「以上!」で終わらせる

昨日のブログでは、分別というのはこの世界を二つに分断してしまうということについてお話ししました。

分断することで、片方は好ましくて、もう片方は受け入れ難い。そうなると、必ず人は好ましい方にのみ執着をするようになるのです。

そしてもう片方に対しては都合の悪いこととして拒絶しようとする。これが、苦しみの根源であるということです。

ただ、二つに分けることをやめればいいと分かったとしても、そう簡単なことではありません。なぜなら、思考は分断することでしか働かないからです。

思考の申し子である言葉もまったく同じなのです。それならどうすればいいのか?仕分けはどうしても起きるのです。

そこはとりあえず仕方のないこととして置いて、実際に問題となるのはその仕分けを土台として、思考によってそれを強化してしまうことなのです。

あの人に失礼なことを言われた、これは都合の悪い側へと分断されてしまいます。つまり嫌なことを言われていないとの分断を引き起こすわけです。

けれども、その後に自分が悪かったのか?とか、なぜその人はそういう態度を取ったのか?などの思考を展開していくのです。

このような後に続く思考が、分断を強烈なものへと変えていくので、それを「以上!」の一言で打ち切るようにする。

あのクルマに強引に割り込まれた、以上!これで、仕分けを断ち切ることができるのです。これはとても大事な練習になると思いますね。

「分別」をどう見るか?

