老いを楽しむ余裕

高齢者の領域に入ってくると、自分ではまだまだ若いつもりでもそれなりの兆候というのが色々現れてくるものですね。

例えば、筋肉痛。中高年あたりから、運動した翌々日あたりから遅れてやってくるようになって、やれやれと思っていたのです。

ところが、最近では運動した数時間後には立派なやつがやってきてびっくりするのです。やり過ぎだぞって言われる感じがして…。

あるいは、新しい環境への順応力が極端に落ちてくるのです。日々ほとんど変わり映えのしない毎日を送っているせいなのか。

新しい車の運転、知らない道、新しい衣服、新しい家のシステム。こう言ったものに慣れるのに、ひどく時間がかかってしまうのです。

そしてもっと困るのが、視野が狭くなってくること。知らないものを目にしたときに、必要なところを探すのに時間がかかるのです。

ただこうした老いの様相を苦しみとして見るのか、それとも面白がることができるのかで、かなり気分が変わるようです。

若い頃の記憶というのも、今この瞬間のものでしかないことに気づけば、ただコレがあるだけであることを思い出すことができますね。

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個人という中心が薄れていく

ずっと自我から解放されて覚醒したいと願っていたのですが、そのくせ自我という自分がいなくなるというのは、一体どういう感覚なのだろう?と思っていたのです。

自分がいなくなるというのを想像できなかったわけですね。でも最近それが少し分かるようになってきたかもしれません。

自我という個人の自分はいなくなっても、誰でもない自分がいなくなるわけではないのだと。この誰でもない自分とは何か?

きっと純粋な意識のことなのではないかと。気づいているこの感覚のことですね。コレがなくなることはないと誰でも直感的に分かるはずです。

それでも個人としての自分、つまり皮膚の内側に凝縮している自分、中心があるという感覚が薄れてしまうのです。

単にそれだけなのではないかと思うようになりました。だから、自我が薄れても毎日をこれまで通り普通に過ごしていけるのです。

覚醒するというのは何かの体験が起きることではないということです。ただ個人という中心が見つからなくなること。

都合の悪いことや問題が起きなくなるということでもありません。ただ、どこかで今この瞬間にはどんな問題もないことに気づいているといった感覚ですね。

ただ体験が起きるという気づき

非二元の探究の最中に、時間も空間も物質もその実体はないということが明確になった時に、そんなことはどうやったってイメージできないとなったのです。

つまり、私たちは自分が経験してきたこと、あるいは経験はなくてもそれなりにイメージできることだけを相手に生きているのです。

だからイメージできないものというのは、まったく論外になってしまって、相手にする必要もないとなるのです。

ところが、探究の結果というのは人情のあるなしどころか、いたって非情なものであって、どれほど抗ったところでどうしようもないと気づかされてしまうのです。

どんなに自分の理性や理屈がそんなわけないと文句を言い出したところで、全てがスルーされてしまうのです。それはもう小気味いいほどに。

で諦めるわけです。人間の好き嫌いとか理性とか、そう言ったものをはるかに超越していることに気づくのですから、逆に素直にもなってしまいます。

じゃあこの人生というのは一体何なのか?これにどんな意味があるというのか?こうした疑問が結果として消えていくだけなのです。

コレは解決すべき問題などではなくて、ただ体験として起きている(ように見える)だけだということに気づくのみなのですね。

愛車を送り出す

昨年の年末あたりから急に思い立って、クルマを変えることになりました。これまで毎日乗っていたクルマと入替になるわけです。

大抵そういう時期になると、乗っているクルマの調子が微妙になってくるのですが、今回だけはびくともしないようです。

不思議なもので、クルマの中で運転しながら新しいクルマのことを話題に出すだけで、今のクルマに何かの異変が起こるのです。

もう何度となくそういう経験をしているので、今回もどうなるのかなと思って様子を見ていたのですが、今回に限ってまったく変化なし。

それと、これも初めての経験なのですが、自分の気持ちの中で初めて今のクルマを手放すことへの郷愁のような感覚があるのです。

だったら手離さずに2台持ちにすればいいじゃないとも思ったのですが、結構ギリギリまで迷ったのですが、やはり入れ替えることにしたのです。

それにしても、今のクルマは本当に悪いところがまったくなく、完璧に近い状態でよその人のところへ旅立っていくことになるのです。

柄にもなく、なんだか神妙な気持ちで送り出してあげることになりそうです。7年を超えるお付き合い、お疲れ様でした。そしてありがとう!

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自分の中心が薄れていく

自分はいないんだ、自我というのは架空の存在なんだ、という情報に触れてからどれくらい経ったのだろうと思うことがあります。

最初にそれを知ったのがいつだったかは覚えていないのですが、ただそのことがとても新鮮でしかも気持ちいいものだったことは明確に覚えています。

この悩ましい自分が本当はいないんだということが、どれほどの救いになったことか。本当に気持ちが軽くなったのです。

ところがそこからが長かった。というのも、そういう情報を聞いたところで、毎日の生活が変わるわけではなかったからです。

瞑想をしようが、osho の講話本を読もうが、特別な大きな変化はやってこなかったのです。それでも瞑想は日々断続的にやっていたのです。

そんな折に、ふとしたきっかけでこの世界には実体というものがないことに気づいて、そこから非二元の探究が始まったのです。

それからは、時空も物質も存在しないことにも気づいてしまい、どれほど頑張ったところで自我などというものの居場所がなくなったのです。

そしてゆっくりと、少しずつではあるのですが、無理なく自然と自我という自分の中心が薄れてきたのです。

自我はいなくならなくてもいいと分かったし、そこに拘る必要がなくなっていったのですね。そんなわけでみなさん、気楽に行きましょうや!

