この世は神の創造物

みなさんは、アナログとディジタルの違いをご存知でしょうか?私が子供のころには、どちらの言葉もほとんど使われることがありませんでした。

それは、ディジタル技術がまだ確立していなかったためです。そして、世の中にアナログしかなかったので、敢えてアナログという言葉も用いる必要がなかったのですね。

だから、昔ながらのフィルムを使うカメラのことを、わざわざアナログカメラとは呼ばなかったわけです。今では、ディジタルカメラが全盛になっています。

最近では、デジカメなどと呼ばれますが、デジカメの便利なところは、フィルムを購入したり、撮影済みのフィルムを現像に出したりする必要がないというところです。

フィルム代や現像代を気にせずに、いつでもどこでもシャッターを押すことができますし、撮影した画像をその場で見ることもできます。

こんなすぐれもののデジカメでも、出だしたころには爆発的に売れたわけではありません。なぜなら、解像度の問題という致命傷があったからです。

今はケータイや ipad などにもデジカメ機能が付いていますが、解像度がどれくらいかというのを、誰もが気にするのは、解像度が高ければそれだけきれいな画像が得られるからですね。

デジカメに限らず、ディジタル技術というのは、粒子の集まりからできているものですから、その粒子が細かいほど、本物つまりアナログに近いということです。

技術の進歩とともに、解像度が益々高くなってきていて、アナログとの違いが肉眼では分かりづらいところまでやってきています。

つまり、偽者のディジタルが本物のアナログに肉薄してきているということです。しかし、それがどれほど本物に近づいたとしても、偽者は決して本物になることはできないですね。

ではその本物である現実の世界とは、本当にアナログでできているのでしょうか?いえいえ、実はそうではありません。

この現実世界こそ、素粒子というディジタル技術でできていることを、科学者でなくても誰でも知っているでしょう。

人類が発明したディジタル技術とは違うものの、この宇宙も素粒子というディジタルでできているというのは、不思議なことです。

それはきっと、この宇宙が神の創造物だからではないかと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

自己の探求が物語を照らし出す

ガンガジのすばらしい言葉です。

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自己探求というのは、私とは誰か?という固定した質問のことを指すのではありません。自己探求とは存在の仕方であり、生き方です。

それは、いついかなるときにも、立ち止まって、自分に『何が起きているのか? 自分は何を考えているのか? 自分は何を信じているのか? それは現実か? それは真実か?』と問う意欲のことです。

こうした率直な自己探求によって、それがどんな物語であれ、物語はどれも、思考によってのみ構成されているということに気づくことができます。

その思考がどんなに強力なものでも、またその物語が比較的本当のことのように思われたとしても、所詮それは思考によって構成されたものにすぎません。

そうした思考より深いところに、思考が存在する前、思考が通り過ぎた後、またその思考が起きている最中でさえも見事に、あなたという存在の真実の姿がそこにあります。
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正直な自己探求は、あなたが『誰それ』であるという基本的な前提に問いを投げかけます。この大前提を疑う人は滅多にいません。

なぜならたいていその後に、『私には何が必要か、私は何が欲しいか、私は何を持っているか、私は何を持っていないか、私は何を持っているべきか』などの物語が続くからです。

こうした物語によってあなたは、あなたの真実の姿の広大さとは区別されたある人物として認識されます。あなたはある特定の形、生と死に支配される肉体として認識されるのです。

この認識はつまり意識的な個性化です。個性化は悪いことでも間違いでもありません。人間の進化・発達において、それは自然なことであり、人間の神秘の一つです。
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個人的認識が自己実現の妨げになる、と思い込んだ精神的探求者のほとんどは、自分の物語を排除しようとします。でもこれは、物語の別の一部にすぎません。

このことに気づくことは非常に重要です。物語を排除しようと試みるのはその物語の別の一面にすぎず、マインドによる支配力の一例です。
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精神性を追求している人たちの間で、自分の物語を本当に検証する代わりに、物語を抑え込もうとする傾向があるのを私はしばしば目にしています。