皆さんは、「分別」という言葉を聞いてどのようなことをイメージするでしょうか?一般的には、物事の善悪、道理を見分ける力と見るはずです。

例えば、分別のある人=常識的で判断がしっかりしている人だし、逆に分別のない人=軽率で無思慮の人だと。

つまりは、分別とは冷静に判断する知性や常識のことを指すわけです。ところが、仏教的な意味では違ってくるのです。

仏教では「分別」はむしろ注意すべきものとして扱われるのです。それは、対象を分けて捉える心の働きなのだと。

例としては、善悪、良い悪い、好き嫌い、自分と他人。つまりこれは世界を切り分けて理解しようとする思考なんだと。

なぜそれが問題になるのかというと、本来一つの現実をバラバラに見てしまうことで、執着を生むことになるからです。

理想に近い自分は素晴らしくて、現在の自分はまだダメだとして、自分のあるがままを断罪してしまうのです。

これが苦しみの原因であることは明らかですね。非二元でも、思考による二元化する前の現れだけがあると気づいているので、分別はあり得ないのですね。

一つひとつ疑ってかかる

疑い深いよりも信じる力が強い人の方がいいに決まっているというのが、この世界の常識になっていますね。

でもそれって本当でしょうか?疑い深いというと、悪いイメージがあるのは知っていますが、もしも疑う力がなければそれで終わりです。

どんなことにも気づくことはできないはずです。疑うことで、真実なのか幻想なのかの判断ができるのですから。

自分の勝手な妄想なのか、それとも真実なのかは疑うことなくしては決して見抜くことができないのです。

だから私は、自分のことも外側の世界のことも徹底的に疑って、事実を突き止めようとしてきたわけです。

それがあったからこそ、少しずつではあったけれどようやく何が本当で何がでっち上げなのかに気づくことができたのです。

それはもう執念のようでもありますね。ただそこはとても楽しい世界なのですね。どんな苦痛もないのです。

だから続けて来れているし、今後もまだ真理への探求は続くのだろうなと思っています。いつかは疑う必要がなくなるのでしょうけれど。 

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

放っておくとは、何もしないこと

私たち人間にとって、「何もしない」ということほど難しいことはありません。ところが、本当にはそのことに気づいていないのです。

特に多忙でいつも動き回っている人などは、何もしない時間が取れたらどれほどいいだろうと思っていたりします。

けれども、いざそんな暇な時間がやってきてしまったら、今度はこの時間をどう過ごそうかと思うようになるのです。

つまり、とにかく何かをしていなければいられないのが人間なのですね。それを別の言葉で表現するなら、何かを握りしめているということ。

より具体的に言うなら、いつも正しい考えをしなければいけないとか、感情は抑圧したほうがいいとか、義務と責任を果たすべき等々。

そうやって絶えず何らかの操作をしようとしてしまうのです。執着を手放しましょうというのも、手放すという行為をするのです。

それに対して、放っておくというのは文字通りそのままにしておく。脇に置いて、何もせずにおくということ。

もしもこれが本当にできるようになるなら、私たちはより自然体でいられるようになるのです。そして問題も自ずと消えていくことになるのですね。

時間の感覚をなくす訓練

かつて瞑想をしていた時のことですが、ごくたまに「同期が取れた」と感じることがあったのです。

それは、もっと分かりやすく表現すると、世界の変化あるいは全て(時間)の流れの一部として自分が存在しているという感覚です。

ということは、普段の生活の中では、自分はこの世界の流れとは独立した存在として生きていると感じているわけです。

それが、自分の独自性が消えて全体と一つに融合したような感覚になれたということなのかもしれません。

瞑想をしなくなって、そういった感覚にはならなくなってしまったのですが、瞑想をしなくてもそれに近い感覚になれる方法があるようです。

それは、身体をできる限り動かないように訓練するのです。そうすると、それまで感じていた時間の流れという錯覚が消えるのです。

そのことによって、自分だと思っていたものが、コレ(現れ)の一部として、その中に融合する感じになるのです。

でも一定の訓練が必要になることは間違いないでしょうね。

存在する、しないのどちらでもない

私たちの誰もが外の世界があると信じています。そしてその対極としての内の世界、つまりは内面(心)もあると信じています。

外側の世界がなくて、心だけがあるというのも変だろうし、内面がなくて外の世界だけがあるというのも変だと感じるわけです。

私がかつて目指していた覚醒するというのは、内面の主としての自我が崩壊して、外の世界だけになるというイメージだったと思います。

けれども、今はそんなアンバランスなことにはならないはずと感じるようになりました。また、その逆も然り。

外側の世界がなくて、内面(心)だけが存在するというのは、もっとあり得ないと感じます。そんなことは想像もできないのです。

そもそも、内側というのは外側があるという信じ込みから作られたモノだと理解できたので、そんなことには決してなりようがないのです。

つまり、一番納得できるのは、外と内が同時にない世界、つまりは非二元が最も自然なのですね。

普通の感覚では、自分が死んだ後もこの世界はそのままに残るものだと考えているのですが、そうではないはず。

私たちは、今でも生きているわけでも死んでいるわけでもないからです。存在するか存在しないかを越える必要があるのかもしれません。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

非二元を10分の動画にまとめてみた

非二元の動画をあげるようになって、もうすでに1年半以上が経過したのですが、最初の頃は非二元そのものについての説明をしていたと思います。

自分が気づいていった順番通りに、その都度自分が言葉にできる限りの説明をしてきたと思っています。

そうしたことが、一通り済んでしまったので最近は非二元そのものの話をすることがなくなってしまったのです。

なので、非二元を元々知っている人は別として、最近私の動画を観るようになった人にとっては、話の内容についてこれなくても当然かなと。

「そもそも現れって何?」というコメントを頂いて、ああそうかと気づいたわけです。急に「現れだけがある」と言われても、なんのこと?となるのは必至です。

その場合の答えは、「過去の動画を観てください」になるのですが、どの動画を見ればいいのか私自身にも分からないのです。

ということで、非二元についての概要となるような動画を急遽作ったので、以下の動画を是非見てみてください。

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ホンモノはどこにもない

過去も未来も同じように幻想でしかない、ということが実感としてやってくるようになったということを直近の2回のブログでお伝えしてきました。

それと同時に、今この瞬間というものが大きく広がったわけです。今この瞬間には時間という概念が入る余地がありません。

そしてこの今というリアリティの中でさえ、どんな実体も本当には存在しないのですから不思議です。

もしかしたら、もうすでにリアリティという言葉を使うことができなくなってきているのかもしれないとも感じています。

一体リアリティってなに?そんなものは最初からどこにもないのではないかと。直接の体験や現象はリアルではないの?

それも最終的には、幻想でしかなかったということになってしまうのかもしれません。ホンモノはどこにも存在しない。

こうなってくると全くもって思考停止状態になってしまいます。それを放っておくと、見えてくるものもあるのかもしれないですね。

未来も過去と同様に遠のいた

ゴロっと横になって、もうすぐ4月も終わるなあと、すぐに5月がやってくるなあとぼんやりと思っていたのです。

ところがそこでふと、アレ?いつものクセでそう思っただけで、本当はどこにも向かってなどいないなと感じたのです。

もうすぐ5月になるというのは、思考の上では正しいことだけれど、事実ではないという感じですね。

5月に向かって進んでいるわけでは決してないということに気づいた感じです。時間の流れという思い込みを外せば、そうなるわけです。

昨日のブログで過去が遠くへ行ってしまった感じがあるということを書きましたが、今度は未来に対してもそんな感じになったのかもしれない。

我々はどこにも行き場なんてないのですね。時間的な広がりは空想に過ぎなかったわけです。じゃあ閉塞感があるかというと、それはない。

かえってこの瞬間が瞬間ではないということなのかも。今というのは、時間の中の一点というのも思い込みに過ぎないということですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

過去が見当たらない

ここ数日何となく気分が浮かない感じがしてるなあと思っていたのですが、その本当の原因はまだ見つかっていないのです。

けれども、今ちょっと気づいたのですが、これまでの自分が生きてきたこの人生というものが、ものすごく遠くに感じるのです。

遠くというか、リアリティがまったくなくて、どこか作り物のような気もするのです。本当だったの?という感じで。

今この瞬間に静かにいると、本当は何も起きてはいなかったのではないかと。それこそ夢の記憶のような。

だから自分のこれまでの実績というのか、生きてきた軌跡がなくなってしまったかのように思われるわけです。

非二元の立場からすると非常に好都合なんだろうけれど、どこかでそれを受け止めきれていない自分がいるのかもしれません。

やることがまったくないというのも、自我にとっての不都合な状態なのでしょうね。毎日にハリがなくなったなあと。

やあ、まったく過去がなくなった感じがしてますね。思い出そうとすれば、それなりにあることはあるのですが、相当に嘘っぽい。

過去が完全に今と切り離されてしまったようにも感じていますが、これもそのままにしておいてみようかなと。