仮想世界で必死に生きている?

昨日のブログでは、私たちが暮らしているこの現実世界というのは、実在するものよりも仮想的なものの方が圧倒的に多いという話をしました。

しかも、仮想的な物ほど、自分にとっては大切であり、執着もしてしまうということでした。そのことについての補足をしたいと思います。

仮想的なものとは、価値や目的、意味や善悪など、人間だけが理解している大事なものばかり。そればかりか、例えば「リンゴ」というのは、一つの概念です。

実在するということは具体的であり、あのリンゴやこのリンゴという場合に限りますが、ただリンゴと言った場合には抽象的なものになり、それは当然実在しません。

よくよく考えてみると、実在するものと触れ合い、一緒に生活していると思い込んでいるだけで、ほとんどは頭の中の世界で暮らしているのです。

それは仮想世界なのですね。今この瞬間に目の前にあるものは実在するものですが、それ以外のあらゆるものは仮想的なものなのです。

あなたが今日会った友達のことを考えているなら、その友達は仮想世界の存在であって実在しません。これってすごいことですよね。

頭の中であれこれ考えているもの全てが仮想世界のモノです。なぜこれほどまでに実在しない仮想世界の中で生きているのでしょうか?

それはきっと自分自身が実在しないものだからではないかと。仮想的なものに囲まれて親和性があるのは、その中心となっている自分も仮想的なものだからなのですね。

冷静に見つめてみるとわかるのですが、自分が実在しているということを証明することができないのです。残念ですが。

結局自分の肉体だけが実在するものであり、それ以外の自分にまつわるあらゆるものは仮想的なものでしかないということです。

そういう意味では、私たちが現実だと思っているものって、夢のようなものだと言えるかも知れませんね。

仮想的なものを消し去る

私たちはリアルな現実世界に生きていると思っています。この宇宙はリアルなものだし、この空間の中に存在する物質もホンモノと言えるでしょう。

けれども、実は私たちの毎日の生活あるいは人生の中では、リアルに存在するものばかりではないのです。

そして、私たちが大切に思っているものほど実在しないとも言えるのです。例えば、「価値」というのはどこにも存在しません。

自分の価値や人生の価値、所有物の価値などについても私たちはすごく気にしていますが、それはどこにも存在しません。意味や目的もどこを探しても見つかりません。

「お金」も実在しないものです。「国」や「国境」というのも物理的な実在ではありません。さらに言えば、過去や未来も存在していません。

つまりこうして見てみると、実在しているものよりもかえって仮想的なものの方が圧倒的に多いのです。

そして仮想的なものへの思い入れ、執着は半端ではありません。なぜなら自分にとって決しておざなりにはできないと感じるものばかりだからですね。

その上で、仮想的なものというのは思考によって頭の中で組み立てられたものです。この仮想的なものをほんの少しの間でも消してしまうことができたら、どれだけ穏やかな気持ちになれるでしょう。

それをするのが瞑想です。左脳の中に渦巻いている思考を静かにさせてしまえば、あらゆる仮想的なものも一緒に消えていってしまうからですね。

生き方がドラスティックに変わる日

これまで生きてきて、ゆったりと自然でのんびりしている人というのをあまり見たことがありません。どちらかというと、その反対に闘っている人、頑張って何かを達成しようとしている人の方が圧倒的に多いのです。

それがなぜかというと、その方が自我にとって都合がいいからです。こうなったらいいのに、こういう現実がやってきてくれたらいいな。

自分はこうなりたい等々、こうした希望をずっと持ち続けているのですが、この希望がある限り自我は安泰なのです。

あるいは、恐怖や不安から逃れて安心しようとする自己防衛、どんな方法であれ防衛をすることで自我は盤石になるのです。

とにかく、周りを見回してみると自我にとって都合のいいことばかりが転がっているのが分かります。

なぜそんなことになってしまったのかと言えば、この人間社会そのものを作ったのが自我だからですね。

自我は自分に都合のいいようにこの世界を構築してきたわけです。だから、防衛と希望の毎日を我々は生かされているわけです。

自我の世界は面白いこと、興奮すること、嬉しいこと、達成感、こう言ったものがたくさんあって明らかに魅了されてしまうのですが、その一方で常に満たされないという思いがついて回るのです。

