夢の中の体験は本物?偽物?

寝ている時に見る夢というのは、何から何までが作り物で、目が覚めてしまえば、全てが消えていってしまうものと思っています。

なぜなら、頭ででっち上げた架空の物語を見ているからです。どれほど、素晴らしい景色を見ても、最高の音楽を聞いても消えてしまいます。

怖いお化けも、美味しいお菓子も目が覚めたら全部消えてしまうのです。だから、夢は何から何まで想像の産物だと思うわけです。

けれども、その夢の中で起きる体験はどうでしょうか?怖いお化けに追われたら、本当に恐怖を感じるはずです。

あるいは、美味しいケーキを食べたら、本当に美味しいと味わうこともできるのです。つまり、体験は嘘ではないのです。

ここが不思議なところで、夢の中で起きるあらゆる体験は、ホンモノだということです。これ、皆さんは気づいていましたか?

体験はリアルであって、想像やイマジネーションではないのです。このことは非二元でも同じなのです。

時間も空間も物質もないのに、体験だけはリアルにあるのです。非二元を夢に例える理由はここにあるのですね。

状況証拠だけしかない

犯罪において、状況証拠だけでは有罪にならないということがありますね。誰でも概ねは知っているはずです。

状況証拠というのは、犯行そのものを直接証明しない証拠のことです。たとえば、犯行現場の近くにいたとか、動機がありそう、被害者とトラブルがあった等々。

これに対して直接証拠というのは、目撃証言がある、防犯カメラ映像、自白、犯行の瞬間を示す録音や録画がある等々。

このことを踏まえて、次のことを自分に対して質問してみて欲しいのです。自分は自分自身(身体ではなく)を見たことがあるか?

あるいは、家族、恋人、友人などを(身体ではなく)直接見たことがあるか?もしも、答えがイエスであるなら、自分や他人がいることの直接証拠があることになります。

けれども、一度も直接見たことがないのであれば、自分や他人がいることの直接証拠はないことになります。

結果、私たちが自分や他人がいると信じているのは、状況証拠を積み重ねた結果に過ぎなかったということです。

会話ができる、自分も他人も考えたり感情を感じたりできているような状況が見てとれる。誰もが意識があるかのような状況証拠がある。

肉体に触れることができることも状況証拠でしかありません。ここから、誰もいないという非二元の感覚に持っていくことが可能ですね。

非二元の話は誰に対しても変わらない

セラピストの仕事をするようになって、自分の口から出る言葉を聞いて思ったことがあるのです。それは、相手によって言うことが変わるなと。

それは相手が大人か子供かによって、表現方法を変えるといった表面的なことではなくて、全く異なることを言うということです。

どこの部分を強調して言えば一番有効なのかとか、その人に最も効果のある内容を選ぶのは当然のことです。

けれども、ここで言っているのは相手によっては真反対のことを言ったりすることもあるというレベルのことです。

嘘も方便という言い方もあるように、何を基準にするかで全然内容が違ってきたりしてしまう経験をよくしています。

ところが、こと非二元の説明をする時には、そういった相手によって内容を変えるということが起きないのです。

たまに表現を変えることがあっても、大した違いはないのですね。非二元では、ああも言えるし、こうも言えるがなくなるのです。

それはきっと方便を使うことができなくなるからなのでしょうね。ありのままの現象を修飾する言葉がないし、不要なのですね。

だからこそ、分かりにくいと感じられてしまうこともあるのかもしれませんが、逆に気づいてしまえばこれ以上シンプルなこともないのです。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

