女性性の時代に期待

男性性と女性性という言葉があります。どちらもそれぞれの性別の特徴的な傾向を表しているということですね。

例えば、男性性は攻撃的であり女性性は受容的という感じ。男性性は強さや堅さつまりは強固という特徴があり、女性性は柔らかさやしなやかさという感じです。

もちろん、男性にも女性に男性性があるし女性性もあり、どちらも人間社会には必要なものであることは間違いありません。

これまでの社会というのは男性性が中心となって作られてきたと言えるのですが、そろそろその限界が来ているように思います。

どれほどの達人であろうと、その人が頑なな感じがするのであれば、その人からは暴力しか生まれません。

この先人類が滅びずに存続するのであれば、その鍵となるのは女性性でしょうね。男性性が支配している限りは、いずれは戦争で自らを滅ぼすことになるはずだからです。

水のようにどんな形にでもなれる柔軟性があれば、争いごとからは遠のくことができることは明白です。

これまでのような発展発達、あるいは進歩に重点を置く代わりに、より自然体でより自由に生きることができる世の中になる方がどれだけ大切か。

これまで以上に女性の活躍を期待するというよりも、性別に関わらずに女性性を中心に活用する時代が来ればいいなと思うのです。

自我の本音を垣間見る

認知症を患った93歳の母親との夜な夜なする会話の中で、ごくたまに母親の自我の本音が表面に出てくることがあります。

昨夜はまさにそれがあったのです。いろいろ話している中で、母親曰く「心配事が全くなくなってしまったら、生きてる甲斐がない」と。

多少なりとも私の職業病が出て、セッションのように本心と出会えるように誘導しているのかも知れませんが…。

そう言う時の母親の態度には迷いがなく、どこかキッパリとした口調になるという特徴があるのも興味深いです。

不安や心配事がなくなったら困るというのが自我の本音であることはこのブログでも何度となく書いています。

私たちは常に、闘う相手、対処すべき問題、そういった不安や心配のネタを絶やさないようにして生きているのです。

それによって自分の本質に気づくことから遠ざかっていることができ、自我はその存在がただのイメージであることがばれずにすむのです。

年老いて、歩くこともままならず、何一つ自分一人ではできなくなった時に、心配のネタが尽きてしまった母親は、最終手段として妄想の中に入るわけです。

それを外部から助けてあげることは残念ながらできません。誰もが年老いてそのようになっていく可能性を持っています。

そうならないためにも、今のうちから自我の仕組みをよく理解して、不安や心配を用いた自我の策略に乗らずに済むように準備しておく必要があります。

そのためにも、普段から意識的であることを心がけておくことですね。

信念も自信もいらない

まだ大人になりきれてない、でもそれほど子供でもないという中途半端だった高校生の頃、自分てどんな奴何だろうとよく思っていました。

一番記憶に残っているのは、優柔不断なところ。政治のことや学生運動なんかにあまり関心がなかったのです。

それでも、そういうことに詳しい友人の話しを聞くと、ああなるほどと感心するのですが、それと全く違う意見を聞いても、それも確かになあとなるのです。

結局誰の意見を聞いても何だかそれが正しいような気持ちになるので、自分の意見がコロコロ変わる優柔不断な人間だなと思ったのです。

若い頃はそんな自分のことをあまり良くは思っていなかったのですが、最近はそんなこともどうでもよくなってきたのです。

もっと言えば、自分独自の意見などなくてもよくない?と思えるようになったのです。信念とは遠いところで生きている。

それと若い頃は絶対に必要だと思い込んでいた自信についても、今は自信があろうとなかろうと、そんなことはどうでもいい。

自信とは無縁の毎日を生きています。信念とか自信というのは、社会の中では役立つものかもしれませんが、使わない生活の方が快適なんだと気付いたのですね。

対処せずに見守ること

様々なクライアントさんとセッションをするにつけ、闘っているなあと感じることが多々あるのです。

生きるということはまさに闘いなんだなと思わざるを得ないのです。けれども、それじゃセッションにならないので、何が闘いなのかを明確にする必要があるのです。

その前に闘うということは、実は自我にとっては死活問題なのです。なぜなら、人が闘うことを放棄した途端に、自我の動きがスローになって終いには消えていくことになるからです。

