自我は脳内を走るプログラム

昨日のブログで、「あなたは自我ではない」という記事を書きました。今日はその補足的な内容を書いてみようと思います。

私たちの物理的な身体は、遺伝子という精密な設計図によって厳密に作り上げられたものです。これは紛れもない事実ですね。

ところが、一方でこれが私だと実感している自我については、遺伝子にそんな情報はなかったのです。つまりは、設計図なしに作り上げられたのが自我というわけです。

自我の正体を暴こうとして、脳の神経細胞の中をくまなく解剖学的に調べ上げたとしても、決して見つからないはずです。

なぜなら、自我はあれとかこれといった一まとまりの物理的な何かではないからです。それは、脳の神経細胞の中で繰り広げられるある種の働き、あるいは仕組みだからです。

コンピュータで言えば、物理的なハードウェアに対するソフトウェアに相当するものだと思っていいと思います。

つまり、自我とは脳の中で実行されるプログラムではないかということです。いやいや、自分はコンピュータでもなければ、AIロボットでもない、という反論が聞こえてきそうです。

その気持ちはよくわかるのですが、コンピュータの中をどれほど覗き込んだところで、Windowsやさまざまなアプリを見つけることができないのと同じなのです。

しかも自我というプログラムは、長い人生の中で自分が経験したと思い込んでいる過去データを全て自分の一部のようにして、太らせてきたという経緯があります。

そしてその情報を、多くの人たちと共有することで、確固としたものにしてしまったのだと思います。

だからあたかも自分という自我は、実在すると感じるわけです。ただし、もしもあなたが自我だとすると、あなたは脳の神経細胞の中を走る電子の複雑な流れだということになります。

きっとそうは思えないはずですね。だからこそ、自我というプログラムを見続けることで、その観照者である意識こそが、本当のあなただと気づく必要があるのですね。

あなたは自我ではない

地球上のあらゆる生物は、私たち人間も含めてその全てが遺伝子をコピーすることで種を存続してきたわけです。

爪の形から、咳払いの声だったり、その他あらゆる特徴が遺伝子によって受け継がれてきたのです。ただし、例外もあります。

それが自我です。自我を形成する遺伝子というものはきっと永遠に見つからないと思っています。それだけ、自我は環境によって作り出されるものだからです。

赤ちゃんが産まれてくる時、両親の遺伝子を半分ずつコピーした状態でやってくるのです。そして、その遺伝子の中身は死ぬまで変わりません。

けれども、自我については全くの白紙状態なのです。その証拠に、オオカミに育てられた少年少女には、自我がありませんでした。

自我を作り、育んでいくのは赤ちゃんの周囲の状況なのです。どんな自我を持った親が近くにいて、どのように接してもらったか、それが赤ちゃんの自我を決定するのです。

もちろん自我の生成に遺伝子の何かが影響を与えるということはあり得ると思いますが、それはあくまでも傾向を決めるものでしかないと思っています。

あなたがどんな自我として生きているのか、そのことに対して1ミリもあなたの責任はないということです。

あなたにどんな自我を作るかの決定権はありませんでした。知らぬ間に、環境があなたという自我を作り上げてしまったのですから。

もしもあなたが、自分の自我を好きでないとか、この自我から離れたいと願っているのでしたら、一つ方法はあります。

それは、自我を見守り続けるという練習をしていくことです。見ることによって、対象物との間に距離が作られるからです。

そして自分は自我ではないという明確な感覚が、あなたを本当の意味で助けることになるでしょうね。

顔なしで生まれてきた

印象的な osho の言葉をまずは読んでみてください。にわかには、納得できないかもしれませんが。

大部分の人はその人自身ではない
彼らは生きているのではなく
他の人々から与えられた役割を演じているにすぎない
彼らの考えは誰か他の人の意見であり
彼らの顔はただの仮面にすぎない
彼らには顔がないのだ
彼らにはまったく真正な実存というものがない
その生はまねごと
その情感は引用だ

私たちが自分だと感じているこの自我は、自分一人で作り上げてきたわけではないということです。その逆に、周囲との相互作用によって勝手に作られたと言った方が正しいのです。

