三重苦になってしまった

ただいま、絶不調男となっています。何と、5,6年ぶりくらいだと思うのですが、珍しく風邪を引いてしまいました。

今までも、時々は喉が痛いかなと思うようなことはあったのですが、そのたびに難なく治ってしまっていたのでした。

それが、今回ばかりはどうもはまってしまったようで、きっと引越しなどの疲労によって、免疫が弱っていたのでしょうね。

そして、風邪をひくと大抵は自分の身体の一番弱い部分も影響を受けるのですが、私の場合はお腹に来てしまいました。

それも突然、数時間前から痛くなって、何度もトイレに行かねばならないような状態になりました。なんだか、さらに体力を奪われてしまうようで。

そして重なるときは重なるものですね。今朝、お風呂で腰をかがめた瞬間に、ギクっときて、それからずっと真っ直ぐに伸ばせない状態でいます。

つまり、今私は三重苦のさなかというわけです。この苦痛も受け入れようとやっていますが、周りの人への配慮まではできないようです。

それでも、これも一つの物語の場面に過ぎないということも、分かっているので、以前よりはどこかで寛いでいる心の部分もあるのです。

なんか、強がりに聞こえてしまうかもしれませんが、ウンウン唸りながらも心の奥ではそれを静かに見ているのです。

さすがに疲れたので、今日は早めに寝ることにします。みなさんも、身体に気をつけて下さいね。

目覚め体験後も人生は続く

自分は誰でもないということがはっきりしたとしても、肉体が朽ちるまでは人生というものは相変わらず続いていくのですね。

そして、やっぱり相変わらず困った事態もやってくるし、身体の具合が悪くなることも同じようにやってくるのです。

それなら、本当の自分が純粋な意識だと気づいても、これといって何も変わるようなことはないのではないかと感じても当然でしょう。

そうなのです。仮に覚醒体験したとしても、具体的には何も変わらぬ毎日がそれ以降も淡々と繰り返されていくばかりなのです。

幼い頃に溜め込んで、抑圧したままになっている感情があれば、それが今現在の自分にチャンスと見れば襲い掛かってくるのです。

したがって、生きている不自由さやうまく行ってない感というのは、やはり感じるわけです。だから、心の癒しもそれなりに必要なのです。

そういうわけで、目に見えるような変化はないのです。けれども、自分が何かを知ると、やはり何かが変わるのです。

それはどんな状況になったとしても、比較的短い時間で深刻さから抜け出すことができるようになるのです。

自分の惨めさを感じたとしても、どんな感情がやってきたとしても、心の底から落ちていくことがなくなるのです。

なぜなら、人生や宇宙もすべてが精巧にできた物語に過ぎないということに常に意識を向けていることができるからですね。

これこそが、本当の救いなのですね。

エゴをピカピカに磨いてもエゴなのです

セッションを思い切り低料金にしてみたら、今まであまりいらっしゃらなかったようなクライアントさんが来て下さるようになったと感じています。

学生さんや、わけがあって金銭的な余裕がない状態の方々も含めて、来て下さっています。少しは、受け口を広げることができているのかなと。

あまりに低料金過ぎて、かえって疑われるので止めたほうがいいと言われたこともあるのですが、そんなことはものともせずに多くの方々に来てくださっています。

そんな中で、私自身はいつ、どのタイミングで「真の自己」について口に出してみようかと、虎視眈々とねらっているのです。

実は、それがなければもうこの仕事からは足を洗おうと思っていたのです。従来どおりの心の癒しをどれだけ積み重ねたところで、根本的な変化はしないと分かったからです。

それは何を隠そう、この自分の癒し体験を通して判明したことなので、こればかりはもうどうしようもありません。

だから、セッション中いつも思っているのは、本当はこれは物語なので、癒しの作業も物語の一環でしかないわけなんですよと。

無駄なことではないにせよ、早くこのことに気づいてもらいたいと思うのです。勿論、その人なりの時期というものがあるのでしょう。

だから、それを待っていればいいのかもしれませんし、神の恩寵はいつか必ず向こうからやってくるものなのでしょうね。

それでもいつもお伝えしたいのは、人物としての自分を磨き上げてピカピカにしようとするのは、エゴそのものだということなのです。

痛みから逃げないこと

心の鎧をまとったその内側に、守るべき弱い自分、見たくない惨めな自分がいることを思い出すことです。

どんな人であっても、必ず情けない弱々しい自分を隠し持っているものです。その部分を、他人からも自分自身からも見えないようにしているのです。

けれども、そのことをもっと正確に捉えておく必要があるのです。つまり、自分のことを弱いと思っている自分がいるということです。

惨めだという思い、情けないという思い、ただそれを隠し持っているということです。実際に惨めだったり情けないということではないということです。

私たちは、つい思考の中でめぐらしていることを真実だと思ってしまう癖があるようです。実際には、どんな自分もいません。

ただあるがままのことが起きているだけだからです。それを思考が勝手な解釈を作って、自分のことを否定しているだけなのです。

思考はあたかもそれが事実であるかのようにして、そこに様々な感情を生み出すのです。そして本当は、その感情から遠ざかろうとしているに過ぎません。

なぜなら、その感情は心に痛みを感じさせるものだからです。ですが、それは単なる痛みでしかないのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