自我優位の世界を存分に生きた上で、今度はより自然体な毎日を標榜しようとする人がいても良いわけです。

それは誰に急かされるでもなく、ある時突然やってくるのです。その時には、これまでとは全く異なる生き方を選んでみるのもありですね。

今この瞬間との同期

昨日のブログでは、今この瞬間の時空と同期することについて書いたのですが、それって一般的な人生のあり方とは根本的に異なるのです。

私たちの人生には、必ず目的、目標のようなものがあります。毎日の生活とは、そのゴールに向かっていく過程のようなものです。

これはゲームでも同じですね。どんなゲームでも、必ず目的やゴールが設定されています。勝負に勝つとか、ゴールに達成する等々。

そしてそのプロセスも一緒に楽しむわけです。そういう意味では、人生もゲームも同じようなものだと言えます。

人生もゲームもプロセスを楽しむということは、そこに時間的な要素が組み込まれていることになりますね。

プロセスというのは時間的な経過が必ずついてくるのですから。ということは、逆に言えば今この瞬間と同期している限り、そこにはプロセスなんてものはないのです。

今この瞬間との同期状態とは、人生から離れてしまっていると言えるかも知れません。もしくは、目的のない人生とも言えなくもありません。

年齢を重ねてきて人生に目的を見出すことが難しくなってきた今だからこそ、今この瞬間との同期がしやすくなってきたのかなと。

何であれ、歳を取るということは悪いことばかりではないようです!

時空との一体感

瞑想をしていてもっと深く入れそうだなと感じるとき、この時空にピッタリマッチしていくような、一体感的な感覚がやってくるのです。

ズレがなくなるというのか、逆に言えば普段の生活では時空とズレを生じながら生きているということなのかも知れません。

時空とのズレとはどういうことかというと、身体の動きは空間とのズレを意味します。空間には動きがないので、その中で動くということは空間との違いを明確化することになるわけです。

また、考えるということで過去に行ったり未来に行ったりして、今この瞬間からのズレを生じさせているのです。

つまり、私たちは日常的に身体を動かすことと思考することによって、現実にある空間と時間から独立しようとしているのです。

それが個として存続するための作戦であると考えることもできます。反対に、瞑想の時のように身体をできるだけ静止させながら、思考も停止することで、個としての自己が消えていくわけです。

その状態こそが、冒頭で書いた時空にピッタリマッチするということなのです。時空との間にどんなズレも消えてしまうと、個が消滅して全体性だけが残るというわけです。

言葉で表現すると変なことになるのですが、今この瞬間のヒダの中に深く入り込んで一体となっていくような感じです。

そんな時にギャッと言って個に戻って来させようとするすごい力があるのです。個としては、自分が消えて無くなっていくと感じるのですから、当然なのかも知れませんね。 

心とは処理プロセス

私たちは、自分には心がある、心を持っているという実感があります。自分の身体よりも、心の方が自分自身に近いという感覚もありますね。

とはいうものの、身体は実際に見えて触れるものですが、心は触ることも見ることもできません。一体全体、心とはどこにあるのでしょうか?

一般的に言われるのは、頭の中、つまりは脳の中にこそ心があるということです。ただし、今のところ、脳を解剖学的に詳細に分析しても、心を発見することはできていません。

これからも「これが心だ!」という具合に見つけることはできないと思っています。それはなぜかというと、心はモノではなく、何かを処理する過程、プロセスそのものだからです。

そんなプロセスが心だと言われても、すぐには承諾できないかもしれませんね。身近なもので類似したものを探すと、コンピューターのプログラムのことを思いつきます。

プログラムとは、何かの目的のためにコンピューターに処理をさせる命令の集まりのことですが、それによって様々なアプリケーションソフトが機能するのです。

人間の心も同じように、本を読んだり、人とコミュニケーションをとったり、ゲームをしたりするための一連の処理をしているわけです。

瞑想中に心を探しても、それらしいものが見つからない理由は、頭の中で何の処理もなされていないからです。頭の中のプロセスが停止してしまえば、どこにも心は存在しないのです。

得体の知れない自分の心が一体どんなものなのか、その片鱗が垣間見えたのではないでしょうか?「自分=心」だと思っていたなら、自分という実体は存在しないということになりそうですね。

意味記憶とエピソード記憶

今日老人ホームに入居している母親のところに行った時に、すぐには息子の私の名前が出てこないようでした。

今のところは顔は分かっているのですが、名前がすぐには出てこないという状態になりつつあるようです。調子がいい時はすぐに名前を呼んでもらえるんですけど。

名前というのは、記憶の中でも意味記憶という分類になるのです。りんごとか、机といったもの、要するに知識のようなものです。

次に、母親の年齢を聞いてみたら、しばらく考えてから「70歳くらい?」って言うので、それじゃあ息子とほとんど同じだねと 笑。

それは流石におかしいと分かるようで。普段自分の年齢はいくつだったっけ?って考えたりしないの?と聞いたら、全く考えないということでした。

仮に考えたとしても、自分では答えを出せないので自然と考えないようになってしまったのかもしれないなと。

記憶の分類の中には、エピソード記憶というものがあります。これは、名前の通り「昨日の夜はカレーを食べた」のような記憶です。

このエピソード記憶にしても、最近の記憶はほとんどないようで、入居してから一度もお風呂に入った記憶がないと言っていました。

母親を困らせないために、記憶に触れない会話をしようとするのですが、これが結構難しいわけです。

外の景色を見せて、今空が暗くなってきたとか、部屋の温度がちょうどいいとか、そういった今現在の話題だけになってしまうからですね。

私たちの日常にとって、記憶というものがどれほど重要なものなのかを実感できます。その一方で、瞑想中は記憶から離れた状態になるのですが、それはそれで心地いいものですね。

