「見ること」、「奉仕」、「献身」、「芸術」

覚醒に至る道があるとするなら、それは次の四つの道だとハーディングさんは言っています。

それは、「見ること」、「奉仕」、「献身」、「芸術」、この四つに万進することこそが、覚醒へと誘(いざな)ってくれるということなのです。

これらのそれぞれに共通することは何かと言うと、それは私心を脱するということ、無心になるということです。

さらに付け加えるとすると、私を防衛しないということに尽きるのです。自己防衛というのは、エゴそのものであり、思考はまさにそのために利用されるのです。

「見ること」が、私にとってはもっとも容易なことです。この一年半の間、忘れない限りは、この透明な自己を見ることを続けてきています。

本当は片時も忘れずに、見ることに注意を向けることができれば一番いいのですが、どうしても忘れてしまうこともありますが、それでも淡々と続いています。

「奉仕」は、今のところ私にとっては一番難しいことのようです。これは、明示的に何かのために、誰かのために、自分の時間や労力を使うということです。

「献身」は、もっとも分かりやすい表現を使えば、帰依心のことだと思えばいいのです。全身全霊をその対象に捧げるということです。

最後の「芸術」は、その道を極めるということなのでしょうね。結局、この四つの道はいずれも人物としての自分の存在が希薄になるわけです。

そして、自己を防衛するというところから開放されて、「無」の境地に至ることになるということなのでしょう。

自己防衛の強力なツールである思考をできるだけ緩めること、防衛しないという選択肢に常に気づいて、可能な限りそれを選択するという日々を過ごすこと。

そして、最後にはそんなこともすべてひっくるめて、物語の中でのことなのだと気づいていること。そうして、その物語を思い切り楽しむことですね。

とにかく大丈夫なのです

昨日は、コースの勉強会が午後6時からあったのですが、ちょうどその開始直前くらいの時間に大きな地震がありました。

何か、今まで味わったことのない「ゴン!」というような強い揺れの印象があったのですが、後で調べたら震度3くらいだったようです。

その時、会議室に来ていたみなさんが、一様に冷静で誰も驚きの声一つあげずにいたのには、ちょっと意外な感じがしました。

不肖ながら、男性の私が一番驚いた感じでしたね。昨日は、日本列島全体でみても、かなりの数のそれなりの規模の地震が起きていたようですので、注意が必要ですね。

なんとなく、2012年の12月○○日という、いわゆるマヤ暦の終わりを迎える日が近づいているということと、関連があるとでもいうのでしょうか?

少なからず心配です。とはいうものの、それも結局は現実という名の物語に過ぎないということを思い出すことで、冷静になることができます。

それは、この現実は物語なので、どうなったところで所詮は大丈夫だということです。私たちは、現実という物語の中の登場人物として日々悪戦苦闘しているのです。

そのことにはっきりと気づけば気づくほど、真理への信頼が増えていくようで、だからこそ物語の中身がどうであれ、本質的には全く何の問題も無いという地点に立つことができます。

それは何よりの深いところからの救いです。本当の救いとは、このことに気づくこと以外にはありません。

地震は起きないで欲しいと心から願っていますが、この物語がこれからどのようになるのかは、神のみぞ知るということです。

それなら、心配しながらも思いっきり与えられた物語の中で、それを心行くまで楽しんだらいいのでしょうね。

薄皮饅頭は手ごわい

さまざまなクライアントさんと日々お会いする中で、セラピストとして密かに気にしていることがあります。直接それをクライアントさんに言うことはあまりないのですが…。

それは何かというと、クライアントさんのセラピーに対する本気度です。実は、真面目に向き合うとか、不真面目などということではないのです。

実際、どうでもいいや、という気持ちでいらっしゃるケースというのは、ほとんどないと言ってもいいと思います。

つまり、私が言いたいのは、クライアントさん自身の自覚があるかどうかとは、全く関係ないところでのことなのです。

そして、もっと正確に表現すれば、本気度が高いとか低いといった単純なことではなのです。本当は、どれだけの力でセラピーを拒絶しようとしている影のジャイアンがいるかということなのです。

なんらかの不自由さを抱えて、それを何とかしたいという思いでセッションにいらっしゃるはずなのに、いざ蓋を開けてみるとノラリクラリ。

なぜそうなるかというと、例えが悪いかもしれませんが、薄皮饅頭のようなものなのです。つまり、薄皮の部分が大人の意識であって、饅頭の大部分の体積を占めているアンコの部分は、インナーチャイルドの意識だからなのです。