唯我論 vs 非二元

若い頃からずっと密かに思っていたことがあるのですが、それはこの世界には自分しかいないんじゃないの?というものです。

これは本当に自分と正直に向き合った結果なので、どうしようもないのですが、例えば他人の存在を証明することができないとか。

この世界というものが仮にあったとしても、それは自分が知覚するからこそ、その存在が明らかになるのであってとか。

分かることは自分のことだけであって、それ以外のことは類推するしかないのです。こういう考え方を唯我論というのですね。

人に伝えると、きっと傲慢な奴だと思われるのがオチだと分かっていたので、ほとんど人に言うことはなかったのです。

それが今となっては、非二元の気づきに至るための大切なプロセスだったのではないかと思うのです。

唯我論のベースは自我ありきだったというところ。非二元の気づきに至ると、内側も外の世界と同様に幻想だったと分かるのです。

自分の中心がしっかりあると感じていたものが、気づくと薄れていって自分の枠と共に消えていくことになったのです。

この世界にあるのは自分の体験だけだというのが間違っていたのです。単に体験だけがあるということだったのですね。

一日一食にしてみたら

半年前くらいから、ほぼ毎日通っていたスポーツクラブを辞めて、運動不足になっていたのと、普段から食べ過ぎなのかなというのが重なって、体重が増加してきていました。

身体も何となく重い感じだし、お腹周りがかなり太くなってしまったこともあって、そろそろどうにかしたいなと思っていたのです。

そんな折、ある動画で一日一食にしたら何を食べてもガンにならない、と言っている医者がいたのです。

これはいいと思って、早速実践してみているのですが、これがなかなか好感触なのです。身体が軽く感じるし、体調もいい。

多少の空腹感はどうしてもやってくるのですが、それも大したものではありません。元々朝食は食べないことが多かったし。

昼食をリンゴ半分程度にすることで、夕食がいつもより美味しく感じられるのも嬉しいのです。そして少しずつですが、体重も元に戻りつつあるのかなと。

年齢が年齢だけに、基礎代謝がうんと減ってきているので、それほど食べなくてもいい状態になっているのが分かります。

食べなければ食べないほど健康になる感じがします。来月からまたスポーツクラブにも復帰するつもりでいます。

寒い毎日が続くと、どうしても暖をとりたくて多めに食べてしまうということが起きるようで。いつまで続くか分かりませんが、この一日一食生活を継続できたらいいなと。

勿論、何が本当に身体に良いかは人によってまちまちなので、全ては自己責任でということになりますね。

「誰かがいる」って不可能なこと

「体験だけがある」ということをずっと言い続けてきた結果、この体験をしている誰かがいるということが言えなくなったのです。

この「誰か」とは一体何なのだろう?と言う素朴な疑問がやってきたのです。なぜなら、体験主体を一度も見たことがないと気づいたからです。

過去のあらゆる記憶も、誰かの記憶ではないし、痛みも喜びも誰かのものではないのです。勝手に思考がやってくるし、感情も湧き上がるだけ。

体験の全てが自動で起きてくるだけなのですね。体験の中に私を見つけたことは、かつて一度もなかったということです。

誰かがいるということが、決定的に不可能だという気づきがやってきたと言ってもいいかもしれません。

「誰か」はあり得ない。だから、「私」もあり得ないのですね。嘘だと思うなら、自分がいると思うところを探してみてください。

絶対に自分を見つけることはできないはずだから。で何か変わることがある?と見つめたら、実際にはこれまで通りの人生が続いていくのですね。

ただそれを人生と呼ぶのはどうなのだろう?という感覚が強くなっていて、やっぱりそれはただ体験が起き続けるということです。

中心が薄れていく

これが「私」と思っている自分には、何となく中心があるように誰でも感じているのではないでしょうか?

