賢者はエゴから遠ざかろうとしない

誰であれ、その人の注意が人物としての自分に向くとき、人は苦悩を抱えることになります。

このとき気をつけなければいけないのは、表面的には意識が内側に向いていようが外側に向いていていようが同じだということです。

勿論内省しない人よりも、する人のほうが反省することができるので、それだけ思慮深くなるということは言えると思います。

けれども、どちらにしても心の奥底では、関心を寄せている対象が自分と言う人物であるなら、必ず苦悩することになるということです。

なぜなら、そのときには自動的に自己防衛のメカニズムが活性化してしまうからです。人物としての自分を何とかして守るということが、人生の目的となるからです。

思い通りに自己防衛できればいいですが、必ずしもそうはいきませんし、仮にそれができたとしても自己犠牲という非常に苦しい対価を支払うはめになってしまうのです。

一方で、その人の注意が人物としての自分を通り過ぎて、深い内奥に向かうなら、そのときは全体性の意識としての自己と繋がるのです。

そのような意識とは、一見すると下世話な現実世界から隔絶された意識であるかのように捉えがちですが、実はそうではありません。

真に目覚めた賢者などが、ヒマラヤの山奥でひっそりと暮らす代わりに、一般民衆の力となるために人々との関わりを持つことを見れば明らかです。

彼らは、エゴから遠ざかろうとするのではなく、かえって近づこうとさえするのです。それはエゴを恐れることがないからだし、自然と慈悲の心が働くからなのだと思います。

ということは、修行によって目覚めた意識を持とうなどと思わずとも、他人のため、何かのために生きることができれば、賢者と同じ全体性の意識となるのです。

死と隣り合わせの物語

私たちは、本当に物語が大好きなのです。それが喜劇であろうと、悲劇であろうと、あるいはどんな感動物語であれです。

実際、物語に引き込まれてしまうという経験をしたことがないという人は一人としていないはずです。

自分の人生という物語では足りずに、自分以外の人たちの人生物語にも非常に興味を持ってみてしまうのです。

仮にそれが架空のものであってでもです。映画やテレビのドラマがなくならないのは、そういうことなのでしょうね。

またあらゆる種類の本についても同様です。それが歴史ものであれ、漫画であれ、とにかく人の人生が物語りを紡いでいくのを見て知って、それを疑似体験したいのです。

百歩譲って、たとえ人物が登場しなくても、たとえば地球の歴史や、宇宙の生い立ちなどについても同様にして興味津々な人も多いはずです。

私自身、セラピストの仕事をするようになって、本当に多くのクライアントさんの人生物語をご一緒に体験させていただくことができました。

それは六千回を越える回数のセッションを通して、さまざまな人生物語の深くに織り込まれた、クライアントさんの心の在りようを再体験するという経験です。

けれども、そうした物語のほとんどは自己防衛が中心テーマなのでした。そして、そうした物語をいくら生きても救いはないということも判明してしまいました。

これから先、願わくば自己防衛から開放された物語、しかも作り物ではない現実の物語に、自分が深く関わっていくことができたらいいなと思っています。

そのためには、きっと自分自身の物語を、死と隣り合わせの人生にシフトしていくことが必要なのだろうと思うのです。

死と隣り合わせで生きる

年齢を重ねていくに連れて、人生がいつまでも続くわけではないということが、かなり身近なこととして感じられるようになってきました。

若い頃は、自分もいつかは死ぬのだと頭では分かっていたものの、何となく遠い未来のこととして捉えることしかできなかったのでしょうね。当然だと思います。

特に、私の場合、幸か不幸か身近な人たちの死というものに直面することがなかったという事情もあるのかもしれませんが。

両親ともに元気ではあるのですが、高齢になってきたということもあって、家族の死というものを真っ直ぐに見る必要も迫ってきたという感じです。

またこの数年、自己探求を続けてきたことも自分の死を直視することを加速させる大きな要因になったのではないかと思っています。

というのも、何者でもない真の自己を見るにつけ、そこには生死というものが存在しないということが分かれば分かるほど、人物としての自分の生死が際立ってきたからです。

そして、死のない本当の自分が、人生という物語の中の一つの死を特別なものとしては見ないという意識が強くなってきたのです。

そうなると、今度は生きることと同程度に死ぬこと、あるいは死に至る多くの物語に対しても、同じように興味を持って見ることができるようになってきたのです。

日本の敗戦間近の神風特別攻撃隊、いわゆる特攻隊の物語を読むにつけ、人の命というものが光り輝いて見えてきます。

自分の若い頃は、特攻隊のような死に方を単に理不尽な出来事として切り捨てていました。けれども、若い彼らがこれから死にに行く直前に撮影した写真を見ると、誰もが何とも晴々とした笑顔で写っているのです。

