思考から離れると真実が見えてくる

○この数年で気づいたこと:

自分の顔もしくは頭があるはずと思い込んでいた場所には、何も無いということ。

外向きにあるものを見るとき、内向きに見てもまったく同じものが見えるということ。
↓
外側と内側は同じであるということ。つまり、外も内もないということ。

自分には自由意志はないということ。つまり、選択したり決意することはできないということ。
↓
自分や自分の人生をコントロールする力はないということ。

思考は解説するだけで、どんな力も持ってはいないということ。

○そして、以下のことは事実ではなく、ただ思考の中で思われていること:

自分の肩の上には顔(頭)がある。

自分の外側には世界が広がっていて自分はそれを見ている。

自分とはその世界の一部を肉体という形で独占している存在である。

自分には独自の自由意志があり、自由に選択や決意することができる。

自分は自分の人生をコントロールする力を持っている。

思考にはパワーがあって、それによって人は突き動かされるのである。

こうしたことを信じるから、苦しみがやってくるのですね。

愛に溢れた文章のおすそ分け

先ほど、ある方から以下のようなメールをいただきました。あまりに、愛に溢れていて私だけが読むのは勿体ないと思いましたので、ご本人の許可を得ましたので、ここに掲載させていただきます。

ちなみに、文中の「いただいたファイル」とは、私がお譲りした「奇跡のコース」のテキストのことです。

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大澤先生

昨日はあれから駅前まで戻り、でもすぐにバスに乗りたくない気分だったので
マックでコーヒーを飲みながら、いただいたファイルを
適当に1冊取り出してぱらぱらめくっていました。

先生が赤でアンダーラインを引かれたところを
目で追いながら拾い読みしていたら、
突然涙が出てきて、止まらなくなりました。
しばらくはらはらと涙を流しながら、アンダーラインが引かれたところを
追い続けていました。

それは、すべてがゆるされたような
大きな愛で包まれているような
言葉では表せませんが、静かで、でも広くて深い至福のようなものでした。

それからずっと、目に映る人すべてが愛の存在であることがわかるんです。
そして、言葉を交わす人すべてから愛を受け取ることができるし、
私は何もしなくても、私の中から愛が流れ出していることがわかります。

これって、たとえようもないすごい至福です。
もう何も要らないって思います。

昨日先生にお会いして、これから先生は
今以上に大きな愛として存在されるようになるんだなとはっきりわかりました。

そして私も、すべての愛のためにだけ在りなさいと言われているような気がします。

むき出しのただ愛であるだけの存在でありたいと
そのことだけを祈り続けようと思います。

「祈りによって愛を受け取り、奇跡によって愛を表現する」
そうコースにも書いてありますしね♪

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無防備な心の清々しさ

死とは無に帰すること。ただそれだけなのに、なぜ私たちはそれを恐れているのでしょうか?不思議なことだとは思いませんか?

