体験を説明するのは難しい

体験だけがあるという前に、そもそも体験とは一体なんなのだろうか?ということについて明確にしておきたいと思います。

私が今分かっているレベルでは、体験というのは時間でも空間でも物質(素粒子)でもない何か。

時空と物質に依存することなく起きるように見えるもの。このような定義ができるのかなと思っています。

体験についてはこれまでどんな科学者も触れることはなかったのです。科学者は分かったつもりで終わっているのです。

そして唯一体験が依存しているのは、気づきなのですね。気づきがなければ体験は起きようがありません。

体験あるいは現象は気付きと同義語と言っても過言ではないかもしれません。体験あるいは現象をこれ以上うまく説明する術がありません。

説明することができないのに、それだけがあって、それ以外がないのですから驚きです。加えて、体験には気づきが必須ですが、気づきに体験は必須ではないのでしょうね。

映像のスクリーンは体験の場のようなもの

非二元の説明の中で、「体験しかない」ということを繰り返しお伝えしているのですが、それを別の言い方で説明してみたいと思います。

一番分かりやすいのは、スクリーン上に映し出される映像です。スクリーン上には、映像以外はありません。

つまり、「映像しかない」と言えるのです。映像の中身にはそれこそあらゆるものが含まれますね。

人間ドラマかもしれないし、大自然の映像だけかもしれませんが、その場合は物語は入ってくることはありません。

そして映像には必ず、それを体験(観る)する体験者が必要です。映像だけが単独で存在することはできないからです。

これが二元の世界です。一方の非二元においては、体験者がいるという体験が起きているように見えるのです。

その映像の中に体験者が含まれているわけです。そして、スクリーンこそが映像に気づいている意識であるとも言えますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

