいし、観照者と呼んでもいいし。

そこに注意を向けている時間を作ること。そして慣れてきたら、可能な限り普段の生活の中にそれを取り込むのです。

自我は徹底的に邪魔をするはずですが、それをうまくかわしながら少しずつ地道に練習して行くしかないですね。