セラピーを怖がって拒絶している子供のパワーが、自分を癒そうとする大人のパワーの何倍も強力であれば、外側からみれば本気度が低いように見えてしまうのです。

こうしたことは、残念ながらご本人はなかなか自覚することができないものです。いつ、気づいてもらえるのか気になるところですが、それは神のみぞ知るということですね。

無心であることの静寂さを堪能する

男女の差のことでよく言われることですが、女性は何気ない目的などない会話をすることが好きな傾向があるし、逆に男性は目的がはっきりしている議論を好むとのことです。

私は男性なので、ふわっとしたオチのない話しをされると対応に困ってしまう感じを確かに持っています。…で? と突っ込みたくなってしまうのです。

したがって当然のごとく、自分が話しをする場合には、何かを相手に伝えるという目的があるので、議論することは嫌いではありません。

頭のいい人の話しを聞いていると、とても筋が通っていて気持ちがいいのです。反対意見を小気味よく論破してくれると、本当に嬉しくなってしまいます。

だから、テレビなどで狙ったような大激論などが起きると、身を乗り出して観入ってしまうようなこともよくあります。

けれども、その一方では、どんなに優れた議論や論理であろうと、無心の状態にはまったくかなわないということも分かっています。

この感覚は、子供のころからはっきりと持っていましたし、それが「無」ということなのだろうなと、勝手に考えたりしていました。

どんな激しい感情であろうとも、それさえも無心には到底かなわないのです。かなわないというのは、比べるべくもなく無心がすべてを超越しているということです。

それは結局、論理は思考であり、感情もそのほとんどは思考から作り出されるということだからであり、どんな思考も感情も無の状態には到達できないのです。

だからこそ、深くて静かな平安というものが実在するのですね。そしてそれは、だれの心にもあるものですし、それだけがホンモノなのです。

今日も静寂に耳を澄まして、無の世界を堪能することにします。

セレンディピティを高める方法

若いうちから、自分は何をやっていきたいのかということが、かなり明確になっている人もいますが、でも一般的には10代、20代では何をしていきたいのかがあやふやな状態なのだろうと思うのです。

私などは、それがずっと続いているわけで、12年前に会社員を辞めたときも、そして今だに自分が本当にやりたいことなど、まったくわからないというのが本音です。

「これはっ」というものに出会ったとしても、しばらくすると何となく当初の興奮はどこかへ行ってしまい、その思いは自然と尻つぼみになって消えてしまうのです。

自分にはこれしかない、と断言できるような確固としたものを持っている人は幸運かもしれませんね。

私は、年齢を問わず、でも若いうちは特にですが、何でもやってみようとする冒険心がとても大切なのではないかと思っています。

というのも、一体自分は何をしたいんだろうかと考えて、行動する前に事前に情報をキャッチして調査してしまうと、リスクばかりが目立ってしまい、結局あきらめてしまうという結果になりがちなのです。

情報は確かに大事ではあるのですが、それが単なるリスク回避ではなくて、冒険に乗り出すことをあきらめさせるエゴの作戦に使われてしまう恐れがあるのです。

何かの目標に向かって進んでいくときにも、常にそれ以外のあらゆるものとの出会いに気づくアンテナを立てておくことがとても大切なのです。

いつもあらゆる可能性を残しておくということです。それが、セレンディピティを高めておくことに繋がるのですから。

先の予測ができない、危険を伴うからこその冒険であり、そうでなければワクワクすることもできないし、沢山の可能性を封印してしまう結果となってしまいます。

何かを始めるときには、確かに準備も大切なことですが、それよりも大胆に行動して、敏感なアンテナでキャッチし、受容するようにすることです。

あなたの内にある沢山の可能性を引き出すために、何はともあれ動き出すことです。きらめくダイアモンドは、きっとあなたの周囲360度に無数に点在しているはずですから。私自身への戒めも込めて…。

思考は麻薬のような危険性を持っている

夕べ、自分としてはとても珍しいことなのですが、思考が止まらずになかなか寝付けないまま、とうとう一睡もせずに朝を迎えるという経験をしました。

何か考え事をし出すと、寝つきが悪くなるということは、今までにも何度もあったのですが、まったく寝れなくなったというのは、記憶にありません。

心のなかで何が起きたのかというと、どうも思考を止められなくなったのではなくて、止めたくないという意識に覆われたように感じています。

つまり、寝付けなくて困ったなあと切実に感じることがなかったということです。寝れないなら寝れないままに、浮かんでくる思考に巻き込まれようという意志が働いたということです。

