シンプルな事務所で心機一転

今年いっぱいで、この仕事にピリオドを打とうと思っていたのが、どうした心のはずみなのか、また場所を変えて続けることになってしまいました。

これも、成り行きというか自然の流れなのかもしれません。今までと違うのは、セラピールームが事務所(オフィス)仕様の空間となることです。

部屋の面積も狭いし、シャワーもありません。居住空間として使うには無理がある、あくまでも仕事場という仕様のスペースなのです。

それがある意味狙いでもあったのですが、これなら今までのように「自分の城」的な要素がないので、きちんと自宅から通勤することになります。

ついでに様々なことをできるだけシンプルにしたいと思っています。落ち着いたら、固定電話を解約しようと思っています。

クライアントさんは、電話でのご予約ができなくなってしまいますが、その代わりセッション中に他の人からの電話に割り込まれることがなくなります。

原則的には、メールでのご予約にしていただき、ご予約後どうしても必要であれば私のケータイ番号のみ、お知らせするという方式にしたいと思っています。

事務所のスペースが狭いので、パソコンも使わずに ipad とスマホだけでご予約の管理その他をできるようにするつもりです。

それと、今までずっと続けてきたお茶のサービスも、今度の移転を機に終わりにしようかなと。飲み物は必要に応じて、お持ちいただくということにしようと思います。

できる限りシンプルにして、なるべく低料金を維持しつつ、濃厚なセッションができたらいいなと思っています。

自分なんていない方がいいという罪悪感 その2

昨日の続きです。

親の否定的な気持ちを敏感に感じ取ってしまう幼い子は、それが自分のせいに違いないと勘違いしてしまい、それが自分なんかいない方がいいという罪悪感となってしまうことになるというお話しをしました。

その場合、親の否定的な感情が、それを痛いほど感じている幼子自身に向けられているとしたら、それほど耐えられないことはありません。

たとえば、心に余裕のない親が、子供をしっかりとしたどこに出しても恥ずかしくない人物に育てなければならないと思うあまりに、否定的な言葉や態度で叱ってしまうということがよくあります。

親に悪気は勿論ないのですが、必死になるあまりに、親の思うとおりにはできない子供の行動修正に力が入ってしまい、つい受容することを忘れてしまうのです。

こうなると、子供は親が自分のため思って叱ってくれているとは感じません。自分の存在がひどくみすぼらしくて、惨めに思えてくるのもやむを得ないことです。

また、とても心配性な親が必要以上に子供のことを心配ばかりしていると、それが裏目に出ることになってしまいます。

子供は、親を心配させる情けない奴なのだと、自分のことを錯覚してしまうのです。親を苦しめる自分は駄目な存在だと理不尽にも信じてしまうのです。

どちらの場合も、本当によくあるケースです。そして、子供は理由のはっきりしない、自分の存在に対する否定的な思いというものを心の奥底に沈殿させてしまうのです。

これが原因となって、自分の存在価値を実感することができないまま、大人へと成長していってしまうのです。なぜなら、成長していく自分は、そうした惨めな幼い自分を否定し続けているからです。

もしも、自分は罪悪感を強く持っているとの自覚があるのでしたら、こうしたことをよくよく思い返してみることです。

自分で自分の存在を否定して、惨めな思いを持ったまま隠されてしまっている小さな子供の自分をしっかり見てあげることです。その子を自分自身として受け止めることができれば、自然と無価値感は薄れてくるはずです。

自分なんていない方がいいという罪悪感

私たち人間は、他の動物と同じように、相手の気持ちを感じ取るという生まれながらの能力を持っています。

ただ単に感じてしまうというだけでなく、相手を慮(おもんばか)るということもできる能力を備えているのです。

それは本当にすばらしいことなのですが、それが仇になってしまうという悲しい事実もあるのです。それは、もうほんの2,3歳の頃から始まっていくのです。

幼い子供は、どんなときでも親の気持ちをいつも感じつつ生きているのです。そして、上で書いたように、彼らの心の様子を見守ってさえいるのです。

もしもなんらかの理由で、お母さんやお父さんの心に穏やかさ以外の否定的な感情を感じ取ってしまうと、それをまるで自分の感情でもあるかのように見てしまうのです。

それは大変な傷になってしまうかもしれません。なにしろ、自分の心の中にはそうしたものは元々見当たらなかったのですから。

そして、もしかしたら相手の心に否定的なものがあるのは、自分のせいなのでないかと考えるようになってしまうのです。

親の気持ちが平安で落ち着いているときに、そうした思い違いを払拭してくれるなら問題ないのですが、それが十分でないうちにまた負の感情を感じてしまうと、思い込みが確信になってしまいます。

