過去から未来へと運ばれる負の遺産を断ち切る

このセラピストという仕事を通して、多くのクライアントさんの心と向き合っていると、私たちがいかに今この瞬間に生きていないかということを思い知らされます。

残念ながら、過去と未来にのみ意識を向け続けて生きているということです。そのことに、私たちは一体どれだけ気づいているのでしょうか?

セッションの中で、なぜこれほどまでに過去のことに焦点を合わせていくかと言えば、忌まわしい過去から逃亡し続けているからです。

あるがままの過去をしっかりと見て、あらゆる過去から一切逃げずにいることができるのなら、過去の苦しみが現在の自分を追ってくることはなくなります。

私たちは、本当は今この瞬間には何の問題も抱えてはいないのです。問題だと認識することは、すべからく過去からのつながりにおいてなのです。

過去の問題を今の自分から切り離していればいるほど、その過去の思いというものが今の自分を責め立てることになるのです。

だからセラピーでは、過去に立ち返るのです。過去には何の意味もないということを知るためにこそ、過去に意識を向ける必要があるのです。

過去のどの物語であろうと、どんな場面だろうが、わけ隔てなく見に行くことができるようにならなければ、必ず未来へと負の遺産が運ばれていくことになるのです。

このことを深く理解することが大切なのです。問題は現在にあるように見えても、それは過去にあったことでしかなく、それを未来へと投影してしまうのです。

私たちは、本当は過去から未来へと連続した時間の中にいるのではありません。すべては、不連続な独立した瞬間から成り立っているのです。

過去を全部心底まで味わうことです。そうやって初めて、なにものをも未来へ投影することがなくなるのです。

そうなれば、安心して今現在を享受することができるようになるのです。これは決して刹那的なその日暮しをただ意味するものではありません。

エネルギーを向ける場所を、ただ本当に実在する今現在へと向けることができるようになるということです。

真理に近づこうとすれば、矛盾を避けられない

思考を使って真理を解き明かすことは不可能なことです。なぜなら、思考は個別性であり、真理は全体性だからです。

真理について思考しようとすれば、必ずそこには矛盾が発生することを知ることになるでしょう。それは、仕方のないことです。

思考による理解には、分析といういわば部分を対象とした作業があるのですが、それをどれだけ積み重ねたとしても、全体性へは到達しません。

さらに、理解にはそれなりの時間と努力を要しますが、全体性という真理は一瞬にして気づくことができます。真理は時間の外側にあるからですし、思考は時間の産物だからです。

思考ができるもっとも価値ある理解、あるいはもっとも高尚な認知とは、こうした思考の限界性に明確に気づくことなのです。

つまり、思考がそれ自体によって自らの限界を認めるということです。これを一度でもはっきりと通過してしまうと、その後のあらゆる議論が物語の中の戯れに過ぎないと分かってしまうのです。

どれほどの理不尽さであれ、どれくらいの不正であろうと、それが精神的にはどんなに耐え難い酷なものであったとしても、それは思考という物語の中での戯れなのです。

そもそも、そういったものを何とか解決しようとすることが、真理とはまったく異なる思考の中でのことでしかなかったということにも気づくことになるのです。

このことは、すばらしく救われることになるはずです。真の救いとは、そういうことなのです。だからといって、何もせずにじっとしていればいいというわけではありません。

思考を使って、熱意を持って何かをしていくことも大切なことだと思います。こうした一見矛盾に感じるようなことも、真理に近づけば近づくほど、避けては通れないことなのですね。

動物のように心を開きたい

昨日ちょっと出かけた先で、野良猫に遭遇したのですが、それがとてもとてもオープンハートな猫さんだったので、書きたくなりました。

自分が子供の頃ならまだしも、ここ数十年は野良猫が近くに寄ってきてくれることなど、ほとんどなくなってしまったことが、残念なことでした。

それが、その猫さんはとても穏やかで静かな佇まい、近寄っていってもそこに黙ってい続けてくれて、身体を触れさせてくれました。

その後、急にその猫さんがすっくと立って歩き出してしまったので、ああ悪いことをしたかなと思っていたら、何とぐるっと私の後ろを回ってきて、横にピタっと身体を付けて来たのです。

そして、私の太ももを両手というか両方の前足でニギニギ、フミフミしてくれたのです。そして、ざらっとした舌で私の手や指を舐めてくれました。

何というか、警戒心がなく、いろいろなことをやってくれたり、こちらを受容してくれる猫は本当に愛しさがこみ上げてきます。

それで思い出したのですが、いつだったかテレビで見たセラピー犬も、似たような感じでした。老人ホームなどに連れて行かれて、そこのみんなの人気者でした。

じ~っとつぶらな瞳で見つめてもらったら、心がとろけてしまいそうな不思議な犬でしたね。具合が悪くなって死ぬ前などは、身体が思うように動かなくなったにもかかわらず、それでも出かけていって人の心を癒そうとする犬でした。