人は誰でも、何かに自分の命を与えることができるなら、自己防衛によって存続してきたエゴが力を失ってしまうために、心が光り輝く状態になれるのです。

それこそが、死と隣り合わせで生きるということです。戦争という特別な状況下で起きたことではありますが、本質的には誰もが自己防衛をやめ、死を直視することで清々しい静寂の中に入っていけるのですね。

興味をもって、歴史を学ぶ その2

子供の頃、父親と戦争の話しをしていたときに、もしも第三次世界大戦が起きて、戦争に借り出されることがあったとしても、自分は「たとえ投獄されても兵士になることを拒絶する。」と言ったことを覚えています。

自分が受けた教育のせいなのか、あるいは他の何かの要因があったのかは分かりませんが、とにかく戦争を忌み嫌うだけでなく、国のために自分の命をかけて相手国の兵士を殺すのを断固拒否するという気持ちだったのです。

そうした感覚というのは、今にいたるまでずっと継続して持っているものです。自分には、国家というものに対する特別な思いが希薄なのです。

けれども、現実をよくよく見てみれば、今のところ国家の存続がなければ自分の家族や親しい人たちの安全もありません。

誰だって争いごとは好きではないですが、それでも大切な人の命が危ないと分かれば、身を挺してでもその人を守ろうとするはずです。

戦争はいやだというのは簡単ですが、自分の家族が他国に拉致されて連れて行かれたとしたら、それを黙って許すわけにはいかないのは当然です。

ほんの少しだけでも、日本の戦前の歴史を紐解くだけで、日本が他国の侵略を目的で戦争したことは一度もなかったということが分かります。

その逆です。白人からは人間扱いされていない黄色人種の代表として、アジア諸国を欧米の魔の手から守ろうとしたのです。

つまり日本の戦争の歴史とは、その頃世界の常識であった白人の植民地計画に対する断固とした抵抗だったということです。

どんな目的であれ、人が人を殺すことを正当化するものではありませんが、誰かを守るためには戦う必要があるというのが、今の人類のレベルなのです。

そのことから目を背けて、ただ戦争反対を唱えていた自分の考えの浅さにようやく気づくことが少しだけできたようです。

あなたは、最初の最初から光明を得ている その4

昨日のつづきです

by osho

お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、光明を探し求めることは、道理に合っていない。もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。

だから、宗教的な人々はとても深刻に見えるのだ。宗教的な人々は、誰かが深刻でない限り、彼を宗教的だとは見なさない。深刻さが、宗教的であることとほとんど同意語になってしまった。

悲しく、憂鬱な顔をしていることが宗教的だ。あなたは、聖者が笑っているのを見ることがあるかね?だから、いわゆるインド人の聖者が私に反対する理由だ。

彼らは、光明を得た人がジョークを言えるとは信じられない。彼らには信じられないのだ!
私自身の経験によれば、光明を得た人だけがジョークを言える。

他にどうしようがあるかね?彼は、全てのジョークの中で最大のジョークを見てしまった。彼は、光明を探し求めることの馬鹿馬鹿しさの全容を見てしまった。

人は、探し求めることなしに光明を見いだすが、それは、ある日とても失望する地点がきて、全ての努力を落とすことによってだ。人は正にそのような瞬間に、このことに気が付く。

探し求めることを止めたとき、野望が消えたとき、あなたは自分の在りようとともに取り残される。どこにも行く場所がなく、あなたは内側に居る。内側の旅は、本当は旅ではない。

全ての旅が消えたとき、行くところがどこもなく、行くことへの興味もなく、全ての方向を探したのに、全て失敗してしまった、そのとき ・・・。

どうしようもない失望のうちに、あなたはただ止まる。あなたは、挫折する。しかし、正にその挫折が、変容の瞬間なのだ。どこにもいくところがないので、あなたは内側にいる。

何も探し求めず、探求者だけが残っている。何も捕まえる努力なしに、あなたはふいにその捕まえる人に気付く。どんな対象物にも興味がなかったら、お金にも光明にも神にも興味がなかったら。

主体だけがそこにある。あなたは、我が家に戻ってきた。そうしたら、大笑いがある。何故なら、あなたはいつだってそこにいたからだ。

あなたは、最初の最初から光明を得ている その3

昨日のつづきです。

by osho

だからあなたは、あれやこれやのものを達成しようと突っ走ることになる。これらのものがあなたから取り上げられるだろうという考えが、だんだんとあなたに起こり始める。

死がやってきて、全てを奪い去る。あなたは、ショックを受け、恐怖がわき起こる。恐怖から、あなたは自分から取り去られない何かを探そうと考え始める。

神や真実や光明やニルヴァーナを、どんな名前で呼んでもいいが・・・。今度はあなたは、ニルヴァーナや光明や神やサマーディを、お金や権力や名声を探したのと同じやり方で探し始める。