生まれてしばらくは、自分の顔などなかったのです。ところが、環境に順応するための一時的な仮面をつける術を学ぶようになるのです。

そして周囲の状況や、相手が誰かによっても新たな仮面がその都度作られていくのです。そうやって、例え一人でいる時でさえも、もう仮面を外すことができなくなってしまうのです。

間違えないで欲しいのは、自分自身である素顔というのが仮面の下に隠されているというわけではありません。素顔は元々なかったのです。

顔なしで生まれてきたのです。顔あるいは仮面というのは、全てが対外的なものでしかないのですから。

もしも私たちが、生まれた頃と同じ顔なしの状態に戻ることができたら、さぞかし爽快で心地いい毎日になることでしょう。

実はそんな方法が一つだけあるのです。それは、ダグラス・ハーディングが考案した実験によって、その感覚を手に入れることができます。

興味があれば、調べてみることをお勧めします。

過去も未来も実在したためしはない

この世界は、「何かが起きる」という現象がずっと継続しているわけです。そしてそれは常に今なのです。今以外の時はありません。

どこをどう見回したところで、今この瞬間に何かが起きつつある。そういう世界だということです。

ところが、私たち人間には記憶という能力と、イメージするという能力があるおかげで、現実の世界にはないものを見ることができるのです。

記憶を辿って過去に起きた何かをイメージする(思い出す)ことができます。未来のことも、頭の中でイメージを作り出して、それを見ることができるのです。

過去と未来は、どうやったってこの現実の世界には存在しません。それなのに、私たちの感覚ではそれらがとてつもなくリアルに存在するように感じてしまうのです。

それがなぜなのかなと思っていたのですが、一つの理由が判明しました。それは他人と共有できるからですね。

もしもあなたがこの地球上で一人で生きていたら、昨日こんなことがあった、あんなことがあったと一人で思い出したとしても、それほど続かないはずです。

その記憶はすぐに萎んでしまい、それよりも今目の前で起きていることの方に意識が集中するはずなのです。

ところが、誰かと昨日起きたことを共有することで、話しがはずんでいくわけです。そうやって、今日もあなたの思考があなたを存在しない過去や未来へと誘うのです。

実はこうした能力を身につけたおかげで、ホモサピエンスである我々が地球上を支配するまでに成り上がったのです。

ただし、人間社会が個々人よりも大事にされるあまりに、その能力を使い過ぎることになってしまい、誰もが左脳一辺倒の生き方をするようになってしまったことは問題かもしれません。

人とのコミュニケーションの時には、左脳(言葉)によってそれが成立するのは悪いことではないですが、独りでいる時には左脳を休ませて、ありもしない過去や未来から離れること。

独りでいるときに、余計な思考に振り回されていないか、よくよく注意して監視している必要があるということですね。

あなたはどちら派?

左脳の特徴は、過去や未来の中にいて、ああでもないこうでもないと考え続けるわけです。これって、時間の中にいるとも言えますね。

一方で、右脳はどうかというと、今この瞬間にだけいるので、全く時間というものがありません。ということは、記憶というものとも縁がないのかもしれません。

左脳にしても右脳にしても、私たちの脳の内部での話です。私たちが生きているこの現実世界とは隔離された世界でのことです。

それなのに、自分の脳の中で起こっていることを、現実の世界で起こっていることと勘違いしていることに気づかないでいるのです。

だとしたら、現実がどうなのかなどということに囚われるのをやめて、より快適な人生にするには左脳と右脳のどちらとより緊密になればいいのかを考える必要がありそうです。

実際のところ、自分が左脳と右脳のどちらと蜜月の仲なのかをみてみれば明らかですが、私の場合はもちろん左脳です。

左脳の感覚は、二元性の世界を作り出しているので、嬉しいことがあれば必ず苦悩もあるのです。これは二元性の原理原則です。

喜怒哀楽と共に人生の浮き沈みを面白おかしく捉えて生きるのが好きであれば、左脳の作る人生はもってこいなのかもしれません。

その反対に、右脳の感覚はずっと今今今だけを生きているわけです。人生という物語もなく、ただ自分の本性である全体性にずっと気づいている状態なのかなと。

左脳が好みの人は、今のままで生きて死んでいけばいいのですが、右脳が好みの人は左脳との太いパイプを解消して、右脳との関係を密にしていく必要がありそうですね。

もちろん、左脳か右脳かどちらかだけで生きることはできません。要するに、軸足をどちらにするかを考えるということです。

さて、あなたはどちら派ですか?