無とは、何もないのですから恐れも勿論ありません。恐れのない状態へ遷移することを恐れているのですから、何とも奇妙な話しなのです。

無でない状態において、無に一番近いと感じるのは深い平安な状態です。苦痛もない代わりに、感動や楽しみもありません。

けれども究極の平安という安らぎには、何とも形容することのできないとても奥深い静寂があるのです。生きていても、それを垣間見ることはできます。

ラマナ・マハルシは、高校生の頃に突然覚醒してしまい、その圧倒的な世界へとのめり込んでしまい、洞穴のなかで身体をねずみに食われても動こうともしませんでした。

勿論彼の場合は、とても稀有なケースではあるのですが、どこかで私たちは死を恐れている以上に、それを望んでいるのです。

死は本当は恐れる対象ではありません。それなのに、これほどまでに死から遠ざかっていようと自己防衛を続けているのは、物語の続きをもう少し見ていたいからです。

子供の頃に、毎週欠かさず見ている大好きなテレビ番組がもう少しで終わってしまうというときに、必ず一週間待てないよ~と心の中で叫んでいたものです。

それと同じことなのですね。自分の人生という物語を、どうしても今この瞬間にはまだ終わらせたくないという欲望がるのですが、これが死の恐怖なのです。

テレビ番組が無情にも、時間になると終わってしまうのと同じように、神が「その物語はもう終わりですよ」と言われる、そのときが死なのです。

それはただ無に帰するだけなのですから、そのときは潔くただ観念するようにしたいものですね。そして、常日頃から死を恐れる自分をしっかりと正面から見つめることです。

そうすれば、過剰な自己防衛が減って、無防備な心の特徴である何とも言えない清々しい安らぎの中で生きていくことができるのです。

所有するという幻想から目覚める

大切なものを喪失するのは、誰にとっても辛いことですね。自分が一度手に入れることができたなら、それを失いたくないと思うのです。

勿論欲しいと願っているものが手に入らないということも、苦しいことかもしれません。けれども、私たちは一度手にした喜び、一度味わった満足感を忘れないのです。

そして、その宝物を決して奪われたくないと強く思うのです。これが、執着のもっとも代表的なものかもしれません。

執着しているものが、手から離れそうになると、必死になって悪あがきしてしまうのです。それが、強烈であればあるほど、苦しむことになってしまうのです。

つまり、喪失を受け入れられずにいればいるほど、苦悩は募るばかりです。分かってはいるのですが、自分の心は簡単にはコントロールすることができません。

逆らうことにもいつか限界がきて、もうどうにでもなれと観念してしまえば、驚くほどさっぱりと楽になってしまうことにびっくりするかもしれません。

そこまで行く前に、こうした執着をなくすためには、一体どうしたらいいのでしょうか?そのためには、所有するということをじっくり見つめなおすことが大切です。

所有するということが、単なる約束事であり、本質的なことではないということに気づくことです。AがBを所有するという場合、それは単なるルールなのです。

ルールは真実ではありません。決め事に過ぎません。ということは、自分が何かを手に入れたと思うこと自体が間違いだったと分かればいいのです。

そうなれば、喪失ということ、そのものがなくなってしまいます。所有するという幻想から、そろそろ目を覚ますときがやってきたのではないかと思います。

新たな時代の到来

昨日は、まじかに迫った衆議院議員総選挙の不在者投票というのをやってきました。選挙当日も仕事と引越しの準備で何かと時間が取れないといけないと思って。

不在者投票は、ほとんど人がいなくてのんびりムードで、とてもよかったのですが、私の選挙区には私が推している政党の候補者が立候補していないのが残念でした。

今度の選挙では、何か今までにない大きなうねりがやってくるような気がします。それは、長年変えることができなかった憲法の改正も争点になっているからです。

ところで、来週末あたりに例のマヤ暦の終焉がやってくるのですね。何でも闇の時代から光の時代へと変遷するらしいです。楽しみですね。

その数日前に、私はセッションルームを引っ越すことになったし、どうやら人類レベルで、そして日本のレベルで、最後に私個人としても、そしてきっとみなさんすべてが同期して、とうとう変化するときがやってきたように感じます。

都合のいいことも悪いこともすべて含めて、やってくる変化の波をそのままに受け入れることができた人から、平安がやってくるはずです。

引越しに先立って、いらないものを整理しているのですが、「奇跡のコース」のテキストをプリントアウトしたもの(ファイル数冊分)を処分しようと思っています。

それは各段落ごとに、日本語翻訳と英語原文を交互にした私オリジナルの手作り品です。もしも、欲しい方がいらっしゃいましたらお譲りしますので、ご連絡して下さい。

ついでに、あるクライアントさんから頂いた「奇跡のコース」の原書があるのですが、こちらも欲しい方に差し上げますので、ご連絡下さいね。

新たな時代がやってくることを、謙虚な気持ちで元気に迎えたいものです。

原動力は愛か恐怖のどちらか

私たちが突き動かされる原動力は、愛か恐怖のどちらかしかありません。先に言ってしまうと、残念ながらほとんどが恐怖であると思われます。

たとえば、ピアノをもっと上手に弾けるようになりたいと思って、一生懸命練習するとき、親に褒められたいとか、みんなにすごいねと言って欲しいなら、それは恐怖が原動力です。