それこそが自我の正体なのです。自分というのはしっかりとした明確な存在であり、そこには中心と思しきものがあるのだと。

けれども実際には、自我というのは思考の塊のようなものであって、そこに私たちがイメージしている実体のようなものはないのです。

そのことを簡単な図で示してみたので、下図をご覧ください。中心部には確かに円があって、そこがこの図の中心のように見て取れます。

周囲にある一本一本の線は思考を意味していて、無数の思考が絡み合って自我が成立することを示しています。

ここで、この思考を外していくとどうなるでしょうか?結果は明白です。そこにあると思っていた中心(円)は跡形もなく消えてしまうはずです。

これが自我が幻想に過ぎないということの意味なのです。思考の連鎖があたかも中心があるかのような錯覚を与えるのです。

非二元の探究においても、この自我の中心が薄れていくような感覚を味わうことができるのですね。

AIはいずれお金の価値をなくす

最近のAIの進化が凄まじくて、今後はその勢いに更に拍車がかかって、きっと想像を上回るような驚異的な進化がやってくるでしょうね。

特に、AI自体が次世代のAIを開発するようになった時に、つまりその進化が人間の手を離れるようになったら、もう全く予想ができなくなるわけです。

しかも、AIとロボットの合体によって、あらゆる仕事を人類に代わって成し遂げるようになるはずです。

そうなると、人間は仕事をする必要がなくなります。AIに仕事を奪われるという側面もありますが、もう一つはお金を稼ぐ必要がなくなるのです。

なぜなら、AIロボットの発達は仕事の生産性を驚異的に高くするので、物価は限りなく低くなっていくからです。

テスラやスペースXのCEOであるイーロン・マスクは、「AIの進化はお金の価値をなくす」と断言しています。

しかも、それは20年後くらいにはやってくると言っています。人類は労働から解放されて、働きたい人だけが働く世界がやってくるのです。

多くの人々は、ただ自由な人生を気の向くままに生きるようになるのです。その時に、今の私のように探究をライフワークにする人も増えるような気がしますね。

なぜなら、何者かにならねばとか、何かを達成しなければといった欲望が小さくなってしまうからです。

ただし、希少性を争う強烈な自我にそそのかされる人々もいて、全てが万事丸く収まるということにはならないかもしれません。

この世界がどのようなものになったとしても、最終的には人間(自我)の欲望が小さくならない限りは、不平不満がなくなることはないのでしょうね。

非二元はマルチモーダル

最近の目覚ましいAIの進化の特徴とも言える言葉にマルチモーダルになったというのがあります。

ここで言うマルチモーダルとは、マルチ(複数)の異なるモード(情報形式)を同時に扱うと言うことを指します。

たとえば、テキスト(文章)、画像、音声、動画、その他の情報を統合して処理することができるわけです。

画像を見て説明文を書くとか、音声を聞いて文字起こしする、動画を見て内容を要約すると言ったことです。

このマルチモーダルのイメージを非二元に当てはめることができるなと思ったのです。二元の世界では、見る=視覚、聞く=聴覚、触る=触覚なわけです。

ところが非二元では、見ている主体も、聞いている主体も、感じてる主体も実体としては存在しないのです。

実際には視覚+聴覚+触覚が一つの現れとして起きていると言うことですね。つまり、マルチモーダルに立ち現れている一つの体験となるのです。

これまでお伝えしてきた非二元は一様であると言うこととも繋がることですね。空に浮かぶ雲と空腹感は一つの現れなのです。

本当のところ、マルチモーダルと表現したくなるのは二元の発想なのです。非二元がすでに「そうである」ことを、思考が追いかけて名づけた言葉です。

実際には、ただコレがあるとしか表現することができないのですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

無理なく自我の不在に気づく

非二元に気づく以前の私の探究というのは、ひたすら自我が幻想であることを見抜くためのものでした。

手段はもっぱら瞑想に励むことでした。なぜなら、それ以外のどんな方法も思いつくことができなかったからです。

歴史上の覚醒者のほとんどが、瞑想や座禅によって悟りを開いたと聞いていたからですが、指導者不在の中での瞑想は遅々として進まなかったのです。

そして非二元の気づきらしきものがやってきたわけです。それは自我からの解放という目的とは異なるものでした。

自我の存在云々以前に、この世界の実体が存在しないということの気づきだったからです。こうした気づきを自我が邪魔をすることはなかったのですね。

だから自我のままで、十分に余裕を持って非二元の探究を進めて来れたのです。そして自分の中で、この世界の不在が定着して行ったのです。

そして、外側の世界が不在であることを通して、それなら内側の世界もあるはずがないという決定的なものが見えてきたのです。

自我でいながらにして、自我の不在を明確にすることができたのです。そして、外側も内側もない世界に残るものがあるのです。

それが体験であり現象だったのです。そしてそれは純粋な気づきでもあるということになったのですね。

ここへ来てようやく、ただ純粋な意識、気づきだけがあるというのが究極の事実であると言えるのでしょうね。