バカバカしいジレンマ

私たちはいつも何かを求めています。ここにない何か、今日は手に入らない何か。それを探し求めていることで、マインドは生きながらえているのです。

誰もが、そのことにうっすらと気づいているのですが、本当に気づいてしまったら都合が悪いので、そこはそうっとしておこうとするのです。

自分なりの方法で思考から離れて静かにしていると、何も求めない状態、どこかへ向かおうとするエネルギーがなくなっていることに気付かされます。

過去も未来も消えてしまって、ただここにいるのみとなるのです。そしてそのことになんの問題もないと分かっているのです。

ところが、そこから外れていつもの日常に戻ってくると、ああどこかへ向かおうとしているなとか、何かを求めているなと気付かされるのです。

そうやって、今この瞬間から離れてすっかり馴染んでしまった満たされない状態へと戻ってくるわけです。

満たされたいという願いを持っている状態こそが、絶対的に必要なものだということです。いざ満たされてしまったなら、マインドは消えていくしかないからです。

このバカバカしいジレンマに気づくこと。はっきりと理解して、そこから目を逸らさないことで、次なる展開がやってくるのでしょう。

何も求めない状態でいられることが、どれほどありがたいことか。これこそが本当の自活、自分だけで完結している満たされた状態なのですね。 

癒しの先にあるもの

どれほど理想的な環境で育てられたとしても、マインドがピカピカのまま大人に成長するなんてことは、ほとんどあり得ません。

なぜなら、親の生きている世界と、子供が生きている世界が違うことなどに起因して、さまざまな心のしこりや傷などが残ってしまうからです。

それが当然の結果であり、異常なことでも何でもありません。誰にもあるそうした部分をそのままにして生きると、知らぬ間に様々な影響を受けて生きづらさを背負うことにもなるのです。