何故ならあなたは、ある道理を学んだからだ。あなたは、あるプログラムを学んだからだ。今では、そのプログラムはこう言う。「お金は、探し求めることがなければ得られなかった。

だから、探し求めることがなかったら、どうやって光明を得ることができるだろうか?だから、探そう。探し求めよう。戦おう。奮闘しようと。ここに物事の核心がある。

そうやってあなたは、馬鹿げたことをやり始める。お金が欲しければ、探し求めなければならなかったが、光明は既にそこにある。あなたは、それを携えてやってきた。

それは、あなたの本来の顔だ。それは、あなたの空(くう)であり、あなたの意識であり、あなたの在りようだ。あなたが死ぬとき、光明以外の全てが、あなたの意識以外の全てが死ぬ。

誰もそれを、あなたから奪うことはできない。だが、あなたが世の中で学んだ道理は、あなたを狂気に駆り立てる。

お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、光明を探し求めることは、道理に合っていない。もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。

つづく

あなたは、最初の最初から光明を得ている その2

昨日のつづきです

by osho

最初の最初から、誰も光明を得ていない人はいない。だったら、人々に何が起こったのか?何故彼らは探しているのだろうか?何故彼らは探し続けようとするのだろうか?

何故彼らは、そこから目的地を創ろうとするのか?

『人生においては、光明以外の全てのものは見つけ出される必要がある。』もしお金がほしければ、それをゴールにする必要がある。

そうしなければ、それを見つけることはできない。あなたは、そのために一生懸命に働く必要があり、その野望にあなたの全エネルギーを注ぐ必要がある。

そうしたとしても、確実というわけではない。それを見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれない。もし権力がほしければ、あなたはあらゆる方法でそれを見つけ出さなければならない。

合法であれ、非合法であれ、正しい方法であれ、間違った方法であれ、探し求めなければならない。人生においては、全てのものは、見つけ出さなければならない。

何故なら、あなたはお金を持ってくることができなかったからだ。あなたは、権力を持ってくることができず、宮殿を持ってくることができなかったからだ。

あなたは、裸で、空っぽの手でやってきて、裸で、空っぽの手で去って行く。あなたはこの世のものを、それがみんな必要とされているにも関わらず、持ってくることはできない。

だからあなたは、あれやこれやのものを達成しようと突っ走ることになる。これらのものがあなたから取り上げられるだろうという考えが、だんだんとあなたに起こり始める。

つづく

あなたは、最初の最初から光明を得ている。

by osho

光明というものが、光明という考えそのものが、世の中に存在する最大のジョークだ。光明とは、既に持っているものを獲得しようとする努力であるため、それはジョークだ。

それは、あなたが既にいるところに到達しようとする努力だ。それは、全く存在しないものを取り除こうという努力だ。それは、馬鹿げた骨折りだ。あなたは、最初の最初から光明を得ている。

光明はあなたの本性だ。光明は、達成すべきものではない。それは目的地ではなく、あなたがやってきたところだ。それは、あなたのエネルギーそのものだ。

しかし、一度あなたが光明を目的地と考え始めると、あなたは深刻になってしまう。あなたは、多くのトラブルに巻き込まれる。

それは、あなたが自分で創り出した全く不要なものだ。それに、あなたは決して成功することはない。何故なら、光明を目的地と考えることからして、要点を逃しているからだ。

それは、探求できるようなものではない。それは、探求者の中に存在している。探求者は、それを探すことはできないのだ!

もし探求者がそれを探そうとしたら、それは決して見つからない。それは、誰かが眼鏡をかけているのに、眼鏡を探そうとしているようなものだ。

彼は、眼鏡の助けを借りて眼鏡を探しているのに、それに気付かない。馬鹿げている!あなたが自分で、深刻なトリップを創り出している。

あなたはそれを目的地にしようとしているが、それはあなたがやってきたところだ。あなたはそれを自分の野望の対象にしようとしているが、それは既にあなたの実状だ。

最初の最初から、誰も光明を得ていない人はいない。だったら、人々に何が起こったのか?何故彼らは探しているのだろうか?何故彼らは探し続けようとするのだろうか?