思考の根っこに分離あり

昔から思考って一体なんなのだろう?と思うことがありました。いまだにはっきりとこういうものだと理解できているわけではないのです。

ただし思考の根っこにあるものは分かりました。それは、きっと分離という概念ですね。分離というのは、この世界にはモノがあるという認識のことです。

モノという単位でこの世界を見ることによって、それぞれのモノ同士は互いに分離していると認識することになったのです。

そこから、AよりもBの方が大きいとか、BよりもAの方が綺麗などと比較するというプロセスが起きたのです。

こういった内的活動こそが思考の始まりなのではないかと。でもそれは本当にシンプルな思考でしかなかったのです。

それでは、私たちが日々繰り出す複雑な思考は、どのようにできてきたのでしょうか?それは、言葉です。

言葉を発明したことによって、思考は尋常ではないくらいに高度に進化することになったのです。そして、今では言葉なしに思考することはできないくらいになったのです。

本当?と思うのでしたら、言葉なしで何かを考えてみてください。相当苦戦するはずですから。そのくらい、「思考=言葉」となったわけです。

言葉は何のためにあるのかと言えば、もちろん個体同士のコミュニケーションのためですね。だから思考を生み出す左脳が優勢になったのは、当然なのかもしれません。

私たちは、コミュニケーションなしで生きていくことなどできないからです。こんなことをふと思いつつ、思考の奴隷にならない生き方をしっかりと見据える必要があるなと思い返すのです。

期待がないのは大きな救い

精神年齢という便利な言葉があります。というのも、私自身、自分の精神年齢は言うのも恥ずかしいくらいに若い感じがするのです。

精神年齢という言葉がなかったら、どう表現すればいいのか微妙な感じがします。それに比較して、実際に肉体年齢のことを考えると、残された時間がそう長くはないと知るのです。

生きてきた時間と残された時間を比べてみて、明らかに残された時間のほうが少ないことを確認すると、いい点と悪い点の両方があると分かります。

まず、悪い方はと言うと、それはもうあれをやったりこれをやったりという時間が明らかに少ないので、それほど多くを望むことができないだろうと思うのです。

若い時には自分の可能性は未知だった分だけ大きかったわけですが、それがもう可能性などないに等しくなってしまったわけです。

もう一方のいい点はどうかというと、それが不思議なことに悪い点と全く同じで、可能性がほとんどなくなってしまったことが、今度は安堵へと変わるのです。

目の前が開かれていると思うと、あれもしなければこれもしなければとたくさん自分への期待が膨らむわけです。

ところが、もうそんな大きな期待をすることができなくなったと知ることで、逆に穏やかな落ち着いた感覚がやってくるのです。

そして生きることの重荷から解放されたような感じもあるのです。自分に期待しないというのは、本当に一つの大きな救いになるということですね。

右脳と左脳の感謝の違い

子供の頃、ヒーローはありがとうと言わない、感謝するのはヒーローに助けられる弱い人だという固定観念が出来上がったのです。

そのせいで、長いこと感謝とは無縁の人生を送ってきたのですが、十数年前に理由のない感謝の体験をしてから、少しは変わったのです。

その体験は、大勢で瞑想をしている場で起きたのですが、とにかく何か恍惚体験のようなものがやってきて、これを言葉で表したら何になるかと考えた時に、ああ感謝だとなったのです。

全てが感謝で、感謝が降り注いできて、感謝に包まれてしまったような、そんな感覚だったのです。この理由のない感謝って、今思えばきっと右脳による感謝だったのではないかと。

それに対して私たちの毎日は、原因があって結果がやってくるというものばかりです。起きることには必ず理屈が付随しているのです。

多くの感情は思考の結果です。理屈に合わないことをされたと思ったなら、怒りという感情が湧いてくるのです。

自分が惨めだと思ったなら、悲しみという感情がやってくるのです。それと同様に、何らかのことが自分にやってきて、それについて思考した結果として、感謝がやってくることがあるわけです。

こういった原因がはっきりしている時にやってくる感謝は、きっと左脳によるものなのではないかと思うのです。

右脳であれ左脳であれ、どちらの感謝であっても自分の気持ちを穏やかで気持ちのいいものにしてくれるのですから、感謝という感情そのものに対しても感謝しかありませんね。