そのため、誰であれ大人へと成長した段階のどこかで、かつて溜め込んだネガティブなエネルギーを解放してあげる必要があるのです。

一人でできる場合もあるし、プロの力を借りる方を選ぶ人もいるわけです。いずれにしても、ある程度の心の癒しを通過することで、人生は生きやすいものになるのです。

さてここで終わりにしてしまうのか、それともその先に待ち構えているものに目を向けるのか、大事な分かれ道がやってきます。

どちらが正しい道ということではないのですが、ただ癒すだけで終わりにしてしまうのはとても勿体ないなと思うのです。

心がある程度クリアになった先には、自分という存在は一体何者なのか?というとても重要な展開が待っているのです。

自分の本当の正体を知らずに死んでいくとしたら、それはとても残念なことなのではないかと思うのです。

もちろんそうしたことに興味がなければそれまでです。けれども、何か惹かれるものがあるのでしたら、先へ進むことです。

癒しで自分の内側に目を向けることができたのですから、さらにもっと奥へと進んでいくことは可能なはずです。

自我100%で生きてきた自分が、実はそれは本当の自分の一部でしかなかったという気づきがくるはずなのです。

それはきっと、思いもよらない何か大きな体験を通してやってくるのでしょうね。このブログでは、そうしたことも書いていきたいなと思っています。

意外な副産物

頭の中の自動思考や自動演奏、自動鼻歌などを止めて、シーンとした気持ちのいい状態になりたいと思い立ってから、一ヶ月弱が経ちました。

こうした思いはもう遥か前からずっと持っていたのですが、きっと無理だろうと思って放置しておいたのです。

ただし、今回はちょっと本気モードになっているようで、自分でもこのやる気はどこからくるのだろうと驚いている面もあるのです。

成果の程はというと、相変わらず自動思考はやってくるし、自動演奏や自動鼻歌も波はあるにせよ、まだ全く止まってはいません。

その間、できる時にはずっと瞑想をしたり、呼吸法をしたりして、なるべくそのことを忘れないように心がけて生活してきました。

その効果なのかよく分からないのですが、あの感覚がやってきやすくなったのです。あの感覚というのは、どう言葉で説明すればいいものか。

シーンとした感じというよりも、頭の芯がジーンとした感じがして、全身の感覚が様変わりするのです。

身体を動かすとすぐに消えていってしまうものなので、じっとしていなければならないのですが、それが少しも苦にならないのです。

その状態がやってきている間は、確かに自動思考や自動鼻歌などは影を潜めてしまうことが多いのですが、それでもそれを喜ぶ自分もいないのです。

というよりも、思考だけでなく感情的なものも薄くなってしまうらしく、意識だけが全く変化なくあり続けているという状態です。

以前から知っている感覚ではあるのですが、これまではほんの少しだけやってきてすぐに消えていってしまう感覚でした。それが今は体験し放題になったわけです。

ハウスメーカーの設計士さんとの打ち合わせで思考をフル回転させた後、どうなるのか心配だったのですが、帰宅して一人になったらすぐにその状態に戻れたのです。

まだ目的は全然達成できていないのですが、意外な副産物がやってきてくれたのはありがたいことですね。

腹式呼吸を見直そう!

osho は、「瞑想は冒険だ、人間のマインドが企てることができる最も偉大な冒険だ」というように言っています。

確かに自分でも不思議だなと思うことがあるのです。それは、瞑想をしようと企てる自分とは自我であり、自我は思考の中に組み込まれているものだと思うからです。

思考の申し子である自我が、なぜその思考を止める瞑想に強く惹かれるのかが分からないのです。敢えて言えば自殺行為のようなものではないかと。

ただ自我も馬鹿ではありません。自分の生き方をこれまで貫いてきた結果、どうやっても先行きが芳しくないと気づいたなら、自分の力の届かないところに目が行くものです。

力んで頑張ってきた生き方を見直して、真逆の生き方、つまりはリラックスを心がけて戦わない生き方へとチェンジした方が賢いのかもと気づくわけです。

考えて考えて、最善の道を選ぶという左脳優先の生き方ばかりに、あまりにも強く傾いてしまったことに待ったをかけるのです。

そして少しでも、思考や言葉のない直感の世界で生きている右脳の生き方の方へと、舵を切ろうとするための一つの方法が瞑想ということなのですね。

昨日のブログにも書きましたが、私の最近のブームは、瞑想よりも腹式呼吸の方に重きが置かれています。

それは、運転中であれ歩行中であれ、勿論自宅で腰掛けて静かにしている時であれ、いつでもどこでもできて、その効果をすごく感じることができるからです。

はては眠る時にも、腹式呼吸をするようになって、睡眠の質も少し向上したように感じています。また瞑想をする前の導入としても、腹式呼吸は効果的に使えると思います。

瞑想よりも地味ですが、もう一度腹式呼吸のことを見直してみませんか。

いまさら腹式呼吸?

私は全体性という言葉を使って、自分の本質の感覚を表現することがあります。このブログでもお馴染みになっていると思います。

セッションでも、全体性というのを感じたいのですが、どうやったらいいのでしょうか?とクライアントさんから質問されることもあるのです。

こんな時、残念ながら私自身もこうしたらいいという的確なアドバイスができなくて、歯がゆい気持ちになっていました。

できることといえば、なるべく毎日瞑想をすることで、いつか必ずその感覚がやってくるはずだからと言うしかないのです。

そんな中、今日ふと気づいたことがあるのです。それは、腹式呼吸を繰り返し実践していたときに発見したのです。

腹式呼吸とは、吸う時にお腹を膨らませるのですが、その時に意識も一緒にお腹を下に向かって下がっていくようにするのです。

その時、お腹の下辺りから空間が広がっているイメージを作るのです。それもできたら突如として宇宙空間に繋がっているくらいの広大なイメージです。

すると、降りていった自分のイメージが瞬間的に砂粒よりも小さい、言ってみれば無になってしまったような気がするのです。

なぜなら、周囲にある無限に広大な宇宙と比較するからです。その瞬間に、その対比の鮮やかさと相まってあの全体性がいつもよりも鮮明にやってきたのです。

そういうことかと。何となく分かっていたことが明確になったのです。全体性の感覚とは、同時に自分が無である感覚なんだなと。

こんな解説よりも、先ほどの腹式呼吸を自分なりに工夫して試してもらうと、もしかしたらただ瞑想しているよりも、うまくいくかもしれません。ぜひ実践してみてください。