この宇宙(自己)の不思議さには降参です その2

昨日の続きです。

私たちは、不思議なものには大抵の場合に興味を持つものです。何かにびっくりさせられたり、驚きを禁じえない体験をしたときには、それが何だったのか知りたいと思うのです。

つまり、不思議さというものは自分の理解を超えたものに対して感じるわけですが、それを理解したいという欲求が発生するということです。

その欲望とは、自分が理解できないものをそのままにしておくことは、危険であるという発想から由来したものです。

危険を回避するために、分からないことを分かるようになりたいという欲求を持つということです。これは、単に自己防衛からきているとも言えます。

それこそが、まさしくエゴの欲望に他なりません。けれども、私たちは不思議なものに対して、それを解明したいというだけではなく、シンプルに惹かれるという側面も持ち合わせています。

この、不思議さに単純に惹かれるというのは、きっとエゴを越えるものに対する心地よさなのかもしれませんし、本当の自己を思い出したいという隠された欲望なのかもしれません。

不思議なものに対するこの二つの衝動は、そういう意味で互いに相反するものであると言えるのです。一方はエゴの防衛であり、もう一方は真実への渇望だからです。

この世界では、理解できないことを理解できるように学んでいくことは、必要なことであり、何ら問題ありません。

しかし、もう一方で自分の理解(思考)を越えたところにこそ、真実が隠されているということに気づくことは、より一層大切なことなのです。

それこそが、自己の不思議さに降参するということです。解決しようとするエゴ(思考)の誘いに振り回されないでいるということです。

それは、エゴ(思考)が自分の限界を悟り、真実にひれ伏すということです。そこにこそ、この世界のものではない、真の安らぎがあるのです。

この宇宙(自己)の不思議さには降参です

目を閉じて、しばらくの間静かにしていると、この世界、この宇宙が壮大な夢のようなものだという感覚になることができます。

それは別の言い方をすれば、自己という純粋な意識が全体であり、それが唯一だということでもあるのです。

内側も外側もなく、ただ自分の本質としての意識が在るという感覚です。それは、大きさも位置も時間も何もない、完全なる澄み切った空であると。

あまりに不思議過ぎて、どうにかなってしまうんじゃないかというこの感覚は、自分としては幼いころからとても馴染んでいるものです。

だから決して恐がるような類の感覚ではないのですが、それでも自分がいなくなるような瞬間を、子供の頃から感じていたように思います。

大人になった今と違って、子供のころはその感覚がいつ何時やってくるのか見当もつかないので、それが来た時には無言で固まっていたはずです。

今では、落ち着いているときであれば、いつでもこの感覚の中に戻ることができますが、残念ながらその感覚には、人間としての感覚が混じっているようです。

それが、夢のように感じるという表現を作り出しているように思います。こうして、ブログを書いていると、ものすごくそれがやってきてくれます。

昨日も書きましたが、この変化のまったくない深淵の静寂さと、表面的な現象界の忙しさが同時にやってきて、その見事なコントラストには驚かされます。

それらは互いに全く異なるモノであるのに、完全に一つであるとも言えるのですから。本当に不思議で仕方ありません。

今この瞬間の美しさを見る

私たちは、いつも自分にとって都合のいいことが起きてくれるようにと、絶え間なく願い続けています。

仮に、誰もが羨むようなトントン拍子のような人生であったとしても、本人の心の奥には否定的なことをできるだけ排除したいという思いがあるはずです。

それはある意味、生存本能から派生した自己防衛であると考えれば、当然のことですね。誰だって、苦悩から逃れたいと思うのですから。

だからこそ、引き寄せの法則などというモノがかつて流行ったのでしょうね。私には縁がなかっただけで、今でも多くの人々の心を惹きつけているのかもしれませんが…。

引き寄せの法則というのは、この世界は内面の投影であるとの見地からすれば、それなりに的を得たものであるとも言えます。

けれども、どんな法則であれ、それを何が何でも信望してしまうと、真理から遠ざかってしまうものです。

なぜなら、何かに法則性を見出すことは、思考の中でのことだからです。思考はそれを真理だと断定しようとしますが、思考からはずれてしまえば真に客観的な事実というものはないのです。

思考の外側では、たとえ相対性理論といえども意味を成さないということです。あ、今これを自分で書いていて、びっくりしました!

