自分を守ろうとする限り、平安はやってこない

ほとんど個人セッションの予約が入らない毎日が続いていたのですが、珍しく昨日は初めてのクライアントさんのセッションが三つ続けてありました。

それで改めて感じたのですが、人は自分をいかに自己防衛することで手一杯になっているか、ということに気づいていないということです。

自分を守り続けることが、人生の主たる目標であるということに、どれだけ気づけるかということが、勝負のような気がするのです。

というのも、考えてみるまでもなく、より幸せになることを目指すということにしたって、それは結局自己防衛であるとも言えるからです。

表向きは、防衛のようには見えなくても、実質自分のことを自分で守らねばという、エゴの指導に従った生き方をしているのですから。

自己防衛こそが、エゴの使命、つまりエゴの存在理由に違いありません。そしてそれは、コントロールを意味します。

自分というエゴがどのようにして、自己防衛をしようとするのかという、詳細な策略にしっかりと目を向けることです。

そうして初めて、日々どのような方法でどれだけの労力と時間を使って自己防衛しているのかが明確になるのです。

それと同時に、一体全体なぜそれほどまでに自己防衛に全精力を使おうとしてしまうのかということにも気づく必要があります。

その理由は、自分の存在価値に気づいていないからだと言えます。けれども、それはあくまでも表向きの理由なのです。

本当の理由は、ただただエゴを使い続けようとする、エゴを存続させるための作戦であるということです。

自分のために生きる代わりに、他の誰かのため、他の何かのために生きるとしたら、殊更自己防衛にエネルギーを使わなくなり、それは結局エゴの衰退へと向かうことになるのです。

このことは、どうしたら自分はより幸せになれるのだろうかと考えている限りは、到達することができない境地であることは間違いないでしょう。

必要なことだけが起こる

5、6年前にクルマを買った時には、老いてきた両親がゆったりと寛いで乗っていられるようにと、日本車としては比較的大きなミニバンを選択しました。

後部座席で足を伸ばして腰掛けられるし、背が高くて見晴らしもいいのですが、クルマの床が一般のものと比べて高いために、ちょっと乗り降りに手間取る感じでした。

それから時が経って、両親の高齢化が更に進んで、最近では以前よりも乗り降りが大変な感じが見ていてわかるようになってきていました。

そこにもってきて、母親の骨折があって、いよいよ両親にとってもっと乗り降りが楽にできるクルマが必要となったように思っていたのです。が、問題は金銭面です。

そんな中、じつは、数週間前に自分の不注意で、クルマの脇腹をイヤというほどに鉄柱にぶつけてしまい、昨日ディーラさんのところで修理の見積もりをしてもらったのです。

その結果、何と50万円くらいかかるということが判明してしまい、やや茫然自失気味になって戻ってきたのですが、その時にもっと床の低いクルマに買い替えた方がいいと思っていたことを思い出したのです。

けれども、買い換えるにしても先立つものがないし、修理するにしてもとても高額という、如何ともしがたい現実が「デン」としてあることに気づいてしまいました。

こういうときには、急いで何とかしようとするのではなく、ただ状況を見守るということも必要なのですね。ただ、今までの自分だったら一刻も早く修理しようとしただろうなと思うのです。

見た目に大怪我したようなクルマに自分が乗るということが、許せなかっただろうと感じるからです。その辺は、随分と悠長になったものだと思います。

そこはある程度自分の中でクリアしたようなのですが、あとは両親のために買い換える以外に何か解決するような事態が起こることを、静かに待ってみたいと思っています。

自分に起こることは、自分が望むこととは限らないですが、自分にとって常に必要なことが起こるということへの信頼は、ピンチになっても失くさずにいられるようです。

無価値感など恐くない

私がセラピストという仕事をするようになって、最も驚いたのは「自分の存在価値」に気づいていない人が沢山いるという事実でした。

存在価値に気づかずに大人になってしまうと、その代替として客観的な存在意義というものを用いて、何とか自分を取り繕おうとします。

ところが、この存在意義というのは、他人にとってどれほど有用かということで判断される、非常に曖昧でしかも一過性の評価によっているものに過ぎません。

したがって、ひどい自己犠牲を強いてまで、毎日毎日存在意義を保つために頑張り続ける人生に陥ってしまうという事態になるのです。

残念ながら、存在価値というのは、自分独りでそれを体得することはできません。幼少期に、周りにいる大人から「受け入れられた」という感覚を繰り返して体験して、初めて得ることのできる感覚なのです。