一方、あの曲が弾けるようになったら楽しいだろうなという、純粋な気持ちで練習に励むのであれば、それは愛が原動力であると言えると思います。

愛か恐怖かがいまいち分かりづらいのは、大抵がその双方を持っているからです。多くの場合、最初に愛があって、そのうちに恐怖がそれに取って代わって原動力となってしまうのです。

誰だって人から否定されるよりも、肯定されたいのが本音でしょう。けれども、否定されることが死に匹敵するくらいの恐怖として心の奥で感じているとしたら、肯定されようとして必死で頑張ることになってしまいます。

誰からも愛されようとすれば、すべての人が好む最大公約数を達成するような人物になろうとしてしまうはずです。

自分を向上させようとする原動力が、愛への嘆願である恐怖であると、それは決して達成することのできない不可能性がそこにあることに気づかねばなりません。

それは、たとえて言えばどんなに雲が頑張ろうとも、青空になることができないのと同じことなのです。この場合、青空は愛であり、その愛を覆い隠している張本人が雲だからです。

雲が消えていくことでしか、愛である青空が広がることはありません。そのことにしっかり気づく必要があります。

恐怖が原動力であれば、その結果は何万年経っても愛へと変わることはないということです。

自分が突き動かされている原動力が恐怖なのかどうかを、しっかり見極めることができなければ、それをやめていくことはできません。

そしてもしも、そのことに気づくことができたのなら、敢えてそれを止めようとするよりも、そういう自分を愛の目で見守ってあげることです。

必ず、執着を手放す時期はいずれ向こうからやってきてくれるのですから。

「ただ在る」を感じる

年の暮れが押し迫ってきた感じがしますが、本当にそうだと思う人もいるでしょうし、そんなこと関係ないと思っている人もいるでしょうね。

私たちは、忙しい毎日を送っている間に、ともすると大切なあの感覚を忘れてしまいがちです。あの感覚とは、思考から離れたときに感じるあの「在る」という感覚です。

思考を働かせずに、ただただ見るのです。何を見るかというと、ただ在ることを見るのです。したがって、「見る」といっても視覚を意味するのではありません。

肉体の目を使って見るということではないということです。知覚を使えば、それは思考と連動してしまうからです。でも思考を止める必要はありません。

あるがままをそのままに感じるためには、知覚を使わないでいる必要があります。ただ在ることを感じるということです。

なぜそのことを忙しさにかまけて忘れてしまうのかというと、物語の中に巻き込まれて行ってしまうからです。

ただ在るというのは、その忙しい物語が続いていく土台のようなものです。それは、どんな物語が起ころうと、ただ在り続けてくれています。

「ただ在る」は、過去でも未来でもありません。それはこの瞬間にこそ在るものであって、どれほど自分が忙しくても、どんなに何かに翻弄されていようとずっと在るのです。

誰でもが知っているこの感覚。もしも、自分はそんな感覚は知らないと言うなら、自分を騙すのもいい加減にした方がいいよと言いたくなります。

だって知らないはずがないじゃないですか。それこそが本当の自分なのですから。自分のことを知らないなんて、ありえないでしょう。

本当に見つめると消えてしまう

今月に入って、急激に冷え込んで来ましたね。寒いのは苦手なのですが、冬のキーンと冷えた夜空は、空気が澄んでいて星見には最適なのです。

星はシリウスのようにとても明るいものから、肉眼でやっと認識できる程度の暗い星までいろいろな明るさがあって、等級という単位で表されているのはご存知かと思います。

自分の視力で、ようやく見えるような明るさの星があるとき、その星にピントを合わせて視野の中心で見ようとすると、かえって見えなくなってしまうという経験をされたことがあるはずです。

逆に少しだけその星から視点をずらしてやると、見えるようになるのです。この現象は、人間の目の特徴によるもので、ちゃんとした理由があるのです。

簡単に言ってしまうと、視野中心から離れた周辺視野では、視野の中心に比べて細かい認識をする必要がなく、視野中心とは別の「少ない光を感知しやすい」という特性を持った細胞が集まっているのです。