そうしたら、何で自分なんかここに生まれてしまったのだろう、自分さえ生まれてこなければ親はいやな思いもしないで済んだのにと信じ込むのです。

こうして、自分という存在に関する根深い罪悪感が出来上がるのです。これが、人生がうまくいかないと感じる根本的な原因なのです。

つづく

防衛システムを緩める方法

私たちが日夜使い続けているエゴの防衛システムは、自分の命を守ることを唯一の目的としているのです。そのことを忘れてはなりません。

つまり、死の恐怖から逃れるための防衛システムなのです。なぜこんな分かりきったことを、あらためて確認する必要があるのかというお話しをします。

私たちは通常、大きな怪我や病気などによってしか、死ぬことはありませんね。勿論一番穏やかな老衰による死もありますが。

つまり何が言いたいのかというと、日々の生活の多くの場面において、自分の死を意識しなければならないような事態というのは、そうそう来るものではないということです。

このことは、この時代の日本という国に生まれたことを本当に感謝しなければならないと思います。地球上には、今この瞬間にも常に死と隣り合わせの生活を余儀なくさせられている人々が沢山いるからです。

私たちは幸運なのです。自分の死は、遠いところにまだあると信じて生きているのです。けれども、それだったらなぜ自分の命を守るための防衛システムを使い続けなければならないのでしょうか?

たとえば、幼いころから自己表現を抑える癖ができてしまった人がいるとします。そういう人に、自己表現、感情表現をして下さいとお願いしても、簡単には聞き入れてくれません。

本人としても、なぜそれほどまでに頑なに自己表現を抑えてしまうのか、分からないのです。そこには、隠されたカラクリがあるのです。

幼いころに作り上げた自己表現を抑えるという行動は、実はその当時の自分の命を守るためのエゴの防衛システムだったのです。

命がけの行動というのは、そう簡単には解除することはできなくて当然です。もしかしたら、自分の言いたいことをいうと、周りの大人に否定されて、嫌われて、見捨てられて、生きていけないという恐怖を感じたのかもしれません。

そうやって、死の恐怖から自分を守るための防衛システムができあがるのです。問題は、幼い自分のために作った防衛システムを、大人になっても使い続けてしまっているということです。

そのことに気づくことができれば、そこからゆっくりとその防衛システムを使わないでいるという選択肢があることに気づくはずです。

そうすれば、決して死ぬようなことはないことに対してまでも、エゴの防衛システムを稼動させるようなことはなくなるはずなのです。

突然の決意

昨日は、自分の58回目の誕生日でした。もう、このクラスになると、何歳になろうがあまりうろたえることもありませんね。

姿かたちは確かに、その年齢にマッチしてきているとの自覚もあるのですが、中身はまったくもって年齢というものがないようです。

強いて言えば、そこそこの経験をしてきた若者(ずうずうしいにもほどがある!)といった感覚なのですから、仕方ありません。

一体どうやったら、実年齢に適した精神状態になれるのか、一向に分からないのです。きっと、このままの状態で死んでいくのだろうと思っています。

ところで、今年を最後にこの仕事から撤退するという計画でいたし、確かに今月の19日にこのセッションルームを引き払うことになったのです。

けれども、そのことが確定してしまったら、自分でもびっくりしたのですが、場所を変えて細々とセッションを続けてもいいのかなという気持ちがやってきたのです。

それも突然でした。経費をうんと削減すれば、低料金を維持したままセラピーをやっていくことができるという思いが、やってきたのですね。

きっと、この部屋を維持していくということがどこかで重荷になってしまっていたのでしょう。それが、開放されたおかげでそういう気持ちになったのだと思います。

それで、早くも昨日木枯らしが吹く中、不動産屋さんに出向いて、目ぼしい物件を決めてきてしまいました。まだ契約はしていないのですが、多分この先もセラピーをやっていくことになりそうです。