こういうこと、時々ありますが、今初めてそのまま書いてしまいました。話しを元に戻しますが、だれのところにも、都合のいいことと同じだけ都合の悪いことが起きるのです。

それは避けて通ることはできません。どんなことが起きたとしても、それは一過性のものであるし、思考の外側には都合がいいとか悪いということもありません。

これから先どんなことが起こるのかということよりも、今この瞬間に起きていることに目を向けることです。それがどんなことであれ、真の自己の永遠性から見れば、一過性のはかないものの美しさが際立ってくるのですから。

自己という内面の真実

osho の言葉からの抜粋です。

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人が絶対に確信できる現実はたったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が在するためにすら、少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、自分はそうではない。
なぜなら確信できるのは、自分自身しかない。
他には何もない。
だが、ひとたび自分が存在するという、この確かさを射抜けば…。
いいかね、夢の中にさえ、自分はいる。
夢のためにすら、意識が必要だ。

あらゆるものが夢だと証明することはできる。
だが、夢を見る人を夢だと証明することはできない。
夢を見る者は、実在でなければならないからだ。
さもなければ、夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、それは、自分だ。
たったひとつの事だけは絶対に確かだ。
それは、自分の内面という真実だ。
改心とは、不確かな世界、見かけの世界から、
その真実の世界に向きを変えることだ。

ひとたび人が、その内なる確かさを、
自分には根拠があることを知ったら、
ひとたび自分がいることを知ったら、
その確かさによって、視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、絶対に確かな実在に根を下ろした時、
その人の眼差しはそれまでとは異なった質を持つ。
その時、そこには信頼がある。
今や、見ることができる。
すると、全世界が変わる。

その時そこにあるのは、そう見えるものではなく、 実在だ。
本当に真実であるものだ。
本当に真実であるものとは何か。
それは、この目に見える形ではない。
形態は変わるが、その形態を通して動くものは変わらない。

思考からの脱出

この人生において、最も、それも群を抜いて一番に関心を持っているのは、何を隠そうこの「私」についてであるというのは、間違いないことです。

それなのに、何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、この「私」というのは厳然とした実体のあるものではなくて、単なる思考の産物だったと気づいたのです。

この気づきは、とてもショックであり、またある種の小気味よさというものも感じたのです。自分に対して、ざまあみろ!的な思いというのか…。

多くの人は、自分の存在価値に気づけなくて苦しい毎日を生きていたり、自分の中の罪悪感や自己嫌悪感に苛まれていたりと、悩ましい人生を生きているのです。

けれども、その中心にいるはずの「私」というものが、本当は何の実体もない、ある意味架空の作り上げられたものだったということなのです。

こんな馬鹿げた、やってられないような話しってないと思いませんか?一体毎日私たちは何を悩んで、頑張り続けてきたのかアホらしくなってしまいます。

でもそれは、本当のことなのですね。私たちが、何かを価値があると思ったり、大切だと感じたりするのも、すべては「私」がここにいると錯覚している思考の中でのことだったということです。

そして、その思考とは過去そのものなのです。過去の体験、つまりそれは知覚による体験ですが、それと記憶の働きによって、過去を積み重ねてきたのです。

それこそが、「私」という人物の本当の姿だったのです。何度も言いますが、何の実体もありません。すべては思考だったのです。

過去によってでっち上げられた張りぼてのようなものとしての「私」、それは常に過去と過去の変形である未来の申し子なのです。

だから、人物としての私たちは、決して今この瞬間に生きることはできません。今ここには、誰でもない本質の自己が在るだけなのです。

思考という部屋の中を、ぐるぐる回って出口を見つけられずにいるのが、私たちの現実なのです。でも必ず出口は見つけることができます。

出口を見つけ、その方向に一直線に向かって歩いていくには、思考そのものを利用する必要があります。

しかし、最終的にはその思考そのものから出てくるのです。そこには、やっと出てきた本当の自分を待っていてくれる真の自己が在るはずです。

いつまでも浮かばれない心の部分

生まれ持った気質が過度に敏感であるとか、生育環境が本人にとってかなり苛酷なものであったりした場合に、成長するにつれて心のバランスが崩れてしまうことがあります。

そうすると、心の機能をまんべんなく使うことができなくなってしまうために、非常に偏った考え方をするようになることがあります。

過度に人を恐れるようになってみたり、自分で作ったルールを守ることに全エネルギーを注ぎ込むような生き方をしたりするのです。

そうなると、心の中は小さな部分に分裂してしまい、それぞれが互いに意志の疎通をしなくなってしまうのです。

そのうちのどれか一つが、その他を圧倒するような力を持っている場合には、偏っているとはいえ、本人はある意味安定の状態を続けることができます。

そしてそれが本人にとっては、本当の自分であるかのような錯覚に陥るのです。それは、本人だけでなく、周りの人からもそのような人だと勘違いされるのです。

けれども、そうした心の不均衡というのはいつかは崩れることになります。なぜなら、抑圧されていた心の部分が耐え切れなくなって、表面化するときが必ずやってくるからです。