その結果、視野中心よりも周辺視野の方がより暗い光を感知することができるわけです。凝視しようとすればするほど、暗いものは見えなくなるので、ちょっといやな感覚ですね。

この話しとよく似た現象があるのですが、それは都合の悪いことから目を背ければ背けるほど、それは苦しみとなって迫ってくるということです。

そして逆に、目を背けることなく真正面からしっかり見ることができると、それは不思議なことに消えてしまうのです。

台風の中心からはずれたところはひどい暴風雨なのに、台風の目と呼ばれる中心は無風状態だったりするのとも、どこか似ているかもしれません。

いずれにせよ、感情というものは、本当にそれと一つになってしまうことができたら、そこには何もなかったということを知る体験をすることになるのです。

幻想は、真正面から見てあげると、無に帰するということと同じことなのかもしれません。

恐れが減れば愛が顕在化する

住み慣れた街というのは、何となく愛着を感じて去り難いものなのかもしれませんね。急に思い立って、違う事務所を探そうと思ったときにも、今のセッションルームのある吉祥寺しか頭に浮かびませんでした。

12年前のちょうど今頃から年末にかけて、セッションルームを探していたときに、気に入ったのですが空きがなくて諦めた物件があったのです。

そのことを思い出して、今回そのマンションを探してもらったら、運良く空く予定になっている部屋があるとのことで、他の物件も見たのですが結局すぐにそれに決めてしまいました。

話しを元に戻しますが、慣れるということは、飽きるということもあるのと同時に、必ず馴染んできて好きになるということもあるのです。

それは、いつも見慣れて深く知っていくうちに、恐れが取れていくからなのだと思うのです。知らないものは、基本的に危険であると感じる本能があるのです。

このことは、どんなものにも当てはまります。見合い結婚で、たいして相手を知らないところからスタートしても、毎日一緒に生活していれば相手のことを深く知るようになりますね。

そうすると、恐れが薄れていくために、愛が芽生えるのです。それは芽生えるというよりは、本当は元々あった愛が姿を顕わすようになるだけなのです。

私の奥様は、特別クルマの運転が下手なわけでは決してないのですが、慣れないうちはあまり楽しく運転ができないようなのです。

つまり、知らないことに対する恐れがそこにあるからなのですね。けれども、そのクルマに慣れるにしたがって、自分の手足のように運転することができるようになると、こんなにいいクルマはないと言い出します。

それも同じことです。恐れが少なくなっていくことで、隠されていた元々の愛が顕在化するということなのですね。

人の評価を気にする心

誰しも他人からどのように思われているのかということには、少なからず関心を持っているものですね。

自分のことは自分が一番よく分かっていると思っている人であっても、周囲からの評価が気にならないという人はいないはずです。

自分がどう見られているのかが気になるレベルというのは、案外自分を否定している度合いに比例するものかもしれません。

つまり、自分のことをまあまあいいんじゃないの、と思える人はそれほど人の評価を気にしないでいられるということです。

逆に、自己評価が低い場合には、人の目や意見がものすごく気になり、ちょっとした否定的な言葉にもひどく傷ついてしまうということです。

後者の場合で、かつ有名人であったりすると、これはもう大変な事態になる可能性があります。なぜなら、一般人よりも何千倍も人の目に晒されているからです。

そうした場合には、評価が気になるあまりに自分からそういう情報を探しに行ったりしてしまうこともあるはずです。放っておくことができなくなってしまうのです。

それはまるで、ゴキブリが超苦手な人が、突然部屋の中にソレを発見して、夜通しにらみ合いをしている姿とダブります。

目を離したら、どうなってしまうのかが恐ろしくて、放っておくことなど絶対できないということなのでしょうね。気持ちは分かります。

ゴキ君のことはともかくとして、人の評価が怖くてビクビクしていると、ワクワクする冒険人生を生きることができなくなってしまいます。

解決方法は、幼い頃の自分がどれだけ自分のことを否定しているのかを、徹底的に見てあげることです。そして、十分にその感覚を味わうことです。