個別性と純粋な個の違い

私たちが持っている個別の意識、正確には個別の思考と言ったほうがいいのですが、それは、純粋な意識の片鱗を示してくれています。

というのも、純粋な意識としての全体性というのは、究極の個であるとも言えるからです。つまり二つ目のない唯一の個ということです。

だからこそ、私たちは誰も自分を二人だとは感じないのです。自分の心が一枚岩ではなく、多くの部分に分離していると分かったとしても、それを認識している自己はやはり一つなのです。

このことは、個としての自己と、個別性としての自分というものを混同しないようにする必要があるということに気づかせてくれます。

私は人生の初期のころから、何となく自分がすべてだという感覚を持っていました。それは、自分としてはとても自然なものだったのです。

けれども、それは特別でありたいという、つまり個別性に執着するエゴの欲望だと解釈したために、その自然な感覚を否定してしまった時期がありました。

それこそが、個としての全体性と個別性の混同であったと今なら分かるのです。そうして初めて、正々堂々と自分がすべてだと再び言えるようになったのです。

勿論その場合の自分とは、個人(個別性)としての自分のことではなく、自分とは何だろう?と追求していく過程で突如広がる意識のことです。

自分をどこまでも探求するのは、答えを出すためではありません。その探求の過程が大切なのです。そのときに、自己という個が無限大の意識だということに気づかされます。

この感覚を得るには、わざわざ長い時間を取って瞑想する必要もありません。ただ、思考の手の届かない内奥の静寂さに触れるだけでいいのです。

その静寂さは、この騒がしい現象界がそれとして顕われ起きるための、舞台のようなものだと思えばいいのです。
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真理を求めることはない その5

一昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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聖者は、罪について夢見続ける。
聖者は、自分が抑圧したあらゆる悪事を夢に見続ける。
奇妙な現象だが、
聖者の夢の中を覗きこめば、常に罪人のように見えるだろう。

そして罪人の夢を覗きこめば、常に聖者のように見えることになる。
罪人は、 いつも聖者になる夢を見る。
そして聖者は常に罪人になる夢を見る。
抑圧されたものが夢に現われ、無意識が夢で自らを顕すからだ。

だが、分裂はそのままだ。
そして分裂している限り、決して源まで落ちることはできない。
それはちょうどこんなふうだ。

一本の樹があるとしよう。
無数の枝を出した大きな樹で、枝はそれぞれに分かれている。
その枝に執着したら、どうやって根元まで行くことなどできるだろう。
根に向かえば向かうほど、枝は少なくなる。
下へ行けば 行くほど「多」は 消え、分かれていない一本の幹に到達する。
すべての枝がその中にあり、しかもそれ自体は分かれていない。
あらゆるものはそこから出ている。

「多」は その「一」から出ているのだが、
その「一」は「一」のままなのだ。
人は、その「一」まで落ちなければならない。
それこそが根だ、源だ。

「あらゆる相対性は、
絶対の一から来るとはいえ、
その一にも、囚われてはならない」。

誰かを守ろうとするとエゴが活性化する

普段はとても穏やかで、怒りを表に出すこともないような人なのに、友人が何らかの被害に遭ったとなると、その加害者に対して猛烈に怒りを露わにする人がいます。

みなさんも、そういう人のことをすぐに思い浮かべることができるのではないでしょうか?あるいは、もしかしたらみなさん自身にも、そうした一面があると自覚できる場合もあるかもしれませんね。

これは、元々怒りを表現するということに抵抗する心があって、無意識的に怒りを抑制してしまうのですが、友人などその人にとって大切だと思える人に関する場合には、その抑制が取れてしまうことが原因です。

つまり、自分自身のことでは簡単には怒れないことでも、大切な人の場合には怒る大義名分ができてしまうということなのです。

そのため、ブレーキが効かなくなってしまい、突如として激しく怒りだすという現象が起こるということです。

自分以外の誰かを守るという大義名分は、怒りというエゴを思う存分活躍させてしまうことになるのです。

私自身も、最近毎日のように、そんな経験をしています。股関節を骨折して入院している老齢の母親に会うたびに、自分が守らねばという気持ちがどこかにあるのでしょうね。

そうなると、病院の環境やらナースのみなさんやら、医師の方々、はては駐車場のおじさんなど、ありとあらゆる人たちの中に敵意のようなものを感じてしまうのです。

勿論それは自分の中にある敵意の投影であることは、良く分かっているのですが、弱っている母親を守ろうとすると、そこにエゴが相手を攻撃する大義名分ができたとみるのです。

