自我どころか、この身体も世界もなかった!?

この仕事をするようになって、自我という虚構がどのようにして作り上げられたのかにとても興味を持つようになったのですね。

私の勝手な想像でしかないのですが、乳幼児の時代からずっと、自我として生活している親などの存在を真似ることで、無自覚のまま次第に自我を作り上げるのだろうなと。

わかりやすく言えば、自我というのは他の自我の目線で自分自身を見ているのです。他人の視点を用いて、自分を見ているということ。

あるいは、他人はその身体の中に本人がいるように見えているために、自分もその身体の中にいるように妄想するわけです。

そしてこうした思い込みが強い信念となって、それを疑うことなく生活するようになってしまうということです。

自分以外の誰か(の自我)がなければ、自分という自我も決してでっち上げることはできなかったということです。

身体の中に自分がいるという思い込みがなくなることってあるのでしょうか?不可能ではないかもしれませんが、相当に難しいことでしょうね。

そうした強い思い込み、信念から解放されたくてずっと瞑想を続けてきたのですが、今度は自我どころか身体も外側にあるはずの世界も、その全てに実体がなかったとなって…。

何もかもお手上げ状態で生きていくしかない。そうして本当に諦め尽くした時に、何かがフッと明確になるのかもしれませんね。

全く意味のない奇跡的な体験

中学生か高校生の頃だったと記憶しているのですが、確か夕方一人で家にいる時に電話がかかってきたのです。

昔懐かしいあのプッシュホンの電話機ですね。受話器を取ると、いきなり「ピーポーパー♪」っていう大きい音がしたのです。

えっと思って、「もしもし、もしもし」と言うと、まだまともに喋ることができないくらいの幼い子の声で「ハフハフ、ホニョホニョ」と言っているのです。

これ、ひょっとして赤ちゃんじゃない?と。誰かがイタズラで自分の子供に喋らせて、後で実はといって出てくるのかなと。

でも、いつまで経ってもずっとわけのわからない幼い子の声が、耳元で囁くように聞こえてくるのです。

これはもう仕方ないなと思って、こちらから電話を切ったのです。後で、何が起きたのかを反芻していて驚いたのです。

というのも、親が電話をかけるのをマネをして、赤ちゃんがランダムに電話機のプッシュボタンを押してるわけです。

その押す順番が、奇跡的に我が家の電話番号になっていたということで。これは、相当に驚くべきことではないかと。

その確率をざっくりと計算すると、もしも都内のどこかからの電話であれば、当時は7桁だったので、プッシュボタンの個数が3×4=12なので、12の7乗は約3600万分の1です。

もしも、東京以外の場所からであれば、03を追加するので、12の9乗なので、なんと約52億分の1になるのです。

日本以外のどこかの国からであったなら、81をつけて、03の0を取るので、10桁の番号になるので12の10乗ですから、その確率は約620億分の1となるのです。

これはもう天文学的な数字ですので、宝くじが当たる一生分の運を使ってしまったかなあと思ったり。

というわけで、全くなんの意味もないヨタ話でしたが、不思議なことってあるものですね。

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物語(空想)が大好き

昨夜は、数時間もの間欧米の映画をテレビで観て楽しみました。ハラハラドキドキする内容だったので、あっという間のことでした。

現実では到底経験できないような出来事が、あたかも自分の目の前で繰り広げられているように思えるので、夢中になってしまうのですね。

誰もが、映画やテレビの中の物語に夢中になってしまうのは、私たち人間の持っている特徴と言ってもいいと思います。

つまり、物語がとても好きなのです。現実がつまらないということではないにしても、現実にはとても起きそうにないような魅力的なことを、空想の世界で擬似体験できるのです。