それでも徐々に、大人になってからでも自分で自分を認めてあげる習慣をつけていくことによって、存在価値を感じられるようになっていくことは不可能ではありません。

けれども、一つよくよく考えてみる必要のあることがあるのです。それは、自分には価値がないという感覚を何とかしようとする理由は、それだけ自分に関心を持っているからなのです。

関心のない対象を何とか価値あるものにしたいなどとは、思わないのは明らかです。つまり、無価値感の苦悩とは、最大のエゴなのです。

仮に、自分自身のことよりも他の人や他の何かにより深い関心を持つことができるなら、自分の無価値感などどうでもよくなるはずなのです。

無価値感の苦しみは、エゴの最大の作戦だということに気づくことです。もしも、誰かのために、何かのために生きることができるなら、その人は無価値感から解放されることになるのです。

「あなたは私」ということの本当の意味

自分とは身体ではなく、意識だということが明確になってからしばらく経ちますが、それでも日々の生活に揉まれていると、自分をまだ身体だと思っている部分が色濃く残っていることに気づかされます。

それはなかなかしぶとい思い込みなのでしょう。誰でも、幼いころからずっと自分のことを身体だと妄信してきたのですから。

身体であると同時に、意識でもあるという矛盾に気づいている人も多いかもしれません。それが次第に、身体ではなくて意識そのものだとの気づきがやってくるのです。

けれども、初めのうちはどうしても自分は身体という「着ぐるみ」の中にいるという感覚が抜けないものです。

身体の中から、意識である自己が外の世界を眺めているというイメージが、私の場合には強いようで、今だにそれが抜けないでいます。

それが時として、意識という摩訶不思議なモノが物質である身体の内側に宿っているなどというはずはないということが直感的にやってきます。

そうして、本当の自己とは純粋な意識であり、時間も空間も身体もその意識という場の中で現象化しているに過ぎないということに気づかされます。

自分のことは、なるほどそうかと分かるのですが、他人のことについては、やはり身体という物質としての対象として捉えているようです。

なぜなら、目の前に○○さんがいると信じて疑わないのですから。けれども、目の前にいるのは単なる身体に過ぎません。

その身体の中に○○さんの意識があるはずがないのは、自分の意識のことを見れば明らかなのです。

それなら、目の前にいる人は誰なのでしょうか?それは誰でもないということですね。目の前にある身体は、そこにある椅子と同じ物質に過ぎません。

代わりに、その人の意識とは、時空を越えた私の本質と一つものであるということに気づくことになるのです。それが、「あなたは私」ということの本当の意味です。

生と死を一つものとしてみる

私たちは誰でも、死に対して恐怖心を抱いて生きています。そのために、日頃から死と向き合うということを避けているのです。

苦しみが続くくらいなら、死んだほうがましだと思っている人も多くいるのでしょうけれど、それも実は死を直視していないために、そのように感じるとも言えます。

なぜなら、苦しみの本質とは、死への恐怖から逃避しようとして発生するものだからです。私たちは恐いから直視しないと思っていますが、直視しないために必要以上の恐怖を持ち続けるとも言えるのです。