ただの痛みから逃げようとするからこそ、苦しみを背負うことになるということに、もうそろそろはっきりと気づく時が来ているように思います。

コースの勉強会がひとまず終了です

今日をもって、丸4年の間続けてきた奇跡のコースの勉強会が終わりを迎えることになりました。月に一度のペースですから、都合48回やったことになります。

途中ですぐに投げ出してしまいがちな自分が、こんなに続けることができたのは、参加して下さったみなさんがいて下さったからに違いありません。

勿論一人では、何もできないですからね。それにしても、よくここまでやってこれたなあと感慨ひとしおなのです。

初めのうちは、コース自体何も分からずに、勉強会も手探り状態でした。今思えば、4年前は少し緊張さえしていた感じがします。

勉強会は、自分にとってはどれだけ理解することができたのかを、試される場のように捉えていたかもしれません。

それが、一生懸命テキストを読み、ワークを続ける原動力になったようにも思います。その感覚は、一年かけてワークを終了してからも継続していました。

それが、昨年の2月にダグラス・ハーディングさんの本との出会いによって、根底から変わってしまったのです。

つまり、コースを読む態度というのか、読む姿勢そのものが変化したのです。コースはいつか到達するための道ではなくなったのです。

それからは、ある意味余裕を持ってコースと触れ合うことができるようになりました。人というのは、やっぱり続けていくうちに自然になるようになっていくのですね。

勉強会の常連の方々が、来年の勉強会の会場の予約をして下さったようです。1月20日(日)9時半から、今までと同じ武蔵野公会堂の会議室です。

ご興味がある方は、是非気軽に参加されてみてはいかがでしょうか?

究極の心の避難所

私は子供の頃から、何となく自分は現実感が乏しいと感じていて、この現実の世界にしっかり自分がいるという感じがしっくりこないというのを持っていました。

こうしたことは、自分に固有のものだろうから、友達や親にもあまり話したことはなかったと思います。でも今は、ごく普通にこのような類の話をするようになりました。

現実感が乏しいからなのか、少し目を閉じて静かにしていると、あっという間に得体の知れないところへ自分が行ってしまいます。

それは他の言葉を使うと、何だかどこか懐かしい感じもしますし、それが幼い子供の頃の感覚をただ思い出しているようでもあるし、そうでもない感じもしてあやふやなのです。

けれども、その感覚は本当にあらゆるものを一瞬にして消滅させてくれるので、とても重宝しています。なぜなら、意味があろうがなかろうが、それも含めてすべてが消えるからです。

惨めな自分も、無残な人生も、理不尽な思いも、悔しい気持ちも、孤独感も、そこへ避難すればことごとくなくなってしまいます。

思考が完全に消えるというわけではないのですが、少しだけ残った思考の残骸が、どこでもない、なにものでもない、あるでもないでもない、というのをうっすら気づいているのです。

こうして言葉にしてみると、かなり危ない感じが漂ってくるようですが、それでもこの先も何があったとしても、この避難所さえあれば自分は大丈夫だという気がするのです。

この心の避難所は誰にでもあるものです。なぜなら、それこそが本当の私たち自身なのですから…。

問題行動について その2

昨日のつづきです。

問題行動が起きるときには、必ずその前段でひどく抑圧された心の叫びがあるということです。何らかの理由でストレートに表現できないときに、回りくどい方法を使うのです。

その婉曲なやり方が問題行動というわけです。たとえば親に対して、本音を言うことができない女の子が、無意識的に門限を破るということもあります。

母原病などと呼ばれる一種の病気のような症状がありますが、これも問題行動として捉えることができます。

お母さんと子供の間で、心の交流がうまくできていないと、場合によっては子供にぜんそくやアトピー、中耳炎や自家中毒などの症状が出ます。

私は子供のころに自家中毒をよくやっていた記憶があります。嘔吐を繰り返すあまりに、母親が洗面器を枕元に置いておくのですが、しまいにはそれを見ただけで具合が悪くなっていました。

子供に問題行動が出たら、それは周囲の大人がその原因である、本人の抑圧について注意深く見てあげる必要があります。

大人のしでかす問題行動にも様々なものがありますが、軽めのものでしたら、本人の心の中にいる幼い子供がやっていることだと思って、やさしい気持ちで見守ってあげるといいと思います。

