心の熟成は気づかぬうちに進んでいる

心の癒しを進めていくときに、その努力の成果が分かりやすい形となって顕われることは、意外かもしれませんがそれほどは多くありません。

このことは、クライアントさん自身は勿論のこと、セラピストの立場としてもなかなかやるせない思いをしてしまいがちです。

誰だって、成果はできるだけ早く見たいものですから。成果が出れば、それをまた励みにして更なる癒しに万進することもできるわけです。

けれども、実際にはそう思い通りにはいきません。いくら頑張って、言われたことを毎日実行してみても、期待したようには現実は行かないのです。

勿論、私の目の前でみるみるうちに改善されていくクライアントさんもいらっしゃいます。一つの問題を解消していく途中に、それ以外の問題も自然と緩和していくのです。

そういうクライアントさんは、行動に移すことがとても早いのです。とてもまだ無理だろうと思われるようなことでも、やってのけてしまったりします。

しかし、多くの場合にはそうはなりません。人の心の頑固さに私自身もある種嫌気が刺してしまうこともなくはありません。

ところが、実は本当に深いところからの癒しというのは、ご本人にも気づかぬうちに粛々と進められていくのです。

つまり、気づかない状態のまま、心の化学反応とも言える熟成が着実に進んでいっているのです。そして何の理由もなしに、気が付いたら問題が解決していたということになるのです。

あれほど頑固に変化を拒絶していた潜在意識なのに、一体どのようにして変わってしまったのか、まったく理解することができないのです。

そうやって、暗い安置所で樽の中のワインが静かに醸成されていくのと同じようにして、心の熟成が行われていくのです。

ですから、みなさん安心してください。慌てず、焦らず、結果が出なくてもあきらめずにいることです。結果は、忘れた頃に向こうからやってきます。

愛と恐怖のからくり

この世の中には、究極的にはたった二つの考え方(あるいは生き方)しかありません。それは、自分の命を守ろうとするか、あるいは自分の命を与えようとするかです。

前者を恐怖と呼び、後者を愛と呼ぶのです。私たちは、すぐにそのどちらを選択するのかという観点で見てしまいがちです。

けれども、本当は恐怖と愛が互いにせめぎ合っているわけでは決してありません。その二つは、ちょうど雲と青空の例えを使えば簡単に理解できます。

私たちはみな、雲一つない青空が大好きですね。でもいつもそうなるとは限りません。空一面に雲が立ち込めてしまえば、青空は隠されてしまいます。

つまり、青空と雲は対等なのではなくて、常に在る青空を雲が隠してしまうからこそ、青空が見えなくなってしまうということです。

愛と恐怖の関係もこれと同じなのです。愛は常に私たちの本質として在るものであり、恐怖がそれを覆い隠してしまうことがあるということです。

どんなに青空が好きな人でも、雲が雨となって私たちの大切な飲み水を恵んでくれることを思い出せば、雲も大事なものであることは明らかです。

つまり、恐怖がなければ、私たちは自分の肉体を守ることができません。けれども、必要以上の恐怖によって自己防衛するということは、愛を隠され続けることを意味します。

それはまさしく、重くどんよりした一面の雲によって、清々しい青空を覆い隠され続けているようなものだということです。

もしも、自分の心の中に継続する雲(恐怖)があるなら、それを直視することです。そうすれば、それは自分が作り出した不必要な雲であったことに気づかされるはずです。

気づけば自然とその雲はどこかへ流れていって消えてしまいます。実際の空にしても、いつも雲は来ては去っていくのですから、それと心も同じ状態であれば健康なわけです。

いつも澄み切った青空のような状態の心を求める必要はありません。雲は必ず来ますが、また去っていくのですから。

そして愛という青空こそが私たち自身の本質であることに気づけば、雲が張り出してきたとしても全く心配する必要などないことが分かりますね。

理不尽さの先にあるもの その2

この世界には、科学ではとても説明できないような不思議なことが沢山あります。たとえば、四柱推命などに代表されるもの、詳しくないですが、風水、数秘術、あるいは方位学など数えあげたらきりがありません。