そうやって抑え込むと、物語は一見削除されたかのように見えますが、その後に平安はやってきません。

一方であなた自身の物語を押し殺しておきながら同時に自分の中の美、超越を味わうことなどできないのです。

物語はいまだに続いていながら、魂の探究者である、と自己認識しているあなたは、それを意識の外に追いやってしまうのです。

世俗的な条件付けが、精神的な条件付けに取って代わられただけの話です。物語はまだ生きていますが、今度はそれは無意識下に作用しているのです。

そしてあなたは、自分がまだ苦しんでいることに困惑します。苦しみが続いているということは、いまだにあなたの物語が語られているという証です。

その苦しみに、悪いことであるというレッテルを貼らない意思があなたにあれば、あなたには、物語をただありのままに見つめる意思を持つことができるはずです。

興味をもって、歴史を学ぶ

私たちの思考というのは、ただ起きていることに意味づけをして、それを時系列で見るという特性を持っています。

そうして、ただ現象化していることを物語として認識するということを、ずっと続けているのです。物語の一番身近なものとは、自分の人生ですね。

そして、もう少し視野を広げると、自分の家系の物語というのもあるでしょう。もっと大きく観れば、国家の物語、それは通常は歴史と呼びます。

更に、人類の歴史、地球、宇宙の歴史というように広げていくことができます。つまり、歴史とは過去から現在までの物語のことです。

学生時代には、ほとんど日本史や世界史には興味がなくて、試験の前日に一夜漬けで勉強したことしかなくて、恥ずかしながら知識は幼稚園児なみです。

飛びぬけた個人主義というのでしょうか、自分の中で国家感というものが非常に乏しいという自覚があります。

物語に興味がないのではなくて、単に視野が狭いということなのでしょうね。それが、最近少しずつ日本という国の歴史(物語)にも興味がもてるようになってきました。

「私」というのが思考そのものであり、その思考があらゆる現象を物語として解説しているだけなのだということがはっきりしたことで、かえって自分の人生レベルの物語よりも大きな物語にも目が向けられるようになってきたということなのでしょうか。

あるいは、年齢を重ねると共に、自分の人生という物語にはさほど興味を持てなくなってきたということでもあるのかもしれません。

いずれにしても、人生の残った時間で、今まで目を向けてこなかった国家や世界の歴史(物語)について、楽しみながら見聞を深めていきたいと思うのです。

帰依心について

最近は、テレビ番組をテレビ自体で観るということがほとんどなくなってしまいました。代わりに、ipad で誰かがアップしてくれたものを、自分のタイミングに合わせて観ていま
す。

これがとても便利なのです。自分はとにかく録画も何もせずに、ネット上にアップされているものを検索しては、高解像度で観ることができるのですから。

そのやり方で、さっき久しぶりに「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに珍しく北野たけしが出ているのを見かけました。

最後の部分で、次に出演する人と電話で繋ぐ場面で、たけし軍団のうちの一人が電話に出たのですが、二人のやりとりを聞いていて、本当に師匠と弟子の強い絆を感じたのです。

私自身は北野たけしの事を特別何とも思っていないのですが、もしも自分が軍団の一人として、彼を「殿」として慕う立場になったらどうなのだろうと想像してみたのです。

弟子としては、かなり過酷な無理難題なことまでさせられたりするのでしょうけれど、それはそれとして、心がとても安らかになるような感じがしました。

つまり、師匠に対する絶対的な献身の心を持って生きるとき、人は本当に安らかでいられるのではないかと思うのです。

絶対的な存在である神や、完全に信頼することのできる師匠などに帰依する人が数多くいるのは、そうした心の安定を得られるからなのだと思います。

かつての武士は、おのれの親方様のためなら命をかけることができたのでしょう。それがいわゆる武士道の真髄なのですが、それは純粋な帰依心であるとも言えるのです。

私には、心の底から信頼することのできる師匠(グル)がいませんし、これからもそうした人が顕われるとは思えません。

そのことがとても残念で仕方なかったのですが、でも今これを書いていて思ったのですが、目には見えなくても、全体性を感じさせてくれる本質的な自己に帰依すればいいだけだと。