詳しいことが決まりましたら、このブログでもお伝えしますし、みなさんへダイレクトメールを送信させていただくつもりです。

楽を求めるなら満たされない その2

昨日の続きというか、補足的なことを書こうと思います。

楽である状態と、楽である状態を求めることとは根本的に違うというところから始めます。楽であることは何も問題ないのですが、それを求めていることが問題なのです。

楽の反対は苦であるとして、私たちは苦しみから逃れようとするようにプログラミングされているのですが、それは結局のところ楽を求めるということと同じことなのです。

苦しみという不都合なことから逃れようとすると、うまくいくことがあったとしても、それは一過性のものであるということに気づかなければなりません。

長い目でみれば、残念ながら苦しみは過去から必ず追いかけてくるのです。決して逃れられないことになっています。

なぜそうなるかというと、何かから逃げるというのは、本当は見えないところで自分自身がそれを握り締めているからなのです。

苦しみが追ってくるのではなくて、自分が過去から無意識に引っ張ってきてしまうのです。どれだけ上手に逃げ回ったとしても、逃げおおせないのはそういう理由なのです。

それはまるで影のようなものです。自分が気づかずに引きずっている影を立ち止まって見ることです。しっかり見ることができれば、それは怖いものではなかったと悟ります。

そうすれば、私たちは長年従わざるを得なかったプログラミングから少しずつ開放されることになるのです。このプログラミングを別の言葉で言えば、自己防衛ということになります。

自己防衛が緩んで、影を恐れなくなれば、楽を求める必要がなくなり、おのずと苦しみが消えていくということになるのです。

楽を求めるなら満たされない

人間は、本質的には楽をしたい生き物のようですね。と、つい一般論的に言ってしまっていますが、本当は私自身が誰よりも該当者です。

常に、精神的にも肉体的にも楽をしたいと強く望んできた自覚がありますし、今もそしてこれから先もそうありたいと願っています。

そして実はそれでいいんだという思いもあったのです。あったと過去形で表現しているのは、そのことが少し変化してきた感じがあるからです。

楽をするということが、本当に幸せと連動しているのかどうか、そのことを詳細に見ようともしてこなかったということに気づいたのです。

ただ何となくというか、当然のごとく楽であることがイコール幸せである、あるいは幸せに近いのだと信じていたのでしょう。

それは、楽の反対である苦しい状態であれば、それは幸せとは遠いだろうということを感じていただけだったのですね。

本当は、楽というのはそれほどいいものでもないのです。楽をしたいというのは本音なのですが、それは結果として薄っぺらな人生を意味するのです。

楽とは、都合の悪いことから遠ざかろうとすることですので、自己防衛を手放すことはできませんし、自己防衛をあまりしなくてもいられるような状態そのものが、楽だということなのです。

楽であることとは、決して満たされることではありません。人生という物語を本当に深く楽しみたいのであれば、楽を願ってばかりはいられなくなります。

防衛せずにすむ環境を求めるのではなく、どんな状況においてもできるだけ無防備になることによってのみ、物語の深みに浸ることができるのです。

楽をしようとしている自分を監視して、たとえ楽ではないと感じることがあっても、少しずつでも防衛を緩める方向へと舵を取るように心がけることが大切なのだと思うのです。

「私」という思考は必ず自己防衛を生じさせる

思考そのものには、いいも悪いも何もありません。ただし、「私」という思考とリンクする思考なのかどうかによって、その思考はまったく異なるものとなるのです。

「私」という思考とはリンクしない思考であれば、それは動物であっても起きるものです。たとえば、犬が障害物を迂回していくとか、チンパンジーが棒切れを使って餌を取るなどの場合を見れば、明らかです。

動物だって、我々人間と同じように思考するのです。けれども、そこには「私」という思考が入り込む余地がないので、シンプルな思考であるのです。

その思考が自己防衛に使われる場合もあるでしょうが、それは本当に生物としての命を脅かされるような場合がほとんどだと言えると思います。

逆に、我々のような人間であっても、動物のように「私」とは関連しない思考を使う場合もあります。ほとんど自覚なしに運転しているときとか、自分以外の何かに夢中になっている場合などです。