生が自分を引っ張ってきてくれた

早いもので、今年に入ってもう1ヶ月が過ぎ去ってしまいました。一体自分は何をしたんだろうと思ってもまったく思い出せないのです。

どう考えても、自分がこの人生をリードしているという感覚がなくて、逆にこの人生が自分を引っ張ってきてくれてるんだなと。

ああそう思うと何だかありがたい。自分は何もせずとも、さまざまな体験を次から次へと送り出してくれるのですから。

そうやってようやく人生の舵取りの立場から退いて、お客さんのように生きることができるわけですね。

でも実はずっと最初の頃から自分はリーダーではなくて、もてなしを受ける立場でしかなかったということの気づき。

これが分かると、これといった特別な理由などなしに、生に対する感謝の気持ちというのが湧いてきます。

そしてもう少し行くと、そんな自分すらいなかったんだなと。あるのは、現象としての生だけだったんだという気づき。

死ぬまでに気づけて良かったような、どうでもいいような。

非二元の話は理屈に合わない

非二元の話をしていると、自分で自分に突っ込みを入れたくなることが何度もやってきますが、全部スルーすることにしています。

というのも、それを一つひとつ見ていってもどこにも到達しないからですね。そして探究も止まってしまいます。

実際、探究が止まることは悪いことではないのですが、探究者の立場からしたらちょっと具合が悪いのです。

そういうことにならないようにと、どれだけ言葉を選んだところで所詮は言葉は二元の世界のものなので、どうにもならない。

じゃあ何で非二元のことを伝え続けているのかというと、本当のところ、これにはどんな理由もないのです。

どんなことであれ、それが起きるのにはそれなりの理由があると思ってしまうのは、二元の世界に生きているからです。

本当はどんな因果もないので、そこには一切の物語性が存在しません。だからこそ、そこに「なぜ?」はないのです。

今この瞬間に起きていると思われることの全ても、それがただ起きているだけで、そこには理屈は存在しないのですね。

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手に入れたものと失ったもの

小学生の頃にビートルズの曲を初めて聴いた時に、自分の中で衝撃が起こって何かが弾けたような感じがしたものです。

特に、メンバーの一人であるポール・マッカートニーが大好きになって、彼が作る曲を聴いて天才だなと憧れていました。

こういう人は欲しいものは全て手に入る人生なんだなと。お金、名声、友人、才能。彼は、自分が欲しいと願うものをその最大級のレベルで手に入れたんだと。

ところが今になって、彼の人生を遠くから客観的に眺めたときに、どれほどの苦しみがあったのかを少し知ることになりました。

14歳の時に最愛の母親を病気で亡くし、超有能なマネージャを亡くし、ビートルズから脱退することでビートルズ自体も無くしたのです。

その後、最高の友人であるジョン・レノンを亡くし、最愛の妻を母親と同じ病気で亡くし、弟分のようなジョージ・ハリソンも亡くしたのです。

不思議なもので、手に入れたものと失ったもののバランスが取れているのかなと思ったりもするのです。

こう言った考えは二元的なものでしかないのですが、それにしてもなんとなくそんな法則がどこかで働いているように感じてしまいますね。

人生に意味はない

人生には目標があった方がいいというのはよく聞く話ですね。ただ漫然と毎日を暮らしているよりも意味を感じられるのだと。

ところが一度でも目標を設定してしまうと、今この瞬間がその目標を達成するための時間に成り下がってしまうのです。

そして、目標への到達が常に未来であるために、今この瞬間は未完ということになって、不満足だったり何かの欠乏を感じるのです。

自分はこのままではダメだとか、もっと向上しなければならないとか、より良い人物にならねばならないと感じるようになるのです。

こうして、目標を作って未来を標榜する代わりに、大切な今この瞬間を十分に生きることが難しくなってしまうわけです。

加えて、目標に到達できなかったらどうしようといった未来への不安にも悩まされることになるのです。

人生は解決すべき問題なのではなく、体験される出来事なのです。体験が全てだということですね。

人生に意味はないというのは、なんら欠けたものがないということでもあるのです。過去も未来も忘れて、思い切り今この瞬間に関わる生き方ができたら最高なのでしょうね。

「中道」という言葉を踏みにじってる

衆議院の解散総選挙を受けて、政界がまさに嵐のような様相を呈するようになってきましたね。毎度のことですが。

そうした中で、主義主張のまったく異なる二つの野党が、選挙のためだけに手を組んで、つまり野合とも呼ばれる国民をバカにした作戦に出たわけです。

しかもこともあろうに、その名前を「中道〇〇連合」としたのを知って、口がアングリと開いてしまいました。

あまりにも酷すぎる。何だか自分が大切にしてきたブッダの言葉を、勝手な解釈で自分達に有利に働くように使っているようで。

その傲慢さに気づいていないので、正直早く落選して彼らが政治にしがみつく人生から解放されることを祈るのみです。

ブッダの中道や孔子の中庸は究極の生き方であって、自らの選挙のためだけに野合を組むような生き方とは真反対だと言ってもいいのです。

この選挙を記憶してしまう若い人たちが、もしかしたら中道という言葉にアレルギーが残ってしまうようなことにだけには、決してならないで欲しいなと。

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