ふとそんな思いが浮かんできました。言葉を変えれば、それが聖霊ということになるんでしょうか?少しじっくりとそのことを見つめてみようと思います。

個別性とは思考であり、全体性とは注意である

このブログでも、もう何度も繰り返し書いていることですが、私たちの正体とは思考です。思考が、「私はここにいる」と解説しているのです。

それを自覚できるのだから、私とは自律的な存在であるということになるのです。自律的な存在とは、個別性のことです。

つまり、思考は全体性を真に認識することができません。思考の全体性に対する認識とは、個の集合としての全体という概念に限定されています。

けれども、真の全体性とは個別性の寄せ集めではありません。唯一であるもの、「不二」であるものを分離も分解もすることはできないのですから。

これは言葉でとりあえず表現することはできるとしても、本当のところ個別性である思考の限界を超えたものです。

個別性がどれほど改善され、どんなに進化したところで全体性に到達することはできません。一方は真実であり、もう一方は真実の影のようなものだからです。

私たちは、どれほど頑張ったところで思考から逃れることはできません。なぜなら、繰り返しになりますが、私たちが思考だからです。

私が私をやめることなどできないのですから。それは不可能なことです。けれども、その思考を静かにさせるとき、初めにその不可能だとの解説も思考であると分かります。

その不可能さを放っておいて、私という思考の根元をどこまでも見ようとしているうちに、それが見つけられないものだというのがやってきます。

個別性は見つめることで、消えてしまうだけでなく、突然それは全体性としての姿を顕わすようになるのです。

全体性とは気づきであり、注意です。何かに気づくのでも、何かに注意するのでもなく、気づきそのものであり、注意そのものであるということです。

それこそが、思考という個別性の源としての本当の私たちの姿なのですね。それは、至福というよりも静寂であり、不二である全体性なのです。

自己防衛をやめるという選択肢

何かを選択するためには、当然のことながら選択肢があるということに気づいていなければなりません。一本道では、横道にそれることもできないわけですから。

自己防衛をやめようとする前には、自分がせっせと自己防衛をしているということに気づかなければなりません。

さまざまな手段を駆使して、自分を防衛しようとしていることに気がついて、初めて自己防衛をやめるという選択肢があると分かるのです。

この当たり前のことを、私たちは意外と見過ごしていることが多いのです。それは勿論、元々ないと思い込んでいるものを探そうとはしないからですね。

そのために、エゴが繰り出すさまざまな自己防衛のための戦略について、あらかじめ知識として知っておくということは、それなりに大切なことです。

最初は知識として、そして実践の場ではそれを見抜く練習を重ねていくことで、リアルタイムで自己防衛しようとしていることに、気づくことが可能になります。

さてそこからが、いよいよ自己防衛をやめるという選択肢に注意を向けるスタートです。ただ選択肢を見ているだけではなくて、それを選択した場合にどのようなことが想定されるかを明確にイメージするのです。