人にじ~っと見つめられたら、恥ずかしいばかりか、何だか違和感を覚えてしまうだろうけれど、あの犬だったら本当に暖かい気持ちにさせてもらえるのだろうと思うのです。

それはきっと、犬には人間である自分を裁く心が微塵もないと分かっているため、自分の否定的な部分を投影せずにすむからなのでしょう。

動物のような純粋な気持ち、それは間違いなく私たちの誰の心の中にもあるはずです。人の心の中にそれを見つけるように心がけると同時に、自分のほうから率先して心を開けるといいですね。

感情を敵対視せずに、それに身を委ねること

大人になった自分が抱えている様々な問題の根源を見ようとしたら、自分史を作ることがとても役に立つはずです。

とくに、幼い頃、3歳くらいから12歳くらいまでの出来事を、思い出す限り文字にするのがいいと思います。

そうやって、思い起こす作業をしながら自己分析を繰り返していくわけです。こうした作業は、慣れてくれば勿論自分ひとりで可能です。

自分がどのような環境で育てられてきたのか、そのときに何を感じどんなことを考えながら生きてきたのかを、見つめなおすのです。

こうした自己分析の作業は、癒しにとってはとても役に立つ、必要なことです。けれども、残念ながら十分条件ではありません。

なぜなら、事実をいくら分析したところで、溜め込んできた感情の塊は残っているからです。分析の途中で、思いもよらず感情が噴出してしまう場合は幸運です。

多くの場合には、ある程度の感情と出会うことはできても、しっかりとその中に入っていくことができずに記憶の上っ面を素通りしてしまう可能性が高いのです。

それは仕方のないことですね。元々、都合の悪い、なかったことにしたい感情を避けることで自分を守ろうとしてきたのですから。

とにもかくにも、あらゆる感情の塊の中深く入っていくことです。そしてありのままに、その感情と一つになるのです。

例えて言えば、寒くて身を縮めていて、身体が小刻みに震えてしまうときに、思い切って体中の力を抜いて寒さに対して無防備になると、感じる寒さの質が変わるのが分かりますが、それと近い感覚です。

それと同時に身体の震えも止まってくれる場合さえあるのです。もしも、経験がなければ実際に試してみてください。すぐにこれかと分かるはずです。

まさにその感覚と似たことを、感情に対してするということです。感情を敵対視することなく、それを何とかしようとする気持ちを脇に置くのです。

そうやって、襲ってくる感情に身を委ねてしまえば、そこには何もなかったんだということに気づくことになるのですから。

自己表現を抑える本当の理由

これまでにも、何度もこのブログでもお伝えしてきたことですが、自己表現を抑える三つの要素があるというお話しです。

それは、「恐怖」と「自己否定(罪悪感)」と「可哀想という思い」です。この三つのそれぞれが単独であることもありますが、どちらかというとそれは稀なことです。

逆に、これらの要素が密接に重なり合っている場合の方が、圧倒的に多いといえます。セラピストの仕事をしていて気づいたのですが、意外なほど多いのが親などに男の子を期待されているのに、女の子として産まれてしまったというケースです。

人間というのは不思議なもので、お母さんのお腹の中にいるときから、そうしたことを察知しているとしか思えない場面に、ヒプノなどのセッション中にしばしば出くわします。

そうなると、ただ産まれただけでその女の子はハンデを背負ってしまうのです。つまり、決定的な存在の無価値感です。

これが、先ほどの要素の一つである自己否定あるいは罪悪感として、心の奥底に深く根を張ってしまうことになるのです。

本人には勿論何の罪もないのですが、大切な家族の期待を裏切ってしまっている自分は、それだけで一人前ではないと感じるのですから、生きることが非常に大変なことになってしまいます。

そんな自分を生んで育てなくてはならない両親に対しての申し訳なさと、同時にそんな両親が可哀想であるとの思いがおきるのです。

これが、また三つの要素のうちの一つに該当するわけです。勿論、両親の可哀想さは自分のせいばかりではなくて、全く自分とは無縁の理由によってもそれを感じてしまうケースはいくらでもあります。

こうしたことが重なってしまえば、もうその子供は自由な自己表現などできなくなってしまうのが道理というものです。

その結果は、ご存知の通りの自己犠牲の繰り返しと、その結果の怒りの蓄積が待っています。そして、往々にして絶望もやってくることになる可能性大です。

こうした傾向は、はっきりとした自覚なしに大人になっても継続することになるのです。そして、なんらかの困った現実がやってきます。

つまり、その生き方を修正しなければやっていけないという、警告としての手厳しい現実です。そうして、セラピーなどに行こうと思うようになるのかもしれません。

けれども、そうした現実がきたら、それは大きなチャンスがやってきたということですし、そこから本当のことに気づいていけば、必ず埋もれていた本当の自分にも出会うことができるはずなのです。