ちょっと複雑なものですが、相手に喜んでもらおうとして、無自覚にミスやヘマをして、自分を相手にとって見下す存在に仕立てるなどというのもあるかもしれません。

このあたりになると、さすがにどこまでが問題行動といえるのか微妙なところですが、要するに人の行動をより広い心で受け止められたらいいなということですね。

問題行動について

問題行動という言葉が、正式にあるのかどうかは知りませんが、私はセッションのときによく使っています。

問題行動というのは、幼い子供であればオネショに代表されるような、ちょっと周りを困らせるような行動や身体の症状のことを指します。

短期間のオネショの場合は問題行動とは呼ばないかもしれませんが、それが一般的な程度を超えてしまうと、問題行動として取り扱う必要があるでしょうね。

問題行動というのは、子供だけではなくて大人であっても立派に発生します。というのも、大人であろうと子供であろうと、心のメカニズムに違いはないからです。

というよりも、大人の起こす問題行動も、実際にはその人のインナーチャイルドが起こしているわけですから、ご本人の年齢に問わずに起きるのは当然のことなのです。

子供や青少年の場合の代表的な問題行動としては、不登校が挙げられます。私自身も幼稚園のときに、半年ばかり不登園というのをやらかしました。

度が外れた夜遊びや援交、あるいは暴走行為なども問題行動であると考えられます。問題行動は一概に「問題」だとは言えないこともあります。

なぜなら、問題行動というのは、本人が正面きって自己表現ができない場合、あるいはどう表現していいか分からない、または表面的には何も感じていないけれど、深層では抑圧しているなどの場合に起こるからです。

つづく

本当の空っぽさとは?

今ちょうど引越しの最中で、普段じっと座ったきりで動かない生活をしている身としては、かなりしんどい筋肉痛がやってきてくれています。

日頃から自分は、あまり私物をもっていない方だろうとの自覚があったので、引越しなどあっという間に終わってしまうに違いないと高を括っていました。

ところが、いざとなったらやはり出てくるものですね。それも大抵がいらないものばかりで、普段から処分するようにしておいたら、どうってことなかったはずなのに。

今まで使っていた部屋が次第に空っぽになっていくに連れて、気持ちも清々しくなってきて、ああここに住みたいなあなどと変なことを思ってみたり…。

物が無いというのは、本当に気持ちのいいものなのですね。自分の心も空っぽにすることができたら、どれほどいい気分になれるでしょうか?

心を空っぽにするというのは、一般的に言えば思考を停止させてしまうということを連想するかもしれませんね。いわゆる無念無想というものです。

けれども、思考は別に悪者ではありません。思考が起こったとしてもそれに巻き込まれないようにできればいいだけの話しです。

つまり本当の空っぽさというのは、そこに何も無いということよりも、あるものに翻弄されない状態でいるということなのです。

何があったっていいじゃないですか。ただそれは、在るだけなのですから。そこに都合のいい解釈を差し挟むからこそ、苦悩するということに気づけばいいのでしょうね。

仕事は辛く苦しいという先入観を捨てる

子供の頃からずっと、学生の頃も会社員時代も、とにかく休日が大大大好きという人間でした。それは、裏を返せば学校に行ったり、仕事に出かけることが大嫌いだったということです。

初めての団体生活である幼稚園に通いだしてすぐに、膝が痛くて歩けなくなる、当時としては原因不明の病気になって、まんまと幼稚園を半年休園したのです。

そこからすでに、家から外に出て行って団体生活をすることを拒絶していたということですから、なかなか筋金入りなわけです。

社会人になったら、もう休日だけが人生の救いというぐらいになりました。幼いころから、外出することに何の興味も感じなかったのです。

自分にとって、一番居心地がよくて快適なのは、家の中なのです。外は何かと気苦労の多い大変なところだという間違った洗脳を自らしてしまったのかもしれません。

仕事は楽しいものではなくて、苦しいものに違いない。辛く大変な思いをするからこそ、見返りとしてのお金を稼ぐことができる、そんな勝手な思い込みをしてしまったのだと思います。

ところが、会社員を辞めて、今の仕事をするようになったら、休日というものが必要なくなってしまいました。

つまり、気晴らしが不要になったということなのかもしれません。毎日が日曜日というと、オーバーかもしれませんが、仕事と休日が毎日同時にやってきているような感覚なのです。

仕事は過酷で辛いものという勝手な解釈をしているとしたら、そんなことはできるだけ早く止めるべきですね。

そうすれば、休日を楽しく過ごすために歯を食いしばって仕事をするなどという、本末転倒な人生から開放されるはずです。