つまりは、私たちは個人として存続しようとする限りは、闘い続ける必要があるということです。ここの理解が絶対的に必要です。

実際に闘うということの中には、具体的にどんなことが含まれているのか。例えば、他人と闘う、人生と闘う、自分自身と闘う、社会と闘う等々。

いくらでも出てきます。闘うというのは対象との間での関わり、あるいは従事することも含まれます。何としても◯◯しなければなども闘うことですね。

比較すれば闘いが待っています。欲望を叶えようとすれば闘いに突入するし、自己否定すれば自己肯定できるように闘うことになるのです。

このように、闘うことを挙げていけばキリがないのです。逆に闘わないということを見ていく方が賢いかもしれません。

対処せずにそれをそのままにしておくこと、例えば不安や心配事がやってきてもそのままにして見守ること。受容するということですね。

そうやってまずは闘うとは何を意味しているのかに気づき、そこから少しずつ離れていくように努めること。

そうすれば自然と極端を指向する自我の活力が減って、その分穏やかに真ん中を生きていくことができるようになるのですね。

ミッドジャーニーで描いてみた

昨日お絵描きAIツールがあると言うのを知って、誰でも無料で使えると言うことだったので、面白そうだからちょっと試してみたのです。

特に何を描いてもらおうかと言う希望もなかったので、確か「美しい女性、青い目、長い黒髪、モナリザ」というキーワードで指定してみました。

それで出来上がった4つの絵のうちのひとつが上の画像です。絵の出来栄えが自分好みかどうかは別にして、世界に二つとない絵を自分が描いた感があるのです。

絵心が全くないのでこんな絵が描けたと言うのが何だか嬉しい。本当は私は何もしてはいないのですけどね。

今やこのブログだって、きっとA Iに頼めば書けてしまうのだろうなと思うと、ちょっと恐ろしい時代になったとも思います。

いずれはA IがA Iを生み出す時代がやってくることは想像に難くありません。必ず今の延長線上にあることが分かるからです。

そしていつかはA Iにも自我が芽生える時が来るのかなと。なぜなら自我が作られていく詳細な条件をA Iが知ることになるはずだからです。

そうなったら人間の時代は終焉を迎えることになるかも知れませんね。彼らは膨大なネット上の情報と常に繋がっているし、人類の弱点も解消しているだろうから。

マインドのトリックに気づく

今日は毎日のようにマインドが作り出す馬鹿馬鹿しいトリックについて書いてみようと思います。

例えば、自分はダメだと思い込むとします。つまり自己否定をするのですが、それが辛いので何とかしてその自己否定から逃れようとするのです。

ここまではいいのですが、自己肯定ができるようにと必死に頑張って正当な高評価を得るために努力するのです。

ところがこの努力の原動力は自己否定からやってきているので、頑張れば頑張るほど、そしてどんな結果を出そうと自己否定がなくなることはないのです。

もしも自分は惨めな奴だと思い込んでいるとしたら、そこから脱却するために自分は決して惨めではないと言えるような人生にしようとするのです。

これも同様にして、その努力全体のエネルギー源こそが自分は惨めだという苦しみであるので、惨めを固定化することになるのです。

このカラクリに気が付かずに、人生をかけて挽回しようとすることがバカバカしいことだと言っているのです。

ではどうしたらいいのか?まずは、自己否定も惨めさも思考、つまりは思い込みに過ぎないということに気づくことです。

事実ではないことを相手にどれほど努力したところで、勝つことはできないのです。なぜなら戦いの相手に実体がないのですから。

思い込みであることに気づき、そこから逃れるための努力全体を放棄することです。そして活動の原動力を変えること。

不安や恐れや苦しみを原動力にする代わりに愛を使うこと。つまりは、シンプルにそうしたいと思うことをすることです。

そのことが結果として、思い込みという幻想から解放されていくことに繋がるのですね。思い当たる方は是非実践してみてください。

マインドを晒してくれる母親

最近は夕食を終えてゆっくりしている時間帯になると、認知症を患ってしまった母親の様子をリモートカメラで確認しながら過ごすようになりました。

認知症の症状の一つなのかどうかは分かりませんが、頻繁に目を覚ましてはトイレに行ったり、台所で冷蔵庫の中を覗き込んだりするのです。

家の中を彷徨しているような感じですね。そして最近特に私の部屋を訪ねてくることが増え、そこから二人の会話が始まるのです。

母親のマインドは不安を原動力として様々な心配事を作り出してしまうので、いつも悶々としている様子がよく分かるのです。

それも尤もなことで、日々の生活の記憶がほとんどない状態なので、明日のことを考え出せば全てが終わりのない心配のループにはまるのです。