これが現実と物語(作られたもの)の違いですね。けれども、実は現実だと思っていることの中にも、多くの物語が入り込んでいるのです。

というよりも、現実(ただあること)よりも、物語(作られたもの)の方が圧倒的に多いことに気づいていないのです。

あなたの世界は、今あなたが体験できる領域だけなのです。それ以外の領域は、空想によってそれがあると信じているに過ぎません。

信じることを全てやめて、あらゆる空想をそれと見抜くことができれば、現実は非常にシンプルなものになってしまいます。

それがどれだけつまらないと感じたとしても、それはそのようにあるだけなのですね。

因果はない

誰もが最も求めているものは何かと言えば、それは究極の自由さと理由のない継続的な深い安心感なのではないかと思うのです。

そしてきっとその二つは、手を携えてやってくる気がします。ところが、それを求めているということは、それがまだ手に入っていないと感じているからです。

なぜなら、その二つを阻んでいるものがいるからです。それは他でもない「私」という自我なのですね。

だからこそ、覚醒して自我から解放されることを目指して瞑想をしていたわけです。ところが、非二元の気づきがやってきて、覚醒できる誰もいないことが判明したのです。

不自由であったり不安に苛まれる自己などいないと分かったのに、自我が衰えた感じはほとんどしないのです。

これは一体どうしたことなんだろう?というのが最近の問題ですね。そして、現実というものの本質を見抜いたとしても、それで何かが変わることもないんだなと。

気づきは特定の誰かに起きたわけではないのです。なぜなら、特定の個人はいないのですから。そして、非二元ではどんな因果もありません。

時間がないのですから当然と言えば当然。だから、何も変わらなくてもこれもまた当然なのかもしれないですね。

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非二元とワンネスの違い

非二元の質問の中に、いわゆるワンネスとの違いってなんですか?というのがあったのですが、それはもっともな質問だと思います。

というのも、非二元を謳っている動画をあれこれ観ても、非二元の衣を着たワンネスなんじゃないの?というのがとても多いのです。

つまり、ワンネスと非二元がごちゃ混ぜになってしまっているなあと。もちろんこんなものに、正しいも何もないので本質的にはいいのです。

けれども、私なりに感じているのは、ワンネスの方は自我の延長上にあるものであり、これは概念でしかないなと。

ワンネスは自我から見たら、純粋な真実の愛と言葉を変えてもいいくらいの理想郷なのですね。究極の幸福感とでも言えばいいのか。

一方の非二元は、血も涙もない世界なのです。ただ血も涙もなくても、それを残酷な悲惨な世界だと感じる誰もいないのです。

非二元にはどんな概念も観念もないのです。ワンネスの世界である全体性というのは、やっぱり概念なんですね。

ただし、くどいようですが非二元がワンネスよりも上だとか、真実なんだとかっていうことも全くないということですね。

何が起きてるように見えても、そう見えるだけ!?