そういったものが、単なる迷信などのような類のものであったら、きっとすぐに廃れていたことと思うのです。

なぜそうならないで生きながらえているかといえば、それはかなりの精度で当たるという現実があるからでしょう。

実際に私も相当な確率でそうしたものは物事を言い当てられると信じています。けれども、それは決して100%ではないとも思っています。

だからこそ、個人的にはそれらに頼ろうとはしないという面もあります。でも、実はそうしたものへの愛を感じないからというのが本音なのです。

たとえば、Aという場所に引越ししたいと思っているのに、それは方位が悪いから、仕方なしにBという場所にいかねばならないとして、実際にそのように行動する人がいます。

そのことがいいとか悪いということではありません。その行動が、愛ではなくて自己防衛からきているということに問題があるのです。

自分を守るために、自分が信じている教えに従うということが、いかに自分を苦悩させることになるかに気づかねばなりません。

一方、深く帰依している師匠が右へ行け、といったら何であれ右へ行くというのは、そこに愛があるのです。決して自己防衛のためではありません。

表面的には、どちらも第三者的に見れば、とても理不尽な行動に見えるわけですが、突き動かしている原動力は、恐れと愛の違いがあるということです。

自分を守ることから開放された人だけが、本当の愛の清々しさを体感することができるのでしょう。たとえ、それが他人からどれだけ理不尽なことに見えたとしても。

理不尽さの先にあるもの

自分が物心ついた頃から、ずっと感じていたことがあるのですが、それはなぜこの世界には理不尽なことが沢山あるのだろうということです。

子供の頃は、複雑なことは勿論分からないわけですから、メインとなる理不尽さとは、なぜ人は誰かがいやがることを平気でするのだろうということでした。

あるいは、なぜ自分はやりたいことをやってはいけないと言われるのだろう、というのもあったと思います。

誰もが互いに笑い合って傷つけることなく、共存することがなぜできないのだろうというのも、疑問としてありました。

それも一種の理不尽さであったと思うのです。そして、大人になると、この世界、この社会における理不尽さというものは、無限にやってくるようになります。

理不尽を感じずに生きることなど、一日たりともできないのです。それを感じるたびに、心の中で怒ってみたり、あきらめてみたりと忙しいのです。

それで分かったのですが、人は物語の中に理不尽さがなければ、興味を示さなくなるということです。理不尽さとは、料理で言えば大切なスパイスのようなものなのです。

ワサビは鼻にツーンとくると、痛みを感じるほどになることがあるし、辛子は汗をいっぱいかいて、死ぬほどのどが渇きます。

そういうことを知っていながら、それらのスパイスがなければ、食事は味気ないつまらないものとなってしまうのですから、不思議なものですね。

ということは、もしも理不尽さを感じる瞬間がやってきたなら、人生の大切なスパイスがやってきてくれたんだと思えばいいわけです。

敗戦後の日本人の心が、自虐史観に捕らわれて、命をかけて日本の未来を守ってくれた英霊たちを侮蔑するようになってしまったことなどは、理不尽さの極致かもしれないと思います。

けれども、それも日本がこれから再生していくという、興味深い物語には欠くことのできない理不尽さというスパイスだと見ればいいのですね。

理不尽さとは、単なる思考の産物です。思考の正しさを脇に置いて、その理不尽さの中にただ入っていくのです。そうすると、耐え難い理不尽さも必ずただの出来事になるのです。

明日、自分のところにやってくる理不尽さを恐れずに、そのスパイスの効いた物語を楽しむだけの心のゆとりを持てるようにしたいものですね。

内的世界に生きる人は全体性に目覚めやすい

敏感な体質で生まれてきた赤ちゃんが育っていく間に、大抵は怖がり、痛がり、泣き虫、弱虫などと否定的に揶揄されることになるのです。

けれども、それは理屈からして仕方のないことですね。同じ外部刺激に対する反応が一般レベルよりも過剰なわけですから。

本人としては、努力したところでそれを何とかできるわけでもないですから、なかなか面倒な人生だなと感じることになるのです。

たとえば、猫舌がひどくて友達と一緒のペースでは熱いものを食べることができないとか、天候の変化などに体調が強く影響を受けてしまうとか。

子供のくせに、お母さんが作ってくれた料理の微妙な味の違いを分かってしまったりして、「うるさがた」と言われてしまうのです。

一言で言えば、面倒くさいやつということかもしれません。本人だって、もっと物事に対しておう揚になれたらいいのにと思うのですが、感覚が鋭すぎるのですから仕方ありません。

そして、そういう体質の人は大概は、内的世界に生きるようになるのです。周りの人がみんな外側を見ているときに、一人だけ内側の感覚に意識が向いているわけです。

その場合の視線の矢は、確かに内向きではあるのですが、その矢が刺しているのは人物としての自分の内面なのです。

その場合の欠点はというと、ある種の神経症的な症状を発病する可能性が多くなるということですし、逆に利点は、内省的に生きることができる可能性が高くなるということです。