そうして、いつも誰かを必要以上に敵対視しようとしている自分に気づきます。この思考や感情を観察していると、なかなか面白いものがあります。

それでも、そんな中にあって必ず愛を感じさせてくださる人というのがいるものです。そのときに、敵を見つけようとしていたエゴの心が洗い流される思いがして、救われますね。

真理を求めることはない その4

またまた昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。
あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、
心は混乱の中に失われる。’

難しい。
知識を捨てることまでは理解できる。

だが、もっと深く、
通常の知識よりももっと深い所には、善悪の良心がある。

「分かった。
私はもうキリスト教徒ではない、ヒンドゥー教徒ではない」
と考えることはできる。

だが道徳となると、善悪の判断となるとどうか。
道徳は、 キリスト教やヒンドゥー教とは違うと、
あなたは思っているのかね。

道徳は、人道主義者だ。
無神論者ですら道徳家だ。
無神論者はどんな宗教にも所属しない。
だが、彼もまた善悪に基づいて考える。

そしてこれは、求道者が解決しなければならない最も深い問題のひとつだ。
本当の求道者はあらゆる概念……善と悪…を落とさなければならない。

聞いた話だが、小さな船で何人かの人が旅をしていた。
と、突然、 海が狂ったように荒れ始め、今にも船は転覆しそうになった。
みんなひざまづいて祈り始めた。

この船にはよく知られた聖者と、これまた人に知られた罪人が乗っていた。
その罪人もひざまづいて言った。

「主よ、我らを助け給え」

すると、聖者がその罪人に近づいてきて言った。
「あまり大きな声を出さないように。
もし主がお前のことに気がつかれ、
お前もこの船に乗っていると知られたら、
私たちの誰ひとり、助かる者はいなくなる。
みんな溺れ死ぬことになる。
そんなに大きな声を出してはいけない」

だが、人を罪人と思えるような聖者が聖者であり得るだろうか。
もし、他人を罪人だと考えているのだとしたら、
そんな聖者が本当に本物の聖者であり得るだろうか。

その人は偉大な道徳家ではあるかも知れないが、
善にこだわり、まだ他人に対する非難を抱えている。
宗教的な人は、非難の心を持たない。
彼はただ受け容れる。
宗教的な人は、きわめて謙虚だ。

その人がどうして
「私は聖人だ。お前は罪人だ」
と言うことなどできよう。
宗教的な人は、ただ、善と悪のすべての枠組みを落とす。

僧?(ソウサン)は言う。
‘ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。

真理を求めることはない その3

昨日に引き続き、また osho の言葉です。

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私は、意識はまさに鏡のようなものだと、あなた方に言った。
前に来たものが何でも、何の偏見もなく映し出される。
鏡は、
「この女性は美しい。
私はこの人を映したい」
とか、
「あの女性は嫌だ。
あの人は映さないことにしよう。
あの人は醜い」
とは言わない。
いや、鏡に判断はない。
鏡はただ映すだけだ。
それが鏡の本性だ。

だが、一方には写真の感光板と言うのがあって、これもまた映す。
しかし、それはたった一度しか映さない。
その後は、その像に執着する。
カメラの後ろに隠れている感光板も映すが、一度だけだ。
思考(マインド)はまさに感光板に似ている。
それは映してから、その映像を捨てきれない。
そこで、死んだ映像を運ぶ。
いつも死んだ映像を持ち運ぶことになるのだ。

鏡は、映して、また空っぽになる。
再び、受け入れる用意ができている。
鏡は常に新鮮に受け入れる。
決して執着しないからだ。
鏡にはどんな判断もない。

思考(マインド)にあるのは、判断、判断、判断ばかりだ。
そして、この判断の厚い壁のために、人は決して真理に到達できない。

真理はある。
それは理論ではなく、実在だ。
それは経験されなければならない。
それについて考えることはできない。
それについて哲学的に思索することはできない。

倫理を立てれば立てるほど、見逃すことになる。
時には罪人が一瞥を得ることはあるだろうが、哲学博士だけは無理だ。

僧?(ソウサン)は言う。
‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。

真理を求めることはない その2

昨日の osho の言葉の続きです。

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あらゆる欲望が止まり、どこへ行こうという動機もなくなった時、
突然、人は光に満たされている自分に気がつく。