それは本人にとっては、自分の中にこんな面があったのかと、驚いてしまうことになるかもしれませんし、困ったことになったと思うかもしれません。

しかし、セラピストの目からすれば、それは大きなチャンスが到来したのだと映ります。もしも、突然自分のことがコントロールできなくなる時があったり、自分の言動を理性で説明できないことが頻発するなら、そのチャンスを逃さないことです。

長い間の葛藤によって、張り詰めていた心が何とかして元通りになろうとしているのですから。自分の心の反応を否定することなく、静かに見守ることです。

人の心の中には、まだまだ埋もれたままになっている、浮かばれない部分が残っているものです。それが当然だと知っていると、慌てずに済みます。

どうしても、自分独りでは不安であるというのでしたら、セラピストなどの専門家に力を借りることを考えてもいいと思います。

今この瞬間と丁寧に向き合う

かつて、「ながら族」という言葉があったのをご存知でしょうか?ラジオや音楽を聴きながら勉強したりするといったような人のことを指す言葉です。

とりわけ、そうやって何かをするときに、それとは別の事をしながらでないと逆に集中出来ない人のことを揶揄して言った言葉だったと思います。

食事をするときにテレビを観ながらとか、クルマを運転しながら音楽を聴くなどは、そうやってよりリラックスするためであれば、それは「ながら族」とは呼ばないはずです。

いずれにしても、私たちはみな、ある程度はいくつかのことを同時にすることができる能力を持っていますね。

私が知っている限りでは、特に女性の場合のほうがそういうことが得意だという印象を持っています。例えば、掃除をしながらマニュキュアを塗りながら、彼とケータイで話すとか。

目玉焼きを作りながら、味噌汁を火にかけ、ご飯をよそったりと、家庭のお母さんなら大抵はその程度は余裕で同時処理をしていると思います。

男性は、意外にその辺が不器用で、私などは何か一つ調理をしていると、それ以外のことがまったくできなかったりします。

仮にいくつかのことを同時に行ったとしても、必ずそのうちのどれか一つがメインとなって、それ以外のことが疎かになってしまいます。

それは日常的な生活の中ではやや不便かもしれません。けれども、考え方によっては器用貧乏という言葉もありますね。

少し話しがずれますが、本来、今この瞬間自分が何をやっているのかということに意識を集中し、そのことを丁寧に実行することが大切なのだろうと思うのです。

それは、思考に乗っ取られる代わりに、思考の主人として今を目撃しつつ生きるということに繋がるからです。

大事なことは、何をしたかでも、どれだけしたかでもなく、どれくらい丁寧に今と向き合うことができたかなのでしょうね。

内側の種を見ること、中の自分を見ること

確か、osho の言葉だったと思いますが…

文中の次の言葉に惹かれます。

「この存在は、あなたを通してある運命を成就しようとしている。」

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毎日、 起きては働きに出かけ、わずかの金を稼ぎ、夜には眠り、夢を見る。
朝になるとまた、車輪は回り続け、しかもどこにも到達しない。
最後には死だ。
それなら、なぜ待つ。
なぜこの無意味なことを抹殺してしまわない。
なぜ自殺しない。
なぜそんな無意味なことのために、それほど心配したり、
負担を感じたり、やたら不安になったり、苦悩したりするのか、と。
これは倫理的な結論だ。

未来を望めば、意味はない、ということを理解することになる。
しかし、もし あなたが、本当に意味を求めているなら、
その方法は、種を見ることだ。
そして、その種とは、今ここだ。
だが思考(マインド)は未来を見たがる。
その方が易しい。
種を見ることは難しい。
それこそがサダナ(修行)のすべてだ。
それこそが骨の折れる努力のすべてだ……種を見ることが。