けれども、もう一つ大きな利点があるのです。それは、内向きの矢が自分という人物を刺す代わりにというか、それを通り越してもっと深奥の自己に刺さるとき、一瞬にして全体性に目覚めることができるのです。

そのとき、人は何者でもない真の自己を見ることができるということです。過敏ゆえに人知れず苦しんだ先に、こうしたプレゼントが待っているのですから、敏感さん、あきらめずに人生を楽しんで下さいね。

最後のご奉公

今日は特別、書きたいと思うことが浮かばなかったので、ただボーっとパソコンの前で静かにしていたら、一つ思いつきました。

今年いっぱいでこの部屋を手放すつもりでいるので、11月と12月の最後の二ヶ月のセッション費用を、一律3,000円にしようと思います。

時間は今まで通り、10時、13時、16時、19時開始でやります。ヒプノやヒーリング、勿論カウンセリングも含めて、どのセッションでも2時間、3,000円でやるつもりです。

先日、石原都知事が突然の辞職を発表しましたが、今後は新党を作って国に対して「最後のご奉公」をするつもりと言ってましたね。

80歳にもなって、国政復帰というのは間違いなく我欲からではないというのを感じ取ることができます。それは、本当にすばらしいことです。

それと比較されたら恥ずかしい限りではありますが、私もこの仕事を辞めるに当たって、不特定多数のみなさんに対して「最後のご奉公」ができたらいいなと思っています。

セッション費用を低額にする弊害というのも、ないわけではないと知っています。いつでも気軽に受けられると思うと、セッションを受けるときのクライアントさんの気持ちが散漫になってしまう可能性があるのです。

逆に高額を支払うのだという意識があると、セッションは貴重な時間だという感覚を持っていただくことができるのです。

それは明らかに、セッションのインパクトというか、効果の違いとなって顕われる可能性も否定できません。

実は今までに、何人かのクライアントさんに対して、無料でセッションをやらせていただいたこともありました。私なりに考えることがあってのことでした。

そういうことも加味した上で、この最後の2ヶ月間は3,000円でやることにしました。みなさん、是非いらして下さいね。お待ちしております。

偏在と遍在について

「へんざい」という言葉は、漢字で書くと「偏在」とも「遍在」とも書けるのです。どちらも同じ意味であれば、それほど問題はないのですが、それが全く逆の意味なのですから、驚いてしまいます。

「偏在」の方の「偏」という字は、「偏(かたよ)る」という意味の字であって、つまり「偏在」とはある場所にかたよって存在するということです。

一方で、「遍在」の方の「遍」という字は、「遍(あまね)く」という意味であり、つまり「遍在」とはあらゆるところに一様に存在するということです。

話し言葉として、まったく同じ「へんざい」という発音をするくせに、両者の意味が互いに反対であるというのは、困ってしまいますね。

何でこんなことを書いているかと言うと、昨日のクライアントさんとのセッションの中で、純粋な意識としての本当の自己は遍在するというお話しをしたのです。

すると、それを聞いたクライアントさんは、きっと「遍在」ではなくて、「偏在」の方を咄嗟にイメージされたのだと思うのです。

だから不思議そうな、理解に苦しむような顔をされたのでした。真の意識がどこかに偏って存在するなどとは、誰も考えないでしょうから。

同じ発音で意味が真逆になる言葉があったのですね。ひょんなことから新たな発見をしてしまいましたが、自分ひとりでは気づかなかったことです。

おかげで、これからは意識は遍在するということをお話しするときに、普遍の「遍」もしくはあまねくの「遍」の意味ですと補足する心の準備ができました。

そして、どんなときにも、やはり真の自己は遍在している、この明らかな全体性の感覚を決して忘れないようにしたいとも思うのです。

肉体があるうちに、本当の自己に気づく

私たちは誰もが、いつか必ずやってくる死を恐れています。それは、肉体の死によって肉体が滅んでしまうのみならず、肉体と自己を同一視してきた思考も存続できなくなるからです。