つづく

すべては自分の反応次第

by osho

誰かが怒っている。それを怒りと感ずるのは、自分がそれによってかき乱されているからだ。もし自分が乱されていないなら、それを怒りと感じることはあり得ない。

その質が変わるのは、あなたの解釈が変わるからだ。こちらが違っているからだ。誰かがあなたを憎む。それを憎しみと感ずるのは、こちらがかき乱されるからだ。

自分が乱されておらず、しかも自分を憎む者があったとして、それを憎しみと呼び得るだろうか。どうしてそれを憎しみと呼び得よう。

あなたは慈愛さえ感ずるかも知れない。哀れみを感ずるかも知れない。「いったい、この人はどうしたのだろう。なんて苦しそうなんだ。しかも、その必要はないのに、無益なのに」と感じることだろう。

あなたはその人がその状態から抜け出せるように、助けてさえあげるかも知れない。人が腹を立てる時には、自分の肉体を毒しているのだから。その人は病気なのだ。あなたは、彼がそこから抜け出せるように助けてあげるだろう。

癌を病む者がいたら、その人と喧嘩を始めたりはしない。その人を助け、世話し、病院に連れて行くだろう。

慈愛こそが必要だ。その人は助けを求めている。そして、この世がもう少し光明を得たなら、誰かが腹を立てた時にはいつでも、家族の全員と友達がその人をいたわるだろう。彼は治療を必要としている。

その人と喧嘩をしたり、腹を立てたりするのは馬鹿げたことだ。それはまったく馬鹿げた愚かなことだ。

相手が既に病んでいるのに、みんなでその人に対立して、どうやってその人を助けようと言うのかね。肉体的な病に対しては私たちは同情する。

心の病に対しては、同情しない。それは、肉体的に病む者がいても、私達はそれを自分に対する侮辱とは考えないからだ。

ところが誰かが心を病んでいる時には、私たちは、相手が心を病んでいるのは自分のせいだと考える。この態度は、自分もまた、病んでいるためにあるものだ。

ひとたび、自分が乱されてなければ、すべては一変する。自分の態度が変わるからだ。あなたは別人だ。全世界が違っている…。「もはや、昔のそれではない」。

瞑想とは私が消えること

今月は、今日7日(日)と27日(土)の両日に、瞑想会をやります。といっても、いつものことながら、何か特別なことをするわけではありません。

ただ、集まった方々とご一緒に、しばらくの時間、目を閉じて心静かにしているだけです。無念無想などを目指そうとするものでもありません。

元々、瞑想というのは行為ではないのですから。もっと正確に言えば、瞑想という行為をしている誰もいなくなることです。

要は、自分がいなくなればいいのです。ですから、何も静かに座っている必要もありません。時には、踊ったり、飛び跳ねたり、寝転がったっていいのです。

踊っている自分がいなくなり、踊りそのものになってしまうということです。場合によっては、体を動かしているときの方が、よりリラックスすることで行為者である自分が消えてしまうという可能性もあるのです。

みなさんは、瞑想という言葉からは、おそらく思考を止めるというようなイメージが浮かんでくるのではないでしょうか?

実は、必ずしも思考が止まっている必要はないのです。繰り返しになりますが、思考が働いていたとしても、思考している自分がいなければいいのです。

「私」という思考が介在しない思考というものは、誰もがごく普通に経験しているはずです。たとえば、囲碁や将棋のプロの方々が対戦しているときなど。

いくつ先の一手まで見通すのか知りませんが、そうした予想というのも思考の働きによるものと言えますが、名人ともなると試合に勝ちたい、負けたくないという自己がいなくなっていることが多いのではないでしょうか?

「私」という思考が勝ち負けを意識するようになってしまうと、純粋な思考の邪魔をしてしまうために、勝てる相手に負けてしまうということもあるかもしれません。

楽器の演奏者の場合も同じようなことがいえます。演奏している自分が消えて、演奏そのものになれる人こそが、すばらしい演者なのだと思います。

それも瞑想と言えますね。うまく演奏できるかどうかという思考が発生した瞬間に、瞑想からはずれてしまい、芸術に水を注されてしまうかもしれません。

瞑想とは、このようにいついかなる状態であろうと関係なく、ただただ「私」(という思考)が消えさえすればいいということです。

こんなシンプルなことなのですが、「私」というのはシンプルなことほど苦手なのです。更に付け加えれば、瞑想などに興味もないという人もいるかもしれませんね。

その理由もいたってシンプルです。それは、「私」が常に存続していたいと思っているからです。けれども、苦悩の大元は間違いなく、「私がいる」という思考なのです。

「私」が消える瞬間、「私」を守ろうとする思考もなくなります。そのときにこそ、本質の自由と一つになることができるのですね。