そこには、明らかに恐怖が横たわっていることを見つけられます。その恐怖があるからこその自己防衛だったわけですから。

その恐怖を見つけることができたということは、間違いなく自己防衛をしないという選択肢の方向に向かおうとしていることを示しています。

ここまできたら、今度はその恐怖を真正面からしっかり見据えて、それを対象としてというよりは、それと一つになるように身を投げ出すのです。

こうして自己防衛へと自分を駆り立てるエネルギーを小さくしていくことができます。今まで防衛に費やしてきたエネルギーをあまり使わなくなると、傷つきにくくなるのです。

そして自分は元々安全だったのだということにも気づけるようになっていきます。なぜなら、今まで敵対視していた相手が徐々に減っていくからです。

あなたはご自身の防衛方法に気づいていますか?そのことにいつも注意を向けて、自分を見張っておくことが大切ですね。

終わりは始まりの第一歩

「終止符を打つことがはじまりであり、そのはじまりが第一歩であり、そしてその第一歩が唯一のステップなのである。」

というすばらしい言葉があります。「継続は力なり」という言葉もありますが、始めたことはいつか終わるということも真実ですね。

昨日は、第45回目の奇跡のコースの勉強会でした。残念ながら、参加はたったの6名と少なかったのですが、それでもいい時間を皆さんとご一緒に過ごせたと思っています。

この勉強会、今年いっぱいでひとまず終わりにしようと思っています。つまり、後3回で終わりを迎えることになりますね。

丸々4年間、一度も休まずに毎月一回のペースでよくも続いてきたものだと思います。始めたころは、本当に一心不乱にテキストを読み、毎日ワークを実践していました。

それが最近では、勉強会の直前に予定されているところを予習する程度になってしまい、自分の中でもうこれ以上続けても単なる惰性になった感じがしていたのです。

それで、今年いっぱいで終止符を打つことにしたのです。自分の中で一つの区切りを迎えることは、それなりに清々しい感じがします。

勿論、気が向いたときには、コースを読むことだってあるでしょうし、もしかしたら再度ワークをやり始める可能性だってあります。

コースによって今までに学んだことは、途方もなく貴重な財産になっています。そのことは、今後も変わらないでしょうね。

でも、もうそろそろ一旦はけじめをつけようと思うのです。あと、もう数回だけやりますが、残り少ない貴重な体験を、惜しみながらも別れを告げようと思うのです。

それが、新しい第一歩のはじまりだからです。そして、自己探求の日々は、今のところまだまだ続いていくのだろうと感じています。

宗教的な自分

自分が両親のDNAを半分ずつ受け継いでいることは間違いないのですが、最近自分と両親を比べて、あまりにも違いがあることに改めて驚いています。

確かに、肉体的な特徴だけでなく、気質の傾向なども似通っているところは沢山あるのです。父の根っこはのん気であり、母は心配性という互いに真反対の性質なのです。

私はそのどちらの要素も十分に併せ持っているという自覚がありますが、最近はのん気な面の方が大勢を占めているようです。

けれども、両親との違いを宗教的な観点で見てみると、まず父親は無神論者であり、母親はかつて日蓮宗の人を自宅に招いて、お経を上げていたことがありました。

私はそのどちらでもなく、現在知られている特定のどの宗教にも興味はなく、さりとて無神論者でもないのです。

最近では、自分のことを宗教的な人間であると、しっかりと自覚するようになっています。そのことが、両親との大きな違いであり、そのことが不思議な感じがしているのです。

先日、両親と何気ない話しをしているときに、私の宇宙観というか、本当の自己について少しだけ話しをしたのです。

自分の外側には何もないし、さりとて内側にもない。自分という人物がいると感じるのは、思考であって真実ではない等々…。

いつもはあまり聞こうとしない両親が、そのときにはそれほど抵抗するでもなく聞き耳を立てているようでした。

そして、なぜ自分たちの息子がそういうことに意識が向いているのかに、さかんに不思議がっていたのです。

宗教的な自分がそうでない両親より優れているとか、劣っているという思いはありませんが、この突然変異のような自分の志向が一体どこからやってきたのかは、本当に不思議なことです。

