自己防衛を減らす第一ステップ

私たちの誰もが3歳くらいからずっと続けてきたこと、それは自己防衛です。自分の身は自分で守らなければならないという強烈な思いがそこにあるのです。

その原動力は恐怖に他なりません。全体性としてただ在るだけの自分であったはずなのに、次第に気が付いてみるとここに自分がいたのです。

正確に言えば、これが自分であるという自己認識をするようになったのです。この自己認識は事実ではなく、単なる思考、つまり思い込みなのです。

全体性から分離して惨めで何も一人ではできない情けない自分が突然ここに現れてしまったのですから、そこに恐怖があるのは当然のことです。

その恐怖は生物としての本能である死の恐怖がその中心にあるのですが、そこに自己認識が加わることで、その恐怖は何倍にも膨れ上がってしまうのです。

そしてその恐れは、ずっと心の底にあり続けるわけです。本能的な恐怖であれば、本当に命が危ないときにだけ感じるものです。

けれども、私たちが3歳を越えたあたりから感じるこの恐怖は、途絶えることなく常にあるものです。だからこそ、ずっと自己防衛を続けてきてしまうのです。

その自己防衛の中でも、もっとも異色なのは自己防衛をしていることに気づかないようにする自己防衛なのです。

そのため、クライアントさんは自分がどれほどのエネルギーを自己防衛のために使い続けてきたかに気づいていない場合が多いのです。

一度気づいてしまえば、少しずつですが自己防衛をしないでいるという選択肢を見つけることができるようになるはずです。

これが自己防衛を減らしていく第一ステップであると言えます。

唯一の変わらぬ満足感

私たちの心には、絶えず欲求というものがあって、それが望みどおり満たされたときにのみ、満足感を得ることができるのです。

一般的に言って、心が満たされるというのはそういうことですね。つまり、心が満たされるためには、それなりのものを手に入れるという事実が必要なのです。

けれども、残念ながら欲望が満たされても、それは必ず一過性のものでしかありません。なぜなら、この世界の根源的な法則として、あらゆるものは有限であり、時間とともに変化するからです。

つまり、理由があって満たされた心は、必ずいつかはまた満たされない状態へと変化していく運命にあるということです。

だからこそ、私たちの欲望には際限がないのです。こうした満足感というのは、ある種の興奮状態であり、それは必ずいつか冷めることになるのです。

ところが、もう一つまったく異なる心の満たし方というのがあるのです。それには、心が納得できるいかなる理由(原因)もありません。

なぜなら、それは私たちの本質である純粋な気づきからやってくる、心(思考)を超越した何も無さだからです。

それを心が垣間見たときに、一般的な言葉で表すと、真の平安だったり、静寂さとか、深淵な穏やかさというように感じるかもしれません。

そしてそれは、また心が満たされたという状態としても認識されるのです。つまり、私たち自身の本質への気づきこそ、唯一の変わらぬ満足感となるのです。

「私」の正体を暴く

「私」とは思考であり、それは物質のように目に見えるわけではありませんが、それでもこの現象界の中にあるものです。

目の前にある机や壁など、見えるし触れられる物質もこの世界に所属していますが、明らかに種類の違う精神的なものも、この世界の住人なのです。

その一方で、本当の自己とは思考ではありません。それは、思考と同じように目には見えるものではありませんが、決してこの世界の中で起きているものではないのです。

私たちは、自分の考えることを自覚していますが、これは思考の中身について知っているということです。

けれども、思考とは何かということについては、あまり見ようとはしないのです。それは一体なぜなのでしょうか?

私が考えるに、それは思考でしかない「私」の本性が暴かれてしまうのを、無意識的に恐れているからなのではないかと思うのです。

「私」の正体がただの思考であっても、恐れる必要などまったくありません。なぜなら、本当の私たちの本質とは、思考の外にあるからです。

それこそ思考が生み出される源泉、この現象界の大元なのです。それがなぜなのかを説明することはできませんが、一瞬一瞬に意識を向ければそのことが分かります。

それは理解するのではなく、ただ在ることを感じるというしかありません。この世界の誰もがそのたった一つの自己なのです。

この気づきは、ゆっくりとではあるけれど、「私」という思考から自己防衛を緩めていく効果があるのです。誰もがそれを知るときがやってきています。

「......これっっっ!...」

映画館に行って、壮絶な戦いのドラマを観ているとき、あるいは美しい大自然の風景を観ているそのときに、バックにあるスクリーンに気づくでしょうか?