「潔さ」について

「潔(いさぎよ)い」という言葉がありますが、辞書では何て書いてあるのかと思って調べてみました。おおむね以下のように書いてあります。

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1 事物・風景などが清らかである。汚れがない。
2 思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。
3 道に反するところがない。潔白である。
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どこかの国の総理大臣のように、近いうちに解散すると約束しておきながら、国益を損ねると知ってか知らずか、ズルズルと延命のために煮え切らない態度でいることは、まさに潔くないと言えますね。

私が感じている「潔い」とは、物事に執着しない心の状態であろうと思うのです。そして、それは都合の悪いことからも決して目を背けない態度からのみ、起き得ることなのでしょう。

勘違いされやすいのは、「潔さ」と諦めやすさとを混同してしまうことです。何かに失敗したら、すぐにあきらめてしまうとしたら、それは潔さではありません。

失敗したことを素直に認めることが潔さであり、そうした心理状態であれば、かえってあきらめずに再び挑戦しようとするはずなのです。

物事を簡単にはあきらめずに再挑戦することは、決して執着ではありません。執着は自己防衛の一つの形であり、潔さとはある種の無防備さなのです。

この世界は、何という学びの宝庫なのでしょう。どんなに馬鹿馬鹿しいことでも、理不尽きわまりない事柄でも、しっかり見ることさえできれば大切なことを知ることができます。

次期衆院選挙で、一体どの政治家に大切な日本を託したらいいのかと、本当に迷ってしまうこともあるかもしれません。

私だったら、具体的な政策などは別として、その人が自分を守ろうとしない、無防備な匂いのする政治家に一票を投じます。

その人はきっと潔さを持っているからです。このことは、何も政治家に限ったことではなくて、人を見るときの基準にもなると思います。

そして自分自身のことも、そうした基準に照らしてみることを忘れてはいけないと思います。

知覚はご都合主義

反原発とか、反体制とかいうように、反○○という言葉があります。これは、最近はあまり聞かなくなりましたが、アンチ巨人というのと意味としては同じですね。

けれども、私にはそこに若干の違いがあるように感じられるのです。つまり、アンチ巨人の場合は、巨人軍は嫌いという中にも昔であれば、王や長嶋は好きというのが内在していたのです。

アンチ巨人は決して全否定ではないということです。日本を代表するチームだし、なくてはならないチームであるけれども、強過ぎて、あるいは人気がありすぎて嫌いというようなニュアンスがあるのです。

巨人軍は憎い敵チームだけれど、なければないで、それは野球がつまらなくもなるということを十分に知っているのです。

でも、反○○にはそうした愛を全く感じることができません。○○に相当する対象を全否定することが前提のようにさえ感じてしまいます。

日本維新の会の代表となった、橋下さんのことを攻撃する人たちのことを冷静に見ていると、彼らはまさしく「反橋下」であると思うのです。

どうも人格的な面での否定が根底にあり、その上で政策や政治的な手腕その他を全面的に否定しているように見えるのです。

普段知的で冷静な判断ができると思われる人であっても、一度でも「反橋下」になってしまうと、本人には自覚できないままに全否定に向けて突っ走ることになるのです。

それが見ていてとても奇妙な感じすらしますが、これが人間の知覚というものなのでしょうね。それと全く逆のケースでも同じことが言えるのです。

大好きな人の臭いオナラは、確かに臭いのだけれども、そこに反○○のような拒絶感がこないぶんだけ、受容できてしまうということがあるのです。

方向は反○○と真逆ですが、まったく同じ知覚による身勝手な操作がそこにあるのです。どっちにしろ、知覚は都合のいいように操作されてしまうのですから、愛が含まれる知覚ができるといいですね。

低線量被曝について再考する必要あり

最近めっきり行かなくなったのですが、何年か前までは好んでといってもたまにですが、岩盤浴に行っていた時期がありました。

あれは、100℃のサウナのような高温の中でやせ我慢する必要もなく、適度な温度の中で楽にしかもものすごく汗がでるんですよね。

そして、その汗も普段出る汗と成分が違うらしくて、終わったときに石鹸で身体を洗う必要もないので、とても気楽に利用できるのです。

ところで、ひょんなことから湯治場と言われるような温泉の記事を探していたら、以下のような内容のものを発見しました。

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五頭温泉郷の温泉はラドンを含むラジウム温泉(放射能泉)です。温泉中のラドンから放出される微量の放射線を吸収することで、身体の細胞を刺激し、免疫力向上、血流の改善の効果があるといわれています。