それは思考によって、未来をああでもないこうでもないとイメージすることを楽しんでいたのでしょう。確かに最近感じていた閉塞感のようなものを打破するような感覚がありました。

けれども、寝ずに思考し続けた中で得られた結果というものが、どれほど価値のあるものなのかと考えてみると、そこにはほとんどといっていいくらいに意味を見い出すことができないのです。

巷でよく、夜考え付いた名案は、あくる朝になってみると、大したものではなかったということが言われますが、まさにそれでしたね。

そして、それと同時に思考に巻き込まれることを自ら楽しむことを続けてしまうと、気づいたときには思考を止められなくなるということも確かのようです。

明け方5時ごろになったときには、さすがにもう寝ようと思ったのですが、そのときには思考は落ちつきつつあったのですが、それまで発動したアドレナリンの影響で心が沈静化しなくなってしまったのでした。

やはり、いたずらに未来のことについて思考で遊ぶのは、危険が伴うということなのですね。それは、麻薬のような類の性質を持っています。

自分としては、いつでも止められると思っていたものが、いざやめようとしてももう思い通りにはならなくなってしまうということです。

思考で楽しむのは、ほどほどにするほうがいいということですね。

物語を100倍楽しむ方法

私たちは、対人関係の中で様々な役割を同時に担っています。たとえば、娘であると同時に母親であり、またそれと同時に妻であるという具合にです。

家庭の中だけではなくて、社会に出ればそれなりの社会人としての顔もするわけですし、そのようにいくつもの役割、顔を同時に持っているのは当然のことです。

それらの互いに重複する役割、あるいは顔というのは、何も矛盾するものではありません。けれども、それは物語の中での話しです。

より真実に近づけば近づくほど、心の中で互いに矛盾してしまうような感覚を同時に感じるということが起きてきてしまうのです。

個人であると同時に、個人ではないとか、一人の人物であるとも言えるし、また同時に誰でもないということも分かっている。

心を癒す必要があるというのは本当だけれど、本質的には心を癒していってもエゴがいなくなることはないということだとか。

現実から逃げることなく、自律したなにものにも捉われない自由な意志によって、自らの人生を切り開いていくべき、と同時に本質的には私たちには自由意志などないということだとか。

こうしたまったく互いに矛盾するようなことが同時に心のなかに起きてしまうのは、物語の中で活躍する自分と、本質としての自己を同時に感じることがその理由なのです。

そしてもっと言えば、このことを矛盾と感じているのは物語の中の自分であって、本質の自己からすれば、何の矛盾もないとしかいいようがないのです。

こうした不思議な感覚を常に感じ続けていると、今までよりももっと明確にこの世界を物語として見る目が養われていくように思います。

それは、物語を100倍楽しむ唯一の方法といってもいいのかもしれませんね。

人生に宿題などない

小学生の頃くらいから、学校で宿題を出されるようになって、ああ、面倒臭いなあ、宿題なんてなければいいのにと思ったことが誰にでもあるはずです。

けれども、成長するにつれて、小学生の頃の宿題などまだ楽なもんだったと思うようになるかもしれませんね。

というのも、社会人ともなれば、先生から出題される宿題はなくなる反面、それよりももっと過酷な課題というものが、自分の人生にできてきてしまいます。

何日までに、決められた仕事をやり遂げなければならないとか、プレゼンの準備をしなければとか、営業のノルマを達成しなければなど、いくらでも課題はやってきます。

心の癒しにおいても、母親との問題を解決できたら、今度は父親とのわだかまりを解いていこうという具合に、次々と課題がやってきます。

そうやって、癒しの課題、あるいは人生の宿題をクリアしていった先にこそ、本当に期待できる人生が待っていてくれると信じているのです。

ちょうど、ゲームなどで全クリしたら、そのゲームがめでたく終わりになるように、人生の目標を達成するときがやってくると思っているのです。

けれども、そんなときは決してやってくることはありません。宿題をすべてクリアした後に人生という物語が終わるというのではないのです。

当然のことながら、宿題を残したままに死がやってくることになってしまうのです。だからこそ、残してきたことを次の人生で達成しようとして、輪廻を繰り返すわけです。もしも、本当に輪廻というものがあるのだとすればですが…。