アメリカでは、とうとう政府?がUFOなどの存在を公表し始めたようですね。これまでずっとひた隠しにしてきたのに。

来年早々、トランプ氏が大統領に就任してさらに本格的に隠されてきた情報が開示されることになるのかなと。

そして、そろそろ宇宙人さんとのオープンコンタクトが、現実の話になりつつあるというまことしやかな話も出てきています。

いやあ、地球の今後が非常に楽しみになってきました。どうも世界的に日本は今後重要な役割を演じることになるらしいですね。

こうした界隈の話が大好きで、考えると本当にワクワクしてくるのですが、その一方で非二元の話の何と地味なことか。

宇宙人さんたちが UFO に乗ってゾクゾクやってこようが、どうあろうがそんなことは何も関係ないのです。

だって、宇宙はないし地球はないし、人間がいるように見えるのですからもちろん宇宙人さんがいるように見えてもいいわけで。

少し前のように、実体があるかのように見えるこの二元の世界で、面白おかしく人生を謳歌するのもいいのではないかと。

ただねえ、幻は幻であって、その幻を見ている誰もいないってことに気づいてしまうとねえ。

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これ以上ないくらいに単純なこと

目の前にある様々なものを見ている時、私たちは絶えずそのもののこちら側の部分だけを見ているというつもりになっています。

このことに気づいているでしょうか?たとえば、人と対面している時には、その人の後頭部や背中を見ることはできません。

けれども、100%当然のようにその人の頭の後ろには後頭部があって、背中があって、というのを勝手に想定しているのです。

冷静に考えてみれば、目の前にいる人の体のうち、見えている部分はほんの一部でしかないということになるのです。

もっと言えば、その人の身体の内側なんて丸切り見えないわけです。内臓や筋肉や骨や脳味噌など、全部見えないけれど、間違いなくあると信じています。

このようにして、私たちは実際に見えていると感じていること以外に、たくさんの想定をしながら生活しているのです。

だからこそ、はっきりとは見えないという感覚がどうしてもしてしまうのです。その一方で、非二元的に見るなら、全部が明確になるのです。

なぜなら、隠されている部分などはないからです。全てが晒されていて、非常に明確に見えるのですから。

見えているというよりも、ただ「これ」があるだけ。ただあることがあるようにあるだけなのですね。

非二元の質問、絶賛募集中!

最近なのですが、それほど多くはないものの非二元にまつわる質問をいただくことが少しずつ増えてきました。

それでせっかくいただいたご質問をご本人にだけお答えして終わらせてしまうのはもったいないなと思って、それを動画に挙げさせてもらうようにしたのです。

それで気づいたことなのですが、どんな質問であれ物凄く私自身の役に立ってくれるんだなあということです。

質問を漫然と読んでいるだけだと、何て答えればいいのか意外と難しいなあなんて思っているのです。

けれども、実際にいざ本気で答えようとすると、自分の中に隠されていたものと出会うことができたりするのです。

ああ、そんな気持ちがあったのかとか、そういうつもりでやってたんだなといったことが本当によく分かるのです。

というわけで、どんな形でもいいので今後も是非、質問を募集します!一番簡単なのは、動画のコメント欄に直接書き込んでいただく方法ですね。

あるいは、このブログへのコメントでも構いませんので、よろしくお願いします!

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誰もいないモーニングルーティン

できる限り正直に、100%ジュースのように、何も足すこともなく何も引くこともなく、ただあるがままを感じてみようとするのです。

そうすると、すぐに「実体」というのが単なる概念でしかなかったということに気づきます。なぜなら、実体に対しては何もできないからです。

そして、実体なんてないというその感覚で朝目覚めたとすると、どうなるのかを再現してみます。

ふと目が覚めた感じがして、ベッドの中にいるという感じがして、時計を見てああ、もう起きる時間かって思ってる感じがあり。

起き上がった感じがあり、部屋を横ぎって洗面所に行く感じがあり、歯ブラシをしている感じがあって、ヨーグルトらしきものに蜂蜜らしきものとシナモンらしきものを混ぜてる感じ。

食べてる感じがあって、服を脱いで朝風呂に入る感じがあって…。こんな感じがずっと続いていくわけですね。

要するに何が言いたいかというと、朝目覚めた誰かという実体はないし、歯ブラシをしたり朝食を食べる誰かもいないということ。

部屋とかベッドという実体もないし、本当は何も起きてもいないのですね。それが分かると、一種独特の感じがやってきませんか?それもただそれがあるだけなんですけどね。

自由意志はあるか?の話しを再び

これまでも自分の中で、当たり前のように人間には自由意志はある、と思われていることが本当なのかどうかを見つめてきた経緯がありました。

リベット博士の実験によって、自由意志はないという答えが出たり、いやいやその実験には決定的な問題があるんだと。

人間は外界を認識する場合に、脳の中に仮想的な世界を構築するということを考慮すると、上記の実験結果は役に立たないんだと。

そんなようなことで、自由意志があるかどうかはいつまでも議論の対象であるんだろうなと思っていたのです。

ただし、個人的な感覚はこうしたこととはまた別。私自身の感覚においては、自由意志があるとは到底思えないというのが本音としてあったのですね。

なぜなら、自分がどちらかを選択するというときに、どうやって選択したのかを自分に問い合わせても、答えがないからですね。

だから誰が何と言おうと、自分では自由意志がないというのが一貫した感覚ではあったのです。そしてとうとう決定的な事実が。

つまり、非二元の気づきがやってきたら、もうおしまいなのです。誰もいないのですから、自由意志があるかどうかの議論に完全なる終止符が打たれてしまいましたね。

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