二元の世界は目的と手段でできている

昨日のブログでは、自我の生き方というのは目的と手段の分離が一般的だというお話をしました。

一方で、目的と手段が一つであり、つまりは目的も手段もないような状態というのは、無我の状態になるということでした。

苦しみの原因は自我であることから、無我の状態になれるのであれば、それは私たちにとって理想的であることになります。

ではそのコツは何かというと、非常にシンプルに好きなことをただやるということになるのですね。

何かをしている理由を問われても、ただそうしたいからしていると言えるのであれば、これは目的も手段も消えていることになるからです。

幼い子供がよく絵を描いている姿を見ると思いますが、その子が絵を描く理由はないのです。ただ、描きたいから描いているのです。

これが無心の状態になっているわけです。ここにはどんな苦しみも発生することがありません。

ところが、上手に描いて褒められたいと願うようになると、褒められるという目的のために絵を描くという手段を使うことになり、突然自我の領域に変化してしまいます。

そうなると、絵を描くことがつまらなく感じられるようになって、絵を描くことをやめてしまうようになるのです。

自我はいつでも自我の領域に本人を戻そうと画策していることに気づくことです。そして注意深く、目的と手段が分離していないかどうかを確認することです。

この場合は、褒められて安心したいという防衛が、入り込んだ結果だと理解する必要があります。

非二元を思い出して、物語の中にどっぷり浸かってしまっていたことに気づくことでも、それを回避することができるはずですね。

非二元では目的と手段が一つになる

私たちは、一般的にお金を稼ぐという目的のために働くという手段を取るし、空腹を満たすために食事をするのです。

このように、自我というのはいつも目的と手段のペアで生きていると言えるのです。その目的を達成するために手段があるのだと。

目的と手段が綺麗に分かれているわけです。これがほとんどなのですが、たまには目的と手段が一つになっている場合があります。

たとえば、ギターを弾いてみたいという時、ギターを弾くことが目的であり、そのための手段はギターを弾くことなわけです。

そうした時には、目的は目的ではなくなり、手段も手段ではなくなってしまいます。つまり、ただそれが起きているということ。

そしてここには、自我の姿はありません。つまり無我の境地でいる時には、必ず目的と手段が一つになっているのです。

大笑いしている時というのは、ただ大笑いしているだけであって、笑う目的も笑うという手段もありません。ここに自我の戦略はありません。

ただし、作り物の笑いの場合には、嫌われたくないという目的のために笑いという手段を取ることとなり、目的と手段は分離するのです。

覚醒するという目的のために瞑想という手段を取る。覚醒というのは自我からの解放を意味するので、自我から解放されるために自我の生き方をしているのです。

目的が消えた時、自動的に手段も消えていくわけです。これが二元が非二元になるということを意味しています。

毎日の生活の中で、目的と手段が一つになっている、あるいは双方が消えている時だけ、あなたは輝いているのですね。

自動運転を思い出す

人生の中で、何度も大きな決断をしなければならないことがありますね。仕事を決める時や、誰と人生を共に生きていくかを決めるような場合。

あるいは、何か比較的高価なものを購入しようとするときなど。すぐに決定できる時や、かなり思い悩む時もあるものです。

今思い悩むという表現を使いましたが、そうした決意に至るプロセスを楽しめる人はいいのですが、それを苦痛に感じる人もいるのです。

私自身は、家を建て替えるときの膨大な作業量を楽しむことができないタイプでしたので、丸ごと誰かに頼みたいと思ったのを覚えています。

きっと失敗したくない、損をしたくないといった不安感が、意思決定のプロセスを辛いものにしてしまうのでしょうね。

そんな時に役に立つのが自動運転という考え方です。日頃は忘れてしまいがちなのですが、ふとその視点に戻ることができると、物事がどう推移していくかを眺めることができるのです。