死をいつも身近に感じつつ、人生を生きれば、生そのものに対する意識も変化するのです。それは、暗闇を知っているからこそ、光のすばらしさを感じられるのと同じです。

生と死をバラバラにしてしまうこと、つまり生だけを見て死から目を逸らすというのは、都合の悪いものを否定して、なかったことにするエゴのご都合主義です。

考えてもみてください。人物としての自分がこの先ずっと死なないでいるとしたら、それこそ不気味なことになってしまいます。

この現象界という世界の秀逸なところは、自分も含めてあらゆるものが必ず滅びることになっているということです。

不変でいられるものは、この世界には何もありません。すべてが死と隣り合わせになっているのです。それがある種の魅力にもなっていると思うのです。

死への恐怖は、すばらしいことに死そのものによって消えてしまうのです。恐怖というのは、それと完全に一つになることによって、消滅するということです。

生と死の間を行ったり来たりすることができるのは、私たちの本質である純粋な意識が厳然として在るからでもありますね。

真実は多面的に表現される

昨日のブログでは、物事には両面があるということを書きました。そして、そのことは私たちが真実と呼んでいるものにも当てはまるのです。

というより、真実について言葉を使って説明しようとしたら、両面どころか多面的な表現ができてしまい、その多くは互いに矛盾するのです。

例えば、近年の脳科学では私たち(の脳)には自由意志はないということが、通説になっているようです。まだ、厳密に証明されたわけではありませんが…。

そのことは、世界中の賢者と言われた人たちも同様に言っていることです。したがって、それは真実なのだろうと考えてもよさそうです。

でもその一方で、瞑想をするべきであるとか、真剣に自己探求を続けていく努力を惜しんではいけないという言われ方もするわけです。

これは、自由意志がないということと矛盾するように感じます。自由意志がない我々に、何をどう働きかけたって、結果が変わるようなことはないはずだからです。

けれども、実際には努力すべきときは努力する必要があるというのも真実なのです。自由意志がないということは、すなわち何が起こるかについて我々には何の影響力もないということを意味しますね。

それなのに、愛に溢れた心を持つ人々は、自らの命を顧みずに他人の命を救おうとまでするわけです。

何が起こるのかは、決定しているとしたら、なぜそれほどまでに他人のために尽力しようとする人々がいるのか疑問です。

きっと、自己防衛に奔走するエゴの影響から開放された彼らの心の中には、慈悲とか自愛のエネルギーが盛りだくさんになっているのでしょう。

覚醒したイエス・キリストが天国に行ってしまわずに、二千年の時を越えて、奇跡のコースを私たちに提示してくれるのも、そうした慈悲の心の成せるわざなのだと思います。

真実は本当に謎に満ちていて、興味深いですね。

物事には両面がある

私は幼いころに「猩紅(しょうこう)熱」という病気に罹って、40℃を越えるような大変な高熱を出したことがありました。

そのころは、死亡することもある疾患として恐れられ、法定伝染病にも指定されていたのですが、1999年に施行された感染症新法により、法定伝染病ではなくなったそうです。

そんな高熱であれば、当然のごとく解熱剤を投与して熱を少しでも下げる必要があるのは言うまでもありませんね。

けれども、風邪などをひいてごく一般的な発熱などで、やみくもに解熱剤を使うのはあまり勧められるものではありません。

なぜなら、身体は自浄作用を促進するためにわざわざ発熱しているのですから、その熱を外部から強制的に奪ってしまっては、身体の能力を阻害することになるからです。

つまり、発熱したときに解熱剤を使うかどうかは、一意には決められない両面があるということです。

また、風邪をひくと、場合にもよりますが、食欲がなくなってしまうこともあるのですが、そんなときにむりやりにでも栄養のあるものを沢山食べて、体力をつけるのがいいと言う人がいますね。

勿論、栄養失調になるくらいに食事をしないようでは、体内の菌と戦うエネルギーがなくなってしまうので、病気が長引くことになるでしょう。

けれども、食欲がないということは、身体がモノを食べることを拒絶しているという観点で見れば、ただ食べればいいということではないのです。

野生動物が怪我などをした場合には、ただ静かにして何も食べずにいることによって、傷を癒す身体の能力を最大限使おうとするのです。

何かを食べてしまうと、それを消化吸収するために多大なエネルギーを必要としてしまうために、傷の修復や病気の治癒がかえって遅くなってしまうのです。

病気の場合に限らず、このようにして物事には両面があるということです。ですから、何がなんでもこれが正しいという硬直化した考え方をしないほうが得策ですね。

自己防衛のために、正しさにしがみついた心で生きていると、大切な気づきからも遠ざかってしまう可能性が大きくなってしまいます。

どんな場合でも、融通の利く広い心で生きていたいものですね。

モノを処分することで部屋のエネルギーを浄化

昨日のブログにも書いたのですが、母親が無事退院することができて、喜んだのもつかの間、今度は自宅での生活上、危険だと思われるところを安全に母親が過ごせるようにする仕事が待っていました。

といっても、手すりなどは父親が以前にも依頼した方のところにすでに依頼してくれていて、トイレに設置してくれていました。

それでもやはり、母親本人が実際に試してみて、もっと手すりが必要だと分かったので、また新たにいくつかの場所に取り付ける算段をしました。

それと、母がベッドからトイレに向かうときに、リビングを通らなければならない構造になっていて、そのリビングがモノで溢れているのです。

このチャンスを逃してはならぬとばかりに、日頃いくら説得しようとしてもモノを捨てる覚悟ができない両親に詰め寄り、不要なものを徹底的に整理させてもらいました。

なにやら古くて怪しげなものが入っていたサイドボード、12年選手となった図体ばかり大きなブラウン管式のテレビとその台、その他多くのものをリサイクル屋さんに引き取ってもらいました。