もう一度繰り返しになりますが、人生において宿題がなくなるということはありません。まだ遣り残したことがあるという、その思いこそがカルマの正体だといってもいいのです。

そして、宿題があるという思いがある限りは、人生という物語は継続するのです。つまり、物語の中でしか生きることのできないエゴにとっては、宿題が残っていると妄想することで、自分を存続させることができるということなのです。

それは、つまり人生には宿題など元々ないということを意味します。達成しなければならないこと、解決しなければならないことなど、一つもないというのが真実なのです。

いつでも、この物語を中断することは可能なのです。そのことが分かれば、とても楽な気分になれるはずです。

勿論それは、死ぬことではなくて、本当の自分とはその物語を生きている自分ではないということに気づくことによってということです。

私心を脱する

この数日間の政局のあり様といったら、突然の解散そして総選挙へと続くドタバタ劇でも見ているような感じがします。

大方の予想をいい意味で裏切ってくれたおかげで、衆議院選挙が今年中に行われることになったわけです。

今年は、いくつかの主要な国のトップが入れ替わるかつてない特別な年なのですが、日本も滑り込みセーフとなるようです。

そして、はからずも解散となったおかげで、第三極と言われている政党がめまぐるしく動きだしましたね。

80歳になる石原元都知事が、かつて自分が命名した「たちあがれ日本」の平沼議員らと一緒になって、新たな「太陽の党」なるものを結党しました。

ところが、「減税日本」の河村たかし氏との合流を決めたことが、勇み足となって日本維新の会代表の橋下さんから疑問をもたれてしまいます。

すると、石原さんは次の日には、減税日本との合流を勝手に白紙撤回してしまったばかりか、結党したばかりの太陽の党までも維新の会へ吸収させてしまいました。

良心的に見れば、すごい気迫を感じるわけですが、うがった見方をすれば自分勝手だし、自分が総理大臣になりたいという気持ちが見え隠れしてしまいます。

石原さんがかつて自民党を辞めるときに、「いや~総理大臣にはなれんな~、難しいな~」と感慨深げに言っていたのを昨日のことのように思い出します。

ここで、若干影に隠れてしまったようになっていますが、元たちあがれ日本の平沼議員らのことを忘れてはなりません。

黙って、石原さんの言うとおりに維新の会へと吸収されることを承諾したわけですが、そうしたことは私心があっては決してできないことだと思うのです。

私心を脱して、日本国民のため、祖国日本のために全力を尽くすという強い気概を感じることができます。政治家の中にも、そうした気骨のある人たちがいるのですね。

来月予定されている歴史的にも重要な選挙では、未来の日本のために是非価値ある一票を投じたいと思っています。

物事を多面的に見る目を作る方法

私たちは、自分の独自の考え方や捉え方によってのみ、物事を見て判断を下してしまうという傾向を持っていますね。

簡単に言えば、自分の中では確実に白か黒かをはっきり結論づけてしまい、おまけにそれ以外の考え方を受け入れないという傾向があるということです。

幼いころのことを思い出してみればすぐに分かることですが、子供というのは何でも単純化して見るということをしているのです。

それは、弱い立場であるからこそ、結果を明確にすることで自分を守りやすくしようとする作戦であるとも言えるのです。

向こうからやってくるおじさんがいい人なのか、あるいは悪い人なのか、はっきりしなければ対処の仕方が決められないので、困ってしまうわけです。

ニコニコ笑って迎えるのか、目を合わせないようにしてやり過ごすのか、子供はどちらか一方に明確に決めなければならないのです。

いい人なのか悪い人なのかが不明、またはその中間では対応の仕方に困ってしまうからです。つまり、物事を白黒はっきり区別しなければ安心できない心の状態なのです。

それが幼い頃の心理状態なのです。そうした物事の単純化が大人になっても根深く残ってしまうと、物事の見方自体が硬直化してしまうのです。

十分に成熟した大人の心理では、どんなものでも白と黒の間のグレーゾーンにあるということに気づいているのです。

それはつまり、自分の見方とは違う他人の見方があってもおかしくないという、心の広さを作り出すことになるのです。

物事には、その人の主義や生き方などによって、様々な捉え方があって当然なのだということを前提に、自分独自の判断をすることができる余裕ができるといいですね。

そのためには、やはり白黒はっきりつけたがる、心の中に残っている子供の意識、つまりインナーチャイルドを癒すことがなによりも必要なことなのです。