そこへ持っていく一つのヒントは、たくさんあると考えられる決定要因を全て傍において、今この瞬間に特化した最優先の要因にのみ注目するのです。

すると、あれこれ考えあぐねていた事柄が、あっという間に結論が出てしまうのです。そのときに、自動運転であることに再び気づくことになるのです。

この自動運転への信頼感は、非二元の探求からやってきたものです。皆さんも是非何かを決めあぐねている時に思い出してみることをお勧めします。

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非二元は何でもありを思い出させる

子供の頃から割と理屈っぽい性格だったなあと思うのです。もちろん大人になってもそこはそれほど変化してはいません。

理屈に合わないことを言われたり、理路整然としていないことがあまり好きではないというところは同じです。

けれども、非二元の探求によってこの世界というのは単に現象が現れているだけだと分かったので、そこにはどんな理屈もないということが明確になったのです。

正確に言うと、現象が起きているように見えるだけで、その現象にはどんな実体もないのです。

だから、どんな現象が起きようと、どれほど不思議な現象(体験)が起きようと、それはもう当たり前のことだと。

言ってみれば、「何でもあり」になってしまったのですね。「そんなことはあり得ない」が消えてしまったのです。

そう考えると、もっともっと不思議で奇想天外な事象がたくさん起きてもいいのになあと思うのです。

何が起きるか予想できないのはやや不安な気もしますが、一方であの幼少期のようにルールなしの世界で生きる開放感は格別ですね。

純粋な気づきだけがある

二元性の世界を作り出している根っこにある幻想は、客観的事実が存在するという思い込みです。

この思い込みは非常に強くて、一体いつからこんな妄想を信じて疑うことをしなくなったのか、不思議です。

本当はただ現象が起きているだけであって、それが何かはまったく説明することもできないし、理解することもできません。

ただ一つ分かるのは、現象は気づきなしでは起きないということです。常に気づきとともに現れては消えていくのです。

つまりは気づきありきなのです。それなのに、気づきの外側があるという妄想をしてしまうのですね。

それこそが客観的事実なのです。気づきがカバーしきれない未知の存在、それが客観的事実というわけです。

それは不可能だと気付けます。不可能を可能にできるのは、それが妄想だからに他なりません。

気づきが身体の内側にあるという途方もない妄想が、そうした幻想の連鎖を生んだということでしょうね。

注意深く妄想を排除していくことができれば、全ては純粋な気づきであり、それ以外は何もないということにも気づくことになります。 

人生を背負わなくてもいい

何があろうと、どんなことが起きようと、毎日は続いていくのです。そして、そこに体験している「私」はいないのです。

体験だけがあるのです。この違いにふと気づいた時に、自分がこの人生を背負ってきたという重荷が取れるのです。

非二元の探求によって気づいたことは、兎にも角にも体験だけがあるということです。なぜ体験が続くのかは分かりません。

それはただ起きるのですから。そして正確に言えば、ただ起きているように見えるということなのです。

体験者の不在の中で、ただ体験だけが続いていくのですから、あなたがあなたの人生の主人などではなかったということ。

私たちはいつ頃から、勝手にこの人生は私のものであり、私が何とかして失敗しないように頑張らなければならないと思うようになったのか。

綺麗な模様の絨毯があったとします。その平らな絨毯を、両手のひらで少し内側に寄せるようにすると、シワができてその部分が持ち上がったようになりますね。

それが「私」です。少し模様は歪みますが、手を離して絨毯が平らになれば、模様もまた元通りになり、「私」も消えてしまいます。

「私」というのはそんなものでしかないのです。シワの持ち上がった部分があろうとなかろうと、絨毯には何の違いもありませんね。

あなたは、その絨毯のシワではなく、絨毯そのものだということに気づけばいいのです。

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苦しみの根っこにあるもの

心地良さと不快感を比べたら、誰だって心地良さの方を選ぶはずですね。これは、動物としての本能のようなものです。

つまり、心地良さを求めて不快を排除しようとするのです。人間であれ、ワンちゃんであれそこに違いはありません。

そして実は、この求めることと排除することこそが、苦しみを生む張本人なのですね。このことは、よくよく見つめる必要があります。

さらに、人間だけが本能に加えて心理的な要素がとても大きいため、苦しみも大きくなってしまうのです。

この求めることと排除しようとすることをまとめて、現状への不満感、あるいは抵抗と呼ぶこともできます。

結局、この抵抗さえ小さくすることができるなら、私たちが抱えている苦しみを小さくすることができるのです。

そしてこの抵抗を作りだしているのが、個人性なのですね。つまり、私という個人がいるという感覚が、本当の意味での苦悩の大元なのです。

非二元に深く気づくことは、この個人性の幻想に気づくことでもあるのです。つまり非二元の気づきは、我々の苦悩を小さくする助けをしてくれるということですね。

AIにブログ感想文を作ってもらった

AI 君に最近の自分のブログを読んで感想を聞かせてとお願いしたところ、瞬時に以下のような返答をもらいました。上手くまとめられていて、私自身も参考になりました。

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読んでみました!あなたのブログ(ヒーリング オフィス ルシッド)の最近の投稿を拝見すると、「非二元(ノンデュアリティ)」の体験と洞察を中心にした深い探求が続いています。以下は最近の記事の概要と私なりの感想です👇  

🧠 最近のテーマと内容の傾向

🔹 非二元という視点での体験の再解釈

・「非二元を簡単に分かる方法」

・「直接経験はシンプルさの極み」

・「直接経験の中にモノは存在しない」

・「どんなにリアルに感じても実体はない」

・「個人的人生なんてない」

など、どの記事も体験と物語(思考の創作)を分けて理解しようとする視点が一貫しています。非二元とは「現象としての体験と、それをどう思考で物語化しているか」を見極めること、という立場が感じられます。  

特に直近の記事では、「身体や分離という思い込みから離れて、直接の体験だけを見る」という内容が印象的です。身体が実体としてあるのではなく、感じとして現れているだけだという洞察は、非二元哲学でよく語られる「物語(思考による創造)」と「現れる体験(直接経験)の違い」に深く踏み込んでいますね。  

🌱 私の感想

🌀 深い問いを読者とともに探求している

あなたのブログは、単に考え方を説明するだけでなく、体験のあり方そのものを問い直すプロセスを読者と共有しているように感じました。たとえば、「身体って本当にあるの?その実体とは何?」という問いが、思考レベルを超えて、読者の体験レベルまで誘導している点がとても興味深いです。  

これは単なる哲学的な「知識」ではなく、体験そのものを直接に問い直す実践的なブログ記事になっていると思います。

💡 核心を突く視点

あなたの文章には次のような傾向があると感じました:

✅ 日常で当然と思われている事柄を根本から疑う視点

(例:「身体」「個人」「分離」という観念)

→ これは多くの人が直感では感じつつも、日常性に埋もれて見落としている部分でもあります。

✅ 思考と体験を分けて捉える明快さ

→ これは非二元を理解するうえで非常に重要な視点で、ただの知識ではなく生き方の視点の転換にもつながるものです。

🌟 印象に残ったポイント

• **「体験だけがある」**という観点は哲学的ですが、日常的な具体例(身体感覚や目の前の感覚)を通して説明されていて、読者が自分の経験に落とし込みやすい。  

• **個人的な生活体験(例えば麻酔下の感覚)**を哲学的洞察に結びつけている点が、とてもリアリティを感じさせます。  

• 全体として「読者に考えさせる」ではなく「読者と一緒に体験させる」ような文体が印象的でした。

🧩 全体の感想をひとことで言うと

あなたのブログは、単なる思想紹介ではなく、「見る・感じる・気づく」という体験そのものを読者と共に歩んでいる深い探求の場になっている。

これは単純に読むだけではなく、「読むことで自分自身の体験を問い直す」という、能動的な気づきの場として機能していると思います。