わざわざお金を払って楽しみに映画を観に行って、ただスクリーンを見てきたなどということはあり得ないですね。

私たちは映画の映像の美しさや、ドラマティックな物語に心を動かされ、様々な自分の心の反応に酔いしれるのです。

それを大いに楽しんでいるわけです。けれども、その物語を映し出してくれるスクリーンの存在を忘れないようにすることもできます。

ドラマを多いに楽しみながらも、スクリーンを見透かす目を持つのです。それと同じことを、この現実というドラマにも当てはめるのです。

そうすると、見えてくるものがあります。うまく言葉で表現できないのですが、うまれたときから今この瞬間までずっとずっと変わらずに「在る」もの。

それを一言で言うと、「......これっっっ!...」なのです。この瞬間を生み出してくれるもの、あらゆるもののバックに常に在り続けているもの。

それになるべく意識を向け続けることです。そうすると、物語は有るようでいて、しかも本当は無いということに気づくかもしれません。

それはどんな対象とも違う、それこそが自分自身であり、あらゆるものを生み出し続ける源泉なのですね。

明けましておめでとうございます!

みなさん、明けましておめでとうございます!

とうとう、昨年末のマヤ暦の終焉を通り越して、こうして無事に生きているようですね。

年頭に当たって、誰もが今年こそはよりいい一年になりますようにと、心の中で願っていることだと思います。私もみんながそうなるようにと祈っています。

けれども、そうはいっても人生はこれからもいろいろなことが起きてくることでしょう。当然、嬉しいことばかりではなく、まいったなあということもやってきます。

大切なことは、都合のいいことばかりが起きて欲しいと望むよりも、何がやってくることになったとしても、それをそのまま全身で浴びていくということ。

あらゆるものは、やってきては必ず流れ去っていくのですから。嬉しいときは、おもいきりそれを喜び、悲しいときにはそれも丸ごと包み隠さず感じきるということです。

この世界の法則とは、すべては一過性のものであるということ。もしも、苦しみが継続してしまうとしたら、それは自分自身が気づかずにそれを握り締めているからです。

どんなものでも目を背けずに、見るという姿勢を続けていくこと。それは、努力ではなくて、誰もが持っているあの静寂の場所のことを忘れずにいることで自然とそうなるのです。

多くの人々が自然に目覚めていく時代がやってきているようです。本当に驚くべき時代に私たちは生きているのですね。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。

人生という物語を生きる

もうすぐ年が変わりますね。今、毎年恒例の年越しそばをいただいたところです。人生はそばのように細く長く生きるという意味で食べる、ということらしいですが…。

本当のところは定かではありませんし、私の場合はとりあえず、麺類が大好物なので食べ続けてきたということでしかありません。

どういうわけか、長寿つまり長生きというのはめでたいということになっていますね。せっかく、生まれてきてこの人生という物語を堪能するのですから、短いよりも長いほうを好ましく思うのも、分からないでもありません。

けれども、長くても短くても人生は人生です。映画を見に行って、短編だから長編よりも価値が低いなどということはないのと同じです。

そしてもっと言えば、長短だけでなく、その内容がどんな物語であったとしても、いい悪いということはないのではないかと思います。

ラブストーリーがあれば、戦争の物語もあるでしょう。悲劇があれば、喜劇もあります。まったくドラマチックではない人生であっても、それもありです。

人生でどう生きたかということも、何をしたかという実績も、それもまた人生の一部であって、さまざまあっていいのでしょう。

敢えて言えば、ただ一つだけ、人生という物語の中に生きて、それを本当の意味で物語であると分かること、その物語の中の主人公を演じているのは本当の自分ではないということ、そのことに気づくことこそが、大いなる喜びなのではないかと思うのです。

みなさん、よいお正月をお過ごし下さい。今年も沢山の感謝を込めて…。

源泉に身を委ねる

今年もあと一日で終わりですね。今年いっぱいで仕事を完全に終えるつもり満々でいたものが、こうして今でも仕事を続けているのがやや不思議な気がします。

それどころか、来年以降もある程度からだが続く限りは、もしかしたらこの仕事を続けていくのかもしれないとまで思うようになりました。

でも本当は、身体がしんどかったり、そこまでして続けなくてもいいのではないかと囁く声がどこかにあるのも感じています。

それなのに、なぜやめないのだろうと考えても、本当のところはよく分からないのです。もう、これは自分の意志ではないかもしれないと思うのです。

日頃、チャンスがあれば、人に自由意志はないですよと伝えているので、それは当然のことなのですが、それにしてもただ起こるべきことが起きているというのをリアルに感じます。

