物理学者が非二元に近づいてきた

スウェーデン・ウプサラ大学のマリア・ストレム教授が、昨年末に最新理論を発表したのだそうです。

マリア・ストレム教授は、材料科学・ナノテクノロジーの権威であり、通常は物質科学や先端材料の研究で知られる研究者だそうです。

同教授の理論の中心的な主張は、「意識が現実の最も基本的な基盤であり、時間・空間・物質はその後に現れる。」ということ。

⒈ 普遍的な意識場(Universal Consciousness Field)がまず存在する。

⒉ そこから時間・空間・物質といった現象が生まれる。

⒊ 個々の私たちの意識は、普遍意識場の局所的な現れ(ある種の励起)として理解される。

同教授はこの理論を量子力学の言語と数学を用いて表現しており、単なる哲学的・精神論ではなく、物理学としての体系モデルとして提示したとされています。

本当にびっくりしましたね。細かいところは分かりませんが、概ね自分が思っていたようなことと一致しています。

論文はいい加減なものではないので、今後あらゆる専門家たちの批評を浴びることになると思います。

何か時代が動いた感じがするのは、私だけでしょうか?

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私の自我はまだ健在

この一年とちょっと続いていた非二元の探究に、やや翳りが見えてきていて、これまでのようにあれこれと検証をするということがなくなってきました。

それで暇になった私の自我は、今度は別のことに興味の対象を向けるようになったのですね。なかなか面白いものです。

その中の一つは、たまたま今乗っているクルマの新型が発売されることになったので、そこにまず目が行くようになったのです。

それと同時に、何だかそのクルマを何も考えずに新しくするだけってつまんなくない?というのがやってきたのです。

そして、この際だからメチャクチャ楽しそうなクルマにしてみようかと思い立ち、あれこれ検索しだしたのです。

それだけでかなりの時間を潰せるのですね。そしてもう一つが、自分の身体の健康のことにも意識が向くようになったのです。

最近運動不足と食べ過ぎ?などで、すっきりとした感覚から遠ざかっていたので、食事制限をしてみようかと。

その昔断食をたまにやっていた時代のスッキリ感を思い出して、どうしたものかと考えるようになりました。

難しいかもしれないけれど、一日一食というのにチャレンジしてみようかとか。探究がひと段落ついたのに、私の自我は健在のようです。

プライバシーがなくなっていく

いつものクルマのディーラーさんから、新型の展示車が新年早々入荷したので、見に来てくださいという連絡があったのです。

まだ試乗はできないらしいのですが、一応実車を見ておきたいと思ったので、連絡があったディーラーとは別の、事務所から近い方のディーラーさんに行ったのです。

到着して、駐車場にクルマを入れてる間に店内から係りの女性が素早くやってきて、「◯◯様ですね!?」と言ったのです。

えっ?なんで名前を知っているの?と思うじゃないですか。全く見たこともない人だし、いつものディーラーさんでもないし。

きっとクルマが入ってきた時に、店内ではカメラでナンバープレートを捉えて、コンピュータが自動的にデーターベースを検索するのでしょう。

それであっという間に、訪れた顧客の情報を知ることができるのではないかと思ったのです。いやあ、ちょっと怖いですね。

別に約束もしていないディーラーさんで、見ず知らずの人に名前を呼ばれて、あまりいい気はしないです。プライベートがバレているようで。

きっとこれからはもっともっと、情報を把握されてプライバシーがなくなっていく時代になっていくのかなと思いますね。

ウルフムーンを見た!

昨日の夕方、事務所から自宅へと向かうクルマの中で、おやっと思うものを見たのですが、それがすぐには月だとは気づきませんでした。

その理由は、これまで見たどの月よりも圧倒的に大きく見えたからです。かなり地平線に近いところだったということもあるかもしれませんが。

それで帰宅してから調べてみたら、いわゆるスーパームーンだったのですね。つまり月が地球に最も近づく地点の近くで満月を迎えるやつです。

しかも月の錯視の影響もあったようで。空の高い位置にある月よりも、地平線に近い月の方が、周囲の景色と比較されることで、脳は「巨大だ」と認識するらしいのです。

実はもう一つ、1月上旬は地球自体が太陽に最も近づく「近日点」付近に位置しているために、いつも以上にくっきりと、明るく輝いて見える効果も加わったのです。

そんなこんなの理由が複数重なったおかげで、およそ記憶にないくらいの大きさと橙色の輝きをした月を見たのです。

1月の満月は、特別にウルフムーンと呼ばれているということも初めて知りました。でも私は、月の錯視効果については疑っています。

どうやったって、あれは巨大過ぎるので。非二元的に言えば、大きく見える月のようなものであり、そう見えることが全てだということ。それに尽きますね。

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体験 VS 事実

深く見つめてみればすぐに分かることですが、私たちの毎日は体験から成り立っているのですが、それ以外に事実というものがあると思い込んでいます。

事実というのは、誰にとっても公平に同じ現実として起きていることです。それは、もう真実と言ってもいいくらいにガチっとしたものだと感じるのです。

私たちの毎日は、事実とか現実というもので埋め尽くされているのですが、それとは別に個人的には体験もあるということ。

そのようにして、現実というものがとにかくあって、そのほかの主観として体験をすることができるのだと。

けれども、非二元に気づいたその日からずっと、体験だけがあるということに気づいたのです。事実とか現実というものはないのだと。

この気づきはかなり決定的でした。何せ、自分の存在とはまったくかけ離れたところに客観的事実が起き続けていると感じていたからです。

それなのに、そういった事実は単なるイメージであって実在ではないと気づいたのですから、その衝撃は半端ではなかったです。

事実というのはイメージでしかありません。リアルなのは、この体験だけです。それを気づきと呼んでもいいことはすでにお伝えしてきました。

事実というのは気づきとは無関係の思考によるものでしかないということですね。そのことに気づくと非二元が身近なものになるはずです。

物理学は非二元に到達できるか?