しかし、そういう自分として今があることには、本当に感謝しているし、幸運だなと心から思うようになりました。

私にとって、親との関係性においてとてもありがたいと感じていることは、自分がどんな考え方を持っても、決してそれを否定されることがなかったということです。

だからこそ、生まれながらにもっていた宗教的な探究心を、邪魔されずにそのまま育てていくことができたのだろうと思っています。

神を信じる必要はない

by osho

あなたは、神を信じていないかもしれない。
神を信じる必要はない。
信じる人は、宗教的な人ではあり得ない。

しかし、あなたの本質が完全に裸になったら、
あなたが全ての衣服を脱いだら、
あなたに与えられたものを全て落としたら、
学んだものから自分を切り離したら、
学んだもの全てから、教え込まれたものから、培ったものから、
自分を切り離したら、
突然あなたは、手つかずの明晰さ、生まれる前にあった明晰さの内にある。

あなたの本来の顔がそこにある。

それは、早朝の朝露のように新鮮で、夜の星のように輝いている。
それは、花々や木々が持つ壮大さを全てもっており、
子供達や動物達や鳥たちが持つ無邪気さと無垢さを全て持っている。
その瞬間に、あなたはとても大きな喜びを感じる。
あなたはその喜びから、深く頭を垂れる。
覚えておきなさい。それは、神へではない。
神を信じる必要はない。

あなたは、単純に感謝から深く頭を垂れる。
あなたが頭を垂れることには、対象はない。
あなたは、単純に頭を垂れる、というのは・・・
何の理由もないのにあなたに降り注ぐ計り知れない歓喜を見て、
あなたは頭を垂れる。
しかも、あなたにその価値がないというのに、
それに値しないというのに、
あなたは、それを自分で稼ぎ取ったわけではなかったのに!

あなたは、存在への心からの感謝をしないでいることなどできないだろう。
あなたの頭は、深いお辞儀をする。
あなたは、自分を明け渡す。
あなたのハートは震え、至福に脈打ちながら、
あなたは、完全な沈黙のうちに、地面にひれ伏す。

あなたの呼吸は、そのために違うリズムを打ち、
そのために、違うメロディを奏でる。
あなたの全エネルギーがダンスし、流れている。
あなたは、存在との調和に落ちている。

これが、私が祈りと呼ぶものだ。
教会や寺院の中で行われているものは祈りではない。
それは、オウムのような物まねで、形だけのものだ。
それは、本当の祈りと何の関係もない。

そして、この祈りは、癒すことができる。
この祈りが本当のセラピーだ。

不満の原因を探る

もしも私たちが、うるさい思考を脇に追いやり、あるがままをできるだけそのままに受け入れることができるなら、不満という罠に陥らずに済むのです。

けれども、成長とともに、自分のことは自分で守らねばならないという自我の主張に飲み込まれるようになると、自我はひっきりなしに思考を使うようになるのです。

つまり、私たちは思考によって自分を防衛する作戦を編み出しては、それを実行するようになるのです。それが、不満を生み出すということです。

人間以外の動物は、単に生存本能による自己防衛をするだけなので、危機が去るとすぐに起きていることに順応することができます。

しかし、私たち人間は思考による過度の自己防衛に明け暮れているために、過去に防衛したがために生じた不満を現在にまで引きずってしまうのです。

思考とは過去なのです。多くの場合、過去の不満は心の奥深くに抑圧されて、本人には直接自覚することができなくなっています。

それは当然のごとく、形を変えて現在に影響を与えることになるのです。それは新たなる不満のネタがやってきて、本人を苦悩の渦の中に落としこみます。

そして、それと同時になんらかの依存症のような症状がやってくることがあります。勿論、それは不満を解消しようとする、抵抗することができない半強制的な言動となるのです。

多くの依存症、そして怒りがやまない不満の数々、こうしたことを人生から除去したいと誰もが思っているのですが、そのためには二つしか方法はありません。

一つは、冒頭に書いたように、過去から派生した思考をおとなしくする生き方を練習することです。これには、瞑想が役に立つかもしれません。

そしてもう一つは、抑圧されてしまっている過去の不満や怒りを、正面から見据えることです。人生の初期のころの不満をしっかり受け入れることができれば、それから派生した別の不満も、それを解消するための依存症も、ともに不要になっていくはずです。