この歳になって、本当に分かったのですが、両親ともにモノを捨てられない体質だったということです。

それは、「片付けられない人」なのではなくて、「片付けることに興味を持っていない人」だったのです。身の回りに雑然とモノが置いてあるのを好むというのか…。

それにしても千載一遇のチャンスとはこのことですね。すっかり整理整頓されて、母親がリハビリができるスペースも少しですが作ることができました。

昨日その作業を一気にやってしまったので、気持ちはいいのですがかなり疲労してしまいました。しかし、まだ母が管理する一階の台所と、母の部屋の整理整頓が残っています。

一気呵成に責め続けなければと思っています(笑)。整理整頓の清々しさに気づいて欲しいと思うのは、エゴかもしれませんが…。

期待を超えた母親の頑張りのおかげで、今日退院します

自転車同士の事故で転倒して、救急車で病院に搬送されて、股関節内の人口骨頭置換手術を受けていた母親が、今日めでたく退院することになりました。

手術してから昨日でちょうど3週間経ったのですが、その間の本人の熱心なリハビリの努力が実ったのか、とんとん拍子に回復していきました。

本当にありがたいことです。リハビリを手取り足取り懇切丁寧に指導してくれる、母親担当の理学療法士さんは、若干22歳の女性です。

彼女は母親が痛がるようなことは一切せずに、それでも有効なリハビリの方法を絶えず編み出してくれていたという印象があります。

私自身も、毎日病院に行く度に、母親のリハビリが必ず進歩しているのを見ることができて、それはとても楽しいことでした。

私が見ている前でも、さっきまでできなかったことが、急にできるようになったことも何度も目撃させてもらうことができました。

手術後、リハビリが始まってからというもの、頑張りはするものの、思うように動かない足を手でさすりながら、母は何度も「本当に歩けるようになるのかね~」と気弱なことを言っていました。

私は、リハビリの進捗を客観的に見ていたので、今までどおりに歩けるようになることは分かっていたのですが、彼女にはそれが見えないようでした。

昨日いつもどおりに母親の病室を訪ねると、少しだけ目を潤ませた母親が「さっき初めて杖なしで歩けたよ!」と報告してくれました。

何でも、私に一番に伝えたかったと言ってくれました。そのときの顔は、本当に嬉しそうでした。

このブログを読んでくださり、暖かな励ましの言葉や応援のエネルギーを送ってくださったみなさまに、この場を借りてあたらめてお礼させていただきます。

今日、無事退院します。本当にありがとうございました!!

辛い夢から幸せな夢へ

「奇跡のコース」には、この世は幻想、つまり夢のようなものであり、いずれは誰もが、一人残らずその夢から醒めて神のもとへ帰ることになると書いてあります。

そして、神のもとへ帰る前には、この現実という夢が、辛い夢から幸せな夢へと変化することになるとも言っています。

これを読むと、何となく救われたような気持ちになりますが、辛い夢が幸せな夢に変わるというのは、実際どういうことなのでしょうか?

人生には楽しいことや嬉しいことばかりではなくて、辛い経験をしたり、苦しい現実がやってきて苦悩させられることだってありますね。

あるいは、人生そのものを悲観して、なんで自分ばかり理不尽な思いをさせられるのかと、神を恨んでいる人も大勢いるかもしれません。

悪夢が幸せな夢に変わると、たとえば病気が治ったり、宝くじに当たったり、好きな人と結ばれたりといった、いわゆる幸運の女神がやってきたような出来事ばかりが続くことになるのでしょうか?

残念ながらそうではありません。幸せな夢に変わったとしても、最愛の人を失うことだってあるだろうし、事業に失敗して絶望的になることもあるかもしれません。

つまり、自分にとって都合のいいことばかりが起こるようになるのではなく、依然として災難に遭遇することもあるのです。

本質的には、人生に起きることががらっと変わってしまうなどということではないのです。幸せな夢の正体とは、この現実が夢のようなものであるということへの信頼が深まるということです。

そして、本当の自分はその夢の中の単なる登場人物ではなく、人生という物語を観照する純粋な意識であるということに目覚めながら生きるということなのです。