つまり、肉体とともに体験したすべての記憶によって形作られて来た、人物としての私がいなくなってしまうということですね。

けれども、それをもう少し正確に表現すれば、人物としての私がここにいるという思考を保っていられなくなるということです。実は、単にそれだけのことなのです。

それなら、その思考が消滅した後には一体何が残るのでしょうか?それはとても簡単なことです。初めに肉体を自己と同一視した、その自己が在るのみです。

その自己は、それまで同一化していた肉体を失ってしまうために、それ自体の丸裸な状態にただ戻ることになるのです。

その自己とは、肉体とは何の関係もありません。それなら、この肉体があるうちにも、その自己という実在に自ら気づけばいいということになります。

ところが皮肉なことに、一体全体その自己とは何なのだろうかと考えることができるのは、人物としての私でしかありません。

しかし真の自己は、その人物としての私の影に隠されてしまっているために、見い出すことが難しいという、イタチゴッコのような状態になってしまっているというわけです。

何とも悩ましいというのか、特別な賢者のような人でなければ、その難題を解決することはできないように思えますね。

けれども、それ自体が人物としての私の思考でしかないのです。真理は、思考で測り知ることはできません。

言葉で表現するには無理があるのですが、つまり「このすべて」が本当の自己なのです。何者でもない、あらゆるすべてであり、その中に時空というこの宇宙もあるのです。

それなら、死の恐怖というのも大したものではないということになりますね。実際、死の恐怖ほどおかしなものはありません。

なぜなら、これほど恐れている死であるはずが、その死がやってきた暁には、それを恐れる誰もそこにはいないのですから。ただ真の自己が在り続けるだけなのです。

このことが分かったら、誰だってもっともっと気楽に生きていくことができるようになるはずです。誰もが、本当の本当の自己を信頼できるようになるといいですね。

全体性とは部分の総和ではない

今まで何度も書いたことなのですが、「全体性とは部分の総和ではない」ということをまた書いてみたくなったので、今日はどういう表現になるのか試してみたいと思います。

ジグソーパズルの内の一つのピースをどれだけ眺めていても、それが何を意味するのかは分からないものですね。勿論分からないからこそ、面白いわけです。

勝手に、このピースのこの部分は、恐ろしい猛獣の牙の部分に違いないと思っていても、完成したらそれは天使の美しい姿の一部だったということだってあるわけです。

このように、全体が分かったときに、各部分の在りようというものが変わってしまうということは十分に考えられることなのですね。

ある国の中で、ある一人が極悪非道な犯罪人だとしても、それ以外の人々の心が平和に満ちていたら、そこは平和な国家だということになるはずです。

私たち自身の誰もが個人として生きているのですから、どうしたって全体の中の部分に目が向くのは当然のことかもしれません。

ましてや、個人主義的な生き方をするようになると、視野が狭くなって局所的な見方しかしないようになってしまうのです。

部分というのは、どうしても正不正、善悪のような属性がくっついてしまいがちであり、評価も固定されがちになってしまうのですが、全体ではそうしたものが薄れていくのです。

そして真の全体性とは、無数の物語を包含していながら同時に、すべての善悪が消失してしまう視点であるとも言えるのです。

人物としての私は、どうしても部分に執着してしまうのですが、同時に本質としての自己はあらゆるものであり、それは神の視点でもあるのです。

その一見相容れない二つの視点をいつも同時に感じつつ、生きていけるといいなと思うのです。

マインドを磨いても光にはなれない

私の周りには、真面目な考え方の人たちが沢山いらっしゃいます。少しでも今の自分に比べて、より良い自分になりたいと考えている人たちです。

それを向上心と呼べばいいのかは分かりませんが、自己否定している部分をなくしてもっとましな自分になりたいと常に思っているのです。

精神世界的な言い方を使えば、自分のマインドを磨いて、暗くくすんだ部分を光に変えていこうとするわけです。

けれども、マインドはどこまで行ってもマインドなのです。ニワトリが頑張ったら鷲になれるわけではありません。

マインドの正体とは、疑念であり、あらゆる対象に対して信じるか信じないかのどちらかであるということです。そこには本質的な信頼はあり得ないのです。

マインドを向上させて恐怖から愛へ変遷させようとすることこそが、マインドそのものの罠であることに気づかなければなりません。

マインドを磨いた先に、光り輝く愛に満ちたマインドになるということが待っているわけではないということです。

真実を垣間見る経験をしたことのある人であれば分かるはずですが、それは突然やってくるものであり、その体験をしている自分は今までの自分ではないのです。

それは明らかに不連続な体験なのです。努力した結果であったり、修行をした成果としてそれがやってくるのではないことは明らかです。

マインドが愛で満ちることはないのですが、さりとてマインドを否定する必要もありません。それはどこまでいってもそれであり、それとは別次元として真実はいつもここにあるのですから。