突然、自分こそがこれまで求めてきた、
まさにその寺院であることを見い出だすのだ。
突然、人は自分がクリシュナであること、自分がイエスであることを理解する。
どんな光景も来はしない。
自分こそすべての源泉、自分こそが実在そのものだ。

‘真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’

意見を持ってはいけない……
キリスト教、ヒンドゥー教、回教、ジャイナ教……意見を持ってはならない。
経典を持ち運んではならない。
そうでないと、知識の人にはなるかも知れないが、
決して賢人になることはない。
多くの知識と情報でいっぱいにはなるかも知れないが、
すべては死んだ借り物でしかないだろう。
意見は真理ではない。
そうでは あり得ない。

意見は思考(マインド)から来るものだ。
真理は思考(マインド)からは来ない。
真理とは思考(マインド)が無くなった時に起きることだ。

判断は既知だ。
そして真理は未知だ。
既知がやむ時、未知がやって来る。

まわりに何ひとつ既知のものが無くなった時、未知なるものがそこにある。
人は、思考(マインド)と一緒には、決して到達できない。
それこそが、ただひとつ放棄しなければならないものだ……
思考(マインド)、 判断、
キリスト教徒であること、ヒンドゥー教徒であること、
ギータ、バイブル、コーランだけは。
知識を持って行くことはできない。

真理を求めることはない

以下の osho の言葉は、自己探求を続ける自分に対して、ガツンという一撃
のように響きました。

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‘この空なる世界に現われる見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。’

これはひとつのビージャ・マントラだ。
実に、実に深いメッセージだ。
真理を求めることはない。
ただ、意見を持つことをやめるがいい。
あなた方にどうやって、真理を捜すことができよう。
あなたが真実ではないのだ。
そのあなたに、どうやって〈神性なるもの〉を捜しに行くことができる。
どうやって、捜すのかね、何をするというのか。

せいぜい、あなたの思考(マインド)がまやかしを演ずることになるだけだ。
せいぜい、「真理」を投影することになるだけだ。
だが、真理はヒンドゥー教でもなければ、キリスト教でもない。
真理はクリシュナでもなければ、キリストでもない。
それらは形態、衣に過ぎない。

そしてもし、未だにその衣が自分の所にやって来ているのだとすれば、
それは、その人が キリスト教とか、
ヒンドゥー教という自分の意見でいっぱいだということ、
自分を投影しているということだ。

僧?(ソウサン)は「真理を求めることはない」と、言う。
あなたには捜せない。
どうやって捜せる。
あなたには用意ができていない。
思考(マインド)があるからだ。

誰が捜すのか。
探求とはすべて思考(マインド)のものだ。
あらゆる探索は思考(マインド)からやって来る。

意識は決して求めない、決して捜さない。
意識はただあるだけだ。
それは存在だ、欲望ではない。
探索は欲望だ。

あなたはこの世で富を、権力を、 地位を捜し求め失敗した。
今度は神を、真理を求めている。
しかし自分は同じままだ。
何ひとつ変わっていない。
ただ言葉が変わっただけだ。
以前は権力だったが、今は神だ。
しかし、 あなたは同じ探求者のままだ。

真理は捜せない。
逆に、あらゆる探求がやんだ時、真理があなたの扉を叩く。
探求者が、もういなくなった時、真理があなたの所にやって来る。

エゴの癒しから自己探求へ

セラピストの仕事を始めてしばらくしてから、コツコツと書き溜めたコラムがあります。勿論今でもルシッドのホームページ上にそのまま掲載してあります。

そのコラムも、もうすでに書かなくなってから多分4年くらいは経っていると思います。そのくらい、ある意味放置してしまっているということです。

これは、サボっているということではなくて、自分の中である種の変化が起きたために、書こうという気持ちがなくなってしまったというのが本当のところです。

コラムに書いていたことは、概ねエゴのレベルでの癒しに関することでした。そのことに疑問を持ち始めたために、すっかりコラムから遠ざかってしまったのです。

けれども、今だにコラムを読んで、ピンときてセッションに来たと言って下さるクライアントさんもいらっしゃるのも事実なのです。

したがって、癒しの入り口としては、たとえエゴのレベルであっても、私がずっとやってきたような心理療法というのは、必要なのだと思います。

人はどれほど真理に近いことに気づいたとしても、やはりエゴとして生きているのです。したがって、エゴをエゴとしてしっかり見るためには、エゴの領域での癒しが必要なのですね。