このたびの東日本大震災において、大気中に放射線が放出されておりますが、全国の皆様からお問い合わせを戴いておりますので、この場を借りて解説させていただきます。

 市街地とラジウム温泉湧出地での放射線量(/h)

一般市街地での通常の放射線量 0.10~0.15マイクロシーベルト

村杉温泉中心部の放射線量   0.20~0.50マイクロシーベルト

玉川温泉 浴室        0.30~0.50マイクロシーベルト

玉川温泉 岩盤源泉      1~15マイクロシーベルト

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一番最後の行に岩盤源泉での線量が書いてありますが、なんと1~15マイクロシーベルト/h とあります。

これは、私たちが安全基準として使っている年間1ミリシーベルトと比較すると、とんでもない線量になります。

年間に換算すると、たとえば15マイクロシーベルト/h = 約130ミリシーベルト/y にもなります。つまり、安全基準値のなんと130倍の値です。

これって、とんでもない線量じゃないですかあ。難病などを治すために、わざわざ遠くの湯治場へ行って、これほどの放射能を浴びるわけです。

放射能の被曝は、少なければ少ないほどいいというのは、大きな間違いのようですね。低線量の被曝は、健康にいいというのは、どうも本当のようです。

被曝の影響を恐れて、地元に戻れない福島の方々のためにも、もっとしっかりと、調べてみる必要がありそうですね。

傷口の中に飛び込む

幼い頃の私たちというのは、やさしい愛の心を沢山持っています。それは、勿論私たちの本質が愛そのものだからです。

けれども、それは裏を返せば無防備に生きているということにもなるわけで、それだけ心に大きな傷を負うことになってしまうのです。

つまり、私たちはどれだけ明確に覚えていられるかは別として、幼い頃にこそ多大な傷を心に負ってしまっているということです。

いつしか、どのようにしたら自分を防衛することができるか、どうやったらもうこれ以上の傷を負わせられずにいられるのかと、考えて行動するようになるのです。

そうやって、10歳くらいになるまでの間に自分を守る術をかなりしっかりと学ぶようになるのです。つまり、大人になるまでに、いかにしたら傷つかないでいられるかを知り、実践することになるのです。

その結果、傷そのものをなるべく見ずに済まそうとしてしまうようになっていくのです。傷を負ったという事実すら、認めないようにする場合もあるかもしれません。

傷口は、それを放置しておいて自然に癒えることはありません。そのままにしておけば、必ずいつかはなんらかの方法で、自分に知らしめられることになるのです。

そうして初めて、過去の傷口を真正面から見なければならないということに突き当たるのです。自分で気づく人もいれば、セラピーなどで気づかされることもあるでしょう。

そこでやっと大きなチャンスが巡ってくるのです。本当は、いついかなるときにも傷口を見据えることはできるのですが…。

パックリ開いた痛々しい傷口をしっかり見るのです。そのときに、幼子のような無防備な気持ちを思い出すことです。

決して傷口を何とかして癒そうとは思わないことです。ただただ、その傷口に近づいて行き、その中に深く入っていくのです。

それができた人だけが、その傷口の奥には本当に何もなかったんだということを知ることができるのです。それは同時に、自分は誰でもないし、本当はどんな物語もない、ということにさえ気づくことになるのです。

この世界のすべてが不連続

私たちは、時間というものが客観的に存在するかのように錯覚していますが、実際には時間は思考の中で作り上げられたものでしかありません。

思考の中では、あたかも時間が過去から現在を通り抜けて未来へと切れ目なく、流れていくもののように捉えられています。

そのために、過去の記憶をデータベース化して、そこから未来を予想するということを絶えず思考によって続けているのです。

けれども、本当は時間の流れというものはありません。瞑想すれば、そのことはすぐに明らかになります。

連続する時間がないとすると、一体どういうことになるかと言えば、それはすべてが不連続であるということになるのです。

あらゆることが起きているこの現象界において、何一つとして連続的に起きている事象などないということです。

思考による解説を通せば、逆にあらゆるものが連続的に起きつつあるというように見られることになるというだけです。

私たちは、つい便利であるという理由から、過去から未来を類推してしまうのですが、本質的にはすべてが不連続なのです。

そのことを意識すれば、急にこの世界が新鮮さで溢れてくるように感じませんか?一秒後に何が起こるか予想しても、その通りになどならないのです。

常に、今この瞬間に出現している事象だけで成り立っているのが、この世界なのです。明日、この日本で何が起きても不思議ではないということです。

そう考えると、楽しみですね。どんなことも、あきらめる必要などないということです。この世界は不連続だと分かれば、明日途方もないことがあなたの身の上にやってくるかもしれません。