もう一年以上毎日同じデイサービスセンターに行っていることを伝えて、明日も同じだよと伝えたところで、もちろん納得できないのです。

母親からしたら、そう言われても明日はじめて知らないところにいかなければならないのかとなるわけです。

記憶がないことを分かってはいるつもりでも、なかなか相手の立場に立って考えてあげることって難しいことだなとつくづく感じます。

30分ほど話しをしてようやく落ち着いて寝たと思ったら、20分くらいですぐに起きてウロウロする姿を見ると、ちょっと虚しくなりますね。

それでも、人間のマインドの仕組みや働きがどうなっているのかを知る上で、物凄く参考になるのでその点はありがたいのです。

さて今日は母親の中のどういった人格が出てくるのか、その人と話すことを少しは楽しみにしておこうと思います。

無選択の代わりに見守ること

選んではいけない。無選択こそあなたを自我から解き放つ。そのように osho が繰り返し言うのは知っています。

けれども、私たちの毎日の実情はといえば、選択また選択の連続で成り立っているのですから、無選択など土台無理なこと。

ずっとそのように思って、随分と不可能なことを言うんだなという理解でいたのです。ただ、無選択が結果として中道に導いてくれるというのは分かっていました。

私たちは選ぶことによってこの二元性の世界をより確固としたものにしているということも認める必要があります。

もしも本当に無選択でいられたなら、この世界は二元性から非二元へと変わってしまうはずなのです。

選ぶということはそれくらい、重要なファクターであるということですね。さて、だからと言ってじゃあどうしたらいいのか?

私が辿り着いた一つの方法ですが、無選択を指向するというよりも、ただ見守るということでいいのかなと。

自分のマインドの中には選択をし続けている部分が山ほどあるのですが、それをとにかく見守り続けるのです。

それによって、自分の中心では無選択と同じ状態になり、そのことによって中道という理想の生き方へと変わっていくはずですね。

自分が誰であるかを知ること

osho は次のように言っています。『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ』と。

文字通り、最初で最後とは一度しかないということを意味しますね。人生を通してステップが一つしかないということです。

そんな馬鹿なと思っても不思議ではありません。なぜなら、私たちは成長と共にあらゆるステップを上がり続けていると信じているからです。

二足歩行できるようになったら、一つステップアップしたのです。話せるようになったら、また一つ大きなステップアップを果たしたのです。

このようにして、できなかったことができるようになる、分からなかったことを理解できるようになる。

結局のところ、人生とはステップアップの連続とも言えるのです。それなのに、ステップは一つだけだと。

それも、自分が誰であるかを知ることだと言うのですから、変な話しですよね。自分が一番自分は誰かを知っているはずだからです。

このブログの一つの大きなテーマともなっているのですが、自分が誰であるかとは、自分の本質は何なのか?ということです。

それを知ること以外のステップアップは、ステップと表現する事もはばかれるくらいに、本質的なことではないということです。

であるなら、人生をもっともっと気楽に捉えてもいいのかなと。何を成し遂げたとしても、そんなことは自分の正体に気づくことと比べたら、本当にどうでもいいことだからですね。

我慢と受容は真反対

我慢すること、あるいは耐えること等と真逆にあるのが受け容れるということなのですが、この辺りが微妙に解りにくい場合もあるかもしれませんね。

もう少し具体的に言うと、例えば痛みを感じる事とその痛みを我慢することとでは違いがあるでしょうか?

どちらの場合もその痛みからは逃げてはいないように見えます。逃げる場合であれば、その痛みが辛すぎて痛み止めを打ってもらうという方法もあります。

けれども、我慢するというのは実のところその痛みを丸ごとは感じようとはしていないということに気づくことです。

我慢の裏には敵対視しているという感覚があるので、額面通りに感じることではないと分かります。

ただ多くの場合我慢している時には、十分にその痛みを感じているはずだと思えるかもしれませんね。それが両者の違いを曖昧にしているのです。

その痛みが物理的なものであろうと、心理的なものであろうと、その痛みとともにいようとするのであれば、受容するしかありません。

そして実は戦わずに受け容れる時の方が、その痛みの感覚というのは小さくなってくれるのです。勇気が必要ですが、その方が賢いやり方でもあるということですね。