部屋から出て行くためには、部屋のなかを歩いて行って、ドアを開ける必要があるのと同じです。部屋を通らずに外に出ることは不可能なのです。

そしてここからが更に大切なところですが、外に出るために部屋の中をグルグル回ってしまっては、永久に出ることができなくなってしまいます。

部屋を歩くときには、一直線にドアを目指して歩く必要があるということです。エゴのレベルの癒しをするときにも、まったく同じことが言えるのです。

エゴを打倒するというよりは、エゴを利用してエゴの外に注意を向け続けることを忘れてはならないということです。

それが自己探求なのです。そのためには、ルシッドのコラムを読んで理解を深めることができた方には、是非こちらのブログも読んで欲しいと思っています。

母のリハビリの頑張り

母親は自転車同士の接触事故で倒れて、左足の大腿骨(股関節の部分)を骨折してから、10日間もベッドに寝かされていました。

その間、ずっと左足を錘(おもり)で引っ張っられて固定されていたせいか、手術後に判明したのですが、太ももを上げるときに使う筋肉と筋が伸びきってしまったようです。

ちょうど、古くなったゴムがだらしなくビヨ~ンと伸びて、縮まなくなってしまったのをよくみかけますが、あれに似ているかもしれません。

老人の身体というのは、本当に弾力がなくなってしまうものなのですね。きっと若い身体であれば、すぐに回復することができたのでしょうが…。

筋肉の力というのは、縮むときに発揮されるので、伸びきって縮まなくなった母親の筋肉では、いくら本人が頑張っても思い通りには足を上げることができないのです。

それでも、人体の不思議とでも言えばいいのか、繰り返している間に徐々に足を上げられる距離が大きくなっていくのです。それも短時間の間に。

勿論、しばらく放っておくと、また上がらなくなってしまったりもするのですが…。筋肉も含めて、身体を正常に保つ最大の方法は、それを使い続けることなのでしょうね。

そして、もう一つリハビリを成功させる秘訣を見つけました。それは、本人のやる気を起こさせるためにも、褒めたり勇気付けたりすることが大切なのです。

母親はその点、子供のように素直なところがあるので、助かりました。私の励ましをそのままいい方向に受け取ってくれています。

昨日の日曜日は、リハビリがお休みの日なので、一日中べったりと付き添って、歩行器で病棟のフロアを何度も歩きました。

看護師さんたちも、みなさん「えらい、えらい!」と声をかけてくださいます。それも、精神的ケアに一役かってくれていると思います。感謝ですね。

「喪失」よ、いらっしゃい!

2008年の秋から、奇跡のコース・テキストを読み出して、同時にワークブックを毎日実践し出したので、それからもう丸四年が経とうとしています。

コースと向き合うようになって、一番ショックだったことは、教師用マニュアルに書いてあったことが、自分に該当するのではないかと思えることがあったからです。

それは、コースと係わるようになった人の身に起きることについて、いろいろと述べてあったのです。その中でも、大切なものを喪失していくケースがあるということ。

何となく、それは自分のことを言っているのではないかと、直感したのを今でもはっきりと覚えています。

そして、そのことがやっぱり当たっていたんだろうなということが、最近はっきりしてきたのです。執着しているものを手放さざるを得ない状況がやってくるということです。

どうでもいいものを失っても、人は何のショックも受けませんが、大切なもの、ずっと一緒に在りたいと思っているものを失うと、激しい喪失感を感じるのです。

この一ヶ月強の間に、いろいろなものを喪失したような気がします。今これを書いた時点で、まだまだ甘いよって誰かが言ったような感じがしました。

喪失は、自分にとってとても大事なことなんだろうということを、薄々感じてはいるのですが、こうも明確に連続して起きてくると、何かの作為を感じざるをません。

といっても、作為するナニモノもいないということも承知しているので、身勝手な心の反応をただしているだけだということも分かっているのです。

喪失が続くと、コントロールなどできないということを身をもって知らしめてもらえるのでしょうね。それと、喪失に巻き込まれる度合いが格段に小さくなってきます。

これはとてもありがたいことだと思うのです。人情としては、もうこの辺で終わりにして欲しいと思うのですが、それも神のみぞ知るということなのでしょうね。あきらめます。