しかし、人間の場合には、多くの思考が、「私」という思考とリンクしています。その場合の思考は、ほとんどが過剰な自己防衛のために使われるのです。

本当のところ、生命の危機的状態ではないにもかかわらず、必死になって思考を使って自己防衛をし続けているのです。

それがあまりにも激しく継続していると、常に頭がグルグルと目まぐるしく動いてしまっているという状態になって、それについては本人も自覚があるはずです。

そうした思考を止めようとしても、なかなか思い通りに止まってはくれないのです。こうなると、もう思考が自分を支配しているようなものです。

瞑想などによって、心を静かに落ち着けることが苦手な人は、こうした傾向が強いうことに気づくべきです。

そのような場合には、日ごろから自分の思考を監視する癖をつけるといいと思います。そうすれば、思考に巻き込まれてしまうことから開放されるようになるはずです。

それは同時に、自己防衛に使っていたエネルギーも落としていけることになるのですから、是非思い出したときには実践してみることをお勧めします。

ダライラマの普遍的立場

ダライラマ14世が今月始めに日本にいらしたようですね。日本各地で講演などを行ったようです。そしてさらに、何と初めて正式に日本の政治家などを訪問されたということです。

残念ながら、今までは外務省が中国に気を使って実現しなかったらしいのですが、ようやくそういう馬鹿馬鹿しい制約から解放されることになりそうです。

そして不思議なことに、ダライラマ法王来日ということがほとんどニュースに取り上げられないのですが、そうした日本のマスコミの怪しさも目立つようになってきましたね。

今回の来日中に、おなじみの櫻井よしこさんと対談している動画を発見しました。一体チベットを弾圧し続けている中国に対して、どんなことを話すのかと、興味を持って観てみました。

ところが、結局最後まで中国を糾弾するような言葉を一言も聴くことができませんでした。それは本当に驚くべきことです。

昨年に引き続き、つい最近もチベットでは中国からの非道とも言える弾圧に対して、焼身自殺をして世界に訴えるという事件が起こっています。

あまりにも理不尽なことが今日も明日も、チベットでは起こり続けているというのに、ダライラマは中国に対して助言するだけなのですね。

彼の普遍的立場は、以下のようなものらしいです。

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チベットへ真の自由をもたらすための運動をすすめてゆくにあたり、あくまで非暴力に徹するという強い信念を法王は堅持している。「中国側がチベット人に加えてきた様々な攻撃やおびただしい弾圧についてもそのような事実を明らかにすることはどうしても必要であるが、中国人そのものに対する憎悪の念を抱くことは決してない」というのが、法王の基本的な考え方である。
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私たちだって、本当の自分の本質に気づき、それへの信頼が深まっていくことで、同じような心持ちになっていくことができるのではないでしょうか。

以下がその動画です、ご参考までに。早めに見ないと消されるかもしれません…。

セラピーの二つの目的

私が考えているセラピーの目的は、大きく二つに分けられます。まず一つ目は、みなさんもよくご存知ですが、心理的な問題による不自由さなどの弊害を少しでも取り除いていくことです。

そして、もう一つは、本当の自分はこの現実という物語の中にいるのではないということに気づいて、それへの信頼を深めていくことです。

これら二つのことは、実はまったく異質なものなのですが、それでもどこかでリンクすることになると思っています。

前者の方は、エゴの癒しとも言うべきもので、人生という物語の中で癒しを進めていくということを意味しています。

確かに、長い間苦しんできたような様々な心や身体の問題が、徐々にではありますが緩和していったり、治ってしまったりすることさえあります。

それに気をよくして、次々と自分の心の奥深くを見つめて、自己改善の道を益々進めて行くことになるはずです。

その過程では、数多くの貴重な気づきを得るという経験をすることになるでしょう。それは本当にすばらしいことです。

けれども、この癒しの道をどこまで続けていったとしても、ゴールは決してやってこないということも確かなことなのです。

それは、長いことそうした癒しを続けてきた人だけが分かることかもしれません。実は、その地点に立った人は、本質的に自分が変わるということは不可能なことなのだと悟るのです。

そして、そのドン詰まり感を根底から救ってくれるのが、後者のセラピーの目的なのです。自分の本質に気づくという体験は、それ以外のどの気づきともまったく異質な体験であるし、それこそが本当の意味での救いなのです。

セラピーのどの段階で、後者の目的へと移行するのかは、クライアントさんご本人にやってくる神の恩寵に委ねられるものなのです。

セラピストができることと言えば、こうした情報をお伝えすることくらいかもしれませんが、個人的には一日も早く恩寵がやってくることを願うばかりです。