最先端の量子物理学では、素粒子と時空は切り離せず、どちらが根本かという問いが意味をもたなくなるかもしれない、というところまで来ているようです。

つまり、物質と空間の境界が溶けていくようなのです。もちろんまだ確立した定説というわけではありません。

素粒子を従来の物質的な粒としてではなく、もっと抽象的な何か(情報や関係性)の表現形と考えているわけです。

いよいよ私たちは何から出来ているのかという根本的な問いが、より深い別次元の奥行きを持って感じられてきます。

さあこの先、物理学者たちはどのように真実を追求していくことになるのか?興味津々といったところです。

そしてきっと、どこまで行っても非二元の境地にまでは行き着くことがないのではないかと思うのです。

物理学者たちは、根本的な間違いをしているということに気づいていないからです。物理学にど素人の私が言うのは、あまりにも僭越過ぎますが…。

けれども、この世界は存在せずに、純粋な気づきだけがあるなんて、どうやっても想像もできないのでしょうね。

体験以外には何も存在しない

かつて存在って何なのだろう?という問いがやってきて、あれこれと思索していたことがありました。

そして結論としては、自分が生きている間にそんな難問に対する答えは出ることはないのだろうと思っていたのです。

ところが、ふと今その問いをぶつけられたとしたらと考えた時に、もう当たり前のように答えらしきものがあると気づいたのです。

それは、残念なことに存在というのは単なる概念でしかなかったということ。それが何であれ、その存在というものはありません。

なぜなら客観的事実というものがないからです。体験を離れて、何かが存在しているとか何かが起きるということはないのです。

それは思考が生み出した便利なイメージに過ぎなかったのです。あの頃はそんなことは夢にも思わなかったですね。

けれども今となっては当たり前のように明確になりました。思考や感情についても、それが存在するのではないのです。

思考という体験、感情という体験が起きるだけなのですね。あらゆるものも、時間も、空間も一切の存在がないということですね。

自分らしさなど堅持しない

人間には、個人個人にそれぞれの好みが備わっていて、それは決して変わるものではないと思われているかもしれません。

けれども自分のことを顧みると、時とともにあるいは年齢とともに好みも変化してきてることに気づくことがあります。

もちろん頑固に変わらないものもたくさんあるし、変わらないものの方が多いのも事実かもしれません。

ところが、誰が何と言おうと自分にとってはこうなんだと、強く思っていたとしても、ふと気づくとそれが変化していたりします。

じゃあ、あれほど主張していたのは一体何だったんだろうと。一貫性がないというのは、どうも信用されない感じがします。

でもちょっと思ったのですが、固定した個人としての自分という怪しい存在に、一貫性なんてなくても当然なのではないかと。

自分の考え方や行動パターン、あるいは正しさなどは好みなどとともにいくらでも変化しても当たり前なのかもしれないなと。

なぜなら、本当には個人などという存在はないのですから。頑なな信念さえもヒョイっとひっくり返して悠々と生きていけるといいですね。

そしてどんなことにもこだわりを持たずに、その瞬間にただ反応が起こるに任せるようにして、今年もより気楽に生きられたらいいなと思うのです。

壮大な夢物語

本当は意識があるだけで、それ以外で自分と呼べるものは何もないというところに落ち着きそうです。

私たちはこの3次元の世界に産み落とされて…、と思って生きてきたつもりになってはいるのですが、それは本当ではなかったようです。

というのも、この3次元の世界というのが、思考が作ったイメージでしかないと気づいたからです。

そして、今この瞬間にある記憶をまったく使わないでいるなら、この世界に産み落とされたということも真実ではなくなります。

自分の身体があるというのもイメージだし、1人の人間として人生を生きているというのもイメージに過ぎません。

個人というものはないし、あると信じていたあらゆる実体が幻だったと気づいて、最初は愕然としたものです。

それが不思議なことに、慣れてくると当たり前のこととして受け入れられるし、その状態でも昨日と同じように生きていくこともできるのです。

壮大な夢物語の中にいることをもっと楽しめばいいだけですね。

神は表だけのコインを作れなかったってホント?

よく聞く話ではあるのですが、神というのは万能だとか全能であるというように表現されることがありますね。

要するに、神にとっては不可能なことはないのだということを言いたいわけですね。ところがです。

この二元の世界では、神といえども不可能なことがあったのだと。それは、一枚のコインを見れば、必ず表と裏があるのだと。

表しかないコインを見たことがある人はいないはず。つまり、表だけのコインを作ることは神にもできなかったのだと。

なるほど言わんとしていることは分かるのです。けれども、それは本当のことでしょうかというのが今回の主題です。

非二元に気づくと、この二元の世界というのがイマジネーションでしかないということに気づけるのです。

表だけのコインが絶対にないのはあくまでも二元の世界でだけのこと。実は非二元ではそんなことはいくらでもあるのです。

非二元では見かけだけ、単なる現れだけのコインなので、現れている面だけがあるということになるのです。

逆に言えば、非二元では神といえども、実体というものを作ることはできないということに気付かされますね。

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