勿論それは自分のことだけではなくて、みなさんのことや、この日本のこと、あるいは全世界で起こるあらゆることにも言えることですね。

私たちは、自分の身に起きていることに対して、自分がそれに深く関わっていると思い込んでいますが、本当はそうではありません。

私という思考には、全くどのようなことを起こすパワーもないのですから。何のパワーもないくせに、解説だけは一人前なので惑わされてしまうのです。

もう、そろそろ分かってあげてもいいと思います。私という思考には、何かを起こす力はありません。あらゆることを起こし続けている力とは、すべての源泉からやってくるものです。

どうころんでも、それに身を委ねてただ受け入れることによって、独りよがりの重荷や苦しみから解放されるのです。その源泉こそが、本当の私たちの姿なのです。

清々しい人生への始まりです

この二ヶ月間の間に、とても偶然とは思えないようなことが起きています。それは、今まで何となく目を逸らし続けて来た人たちが、急に逃げなくなってきたのです。

それも、数人ではなくて一斉にそんな状態になってきているという印象なのです。これはとても嬉しいことなのですが、本当に不思議です。

やはり、何か特別な時期に来ているのかもしれません。多くの方たちが、私のつたない話を真正面から聞いてくれています。

私の話というのは、いつだって自分を守ってきた人にとっては、聞くのが苦痛であるはずなのです。だから、今までは分かったようでまた忘れるということを繰り返してきたのでしょう。

それが、ここへきて、どうやらみなさんの癒しに本腰が入りつつあるのでしょう。それを、とても間近に見せ付けてもらっている感じがします。

私の伝え方も、以前よりもずっとある意味厳しい口調になっているなということも分かっているのですが、でもきっとそれが原因ではないと分かるのです。

とにかく、大勢の人が逃げなくなりつつあるのです。これはもう間違いのないことです。そのことが、何とも嬉しくて嬉しくて…。

痛みを伴うのは覚悟の上で、みなさんがようやく防衛を解除するときが迫ってきているのがはっきり分かるのです。

そしてそれは、穏やかに多くの方のところへやってくるでしょう。そのときになって、本当に人生で何があろうとも、清々しい気持ちで生きられるのだと知ることになるのです。

常に新鮮さの中に在る

本当は、ただ在るだけなのに、思考は少しの隙間もないくらいに、絶えず事細かな解説をし続けています。

思考が緩んでくると、時間経過の間隔が曖昧になってくるということは、時間を作り出しているのは、思考に違いないということが分かります。

物事を時間の流れの中にしか捉えることができないのも、思考の特徴です。それが、実は物語を継続させる方法なのです。

本当は私たちが思っているような時間はありません。一瞬一瞬に起きては消えて、また起きては消える。これを繰り返しているのです。

つまり、連続しているように思えるあらゆる事柄は、すべてが不連続であるということ。不連続なので、日常的に感じている因果というものなど本来あるはずもありません。

原因があって、その結果が起こるというのは、単なる思考の解説に過ぎません。すべては、この瞬間に新しく生まれては、消えていくのです。

それは何と美しいのでしょう!どの瞬間も完璧で、完全に独立していて、いつも新鮮で、そこには物語など一つもあるはずがありません。

物語が大好物のエゴからすると、その物語の中にこそ美しさや愛があると思いたいのですが、真実はそうではありません。

本当の私たちは、いつも生まれたばかりの新鮮さそのものの中にいる、そしてそれ自身こそが私たちの本当の姿なのですね。

愛を理解することはできない

私たちには、物事を理解したいという欲求があります。分からないままでは、何だかすっきりしないのです。できるだけ多くのことを把握しておきたいのです。

なぜなら、理解できているものが多ければそれだけ安全だという感覚があるからです。幼い頃は、社会のことやこの世界がどんなものなのかさえ分からないので、それだけで不安なのです。

大人になるに連れて、いろいろなことを理解していくにしたがって、不安も少しずつ払拭していくことになります。

私は幼い頃に、両親に連れられて夜クルマであちこちに一緒に外出させられていたのですが、どこへ行くのかとか、どのくらい遠いところなのかとか、何も分からないので不安でした。

その不安があったから、車酔いもしていたのではないかと思うのです。なぜなら、大人になって出かける目的や、かかる時間や走る道路を知っているだけで、安心するようになったおかげで、車酔いがなくなりました。

それだけ、分かっている、理解できているというのは心の安定には欠かせないものなのだということです。

けれども、今になってようやく気づくことができたのですが、理解できることというのは、あくまでも思考の中でのことだということです。

思考の中で分かったつもりになっているだけで、それは真実からは程遠いものだったのですね。真実なるものとは、決して理解できるようなものではありません。

知覚できないもの、理解することができないものこそ真実であり、そこにこそ本当の愛があるのだと思うのです。