なぜなら、種を見ようとすれば、
別の質の視力が要ることになるからだ。
第三の目が必要になる。
通常のこの目は、その殻までしか届かないからだ。
だが、不可視のもの、秘められたものは、その中に隠されている。
この目は、深くは届かない。
それほど深くを見ることはできない。

洞察力のある、 今の今、種が何を運んでいるかを
見抜き得るような異なった質の目が必要なのだ。
外側を見たら、見抜けない。
視線は肉体に、種の殻につき当たるからだ。
もし本当に種を見たかったら、内側を見なさい。
そうなれば、もう殻は問題ではなくなる……
内側では、 あなたは種でもあるからだ。

あなたはこの存在に属している。
あなたはそこから生まれて来た。
この存在は、あなたの中にひとつの青写真を持っている。
この存在は、あなたを通してある運命を成就しようとしている。

内側を見なさい。
そうすればもう外の殻など問題ではない。
あなたは既にその中にいるのだ。
これが瞑想の何たるかだ。
内側の種を見ること、中の自分を見ることだ。

思考の届かないところに真実がある

この世界では、実に様々な物事がただ起きては消えてを繰り返しているだけなのです。ただそれだけのことなのに、そこに行為者と行為をでっち上げて、そこに意味を見出そうとするのが、思考です。

行為を行う行為者の代表選手は、他でもない「私」です。そして、「私」はこの世界の中に確かにいる、そう信じているのも思考によるものです。

思考そのものには、良いも悪いもありません。実際、思考には何かを起こすようなパワーなど、これっぽっちもないのですから。

思考は、単なる解説者なのです。その解説を聞いていると、確かに面白おかしく感じさせてくれることもあるでしょう。

解説者が時には、コメンテーターにもなるし、評論家になることもあるかもしれません。けれども、起きている事象にどれほどの解釈をしたとしても、それと起きる事象とは関係ありません。

野球の試合は、アナウンサーや解説者がいなくても、何の支障もなく行われるのと同じことです。思考とはそういうものです。

したがって、例えばあなたが何か大切なことを思いついたとしても、それは単に思いつくという事象が起きただけで、あなた自身に思いつくパワーがあったわけではありません。

それを思考は、あたかもあなたがあなたの力で思いついたのだと解説してしまうのです。それを、信じてしまっているだけなのです。

私たちは、思考至上主義に知らず知らずのうちに、陥ってしまっているということです。思考が止まれば、物事を解説するナニモノもなくなり、ついでに「私」も消えてしまいます。

思考がなければ、人生という物語すらなくなってしまいます。日頃私たちが執着し、喪失することを恐れているものも、一瞬にして消えうせてしまうはずです。

本質的な平安とは、思考の中には決してありません。思考は、いつも騒がしくて、落ち着くことができないような構造になっているからです。

勿論、真実も思考の外側に広がっているのでしょうね。思考が自らの限界を知り、真実に白旗をあげるとき、ようやく真実に抱かれることになるはずです。

未来というすばらしい贈り物

私にとって、この2012年という年は、何となく「終わっていく」年なのかなという感じがしています。それがマヤ暦の最後の年であるということと、関係があるのかどうかは分かりませんが…。

何かが始まれば、いずれは終わるのですが、終わるということは、何かの始まりでもあるのですから、今年は「始まる」年であるとも言えます。

こうしたことは、何にでも当てはまりますね。人との出会いがあれば別れがあり、また別れがあれば新しい出会いが訪れるのです。

生まれたものは死に、その死によってまた新たな生が芽生えることになるのです。こうして、物事は連綿として続いていくだけです。

本当はただそれだけなのに、私たちは自分に都合のいいものを喪失することを受け入れられずに、そうした変化を恐れてしまうことになりがちです。

そこにこそ、過去への執着と同時に未来への不安に縛られてしまう危険が横たわっているのです。それが葛藤を作り出し、苦悩の中に閉じ込められてしまう原因となるのです。

私の場合、来年から自分が何をしていくことになるのか、今のところさっぱり分からない状態でいます。ともすると、不安に巻き込まれそうになることもあります。

そのときに、不安は不安としてしっかり逃げずに見つめてあげることが大切です。不安と一つになると、不安は消えてしまうからです。

そうすると、終わっていくことに感謝しながらも、これから始まることをすばらしいプレゼントして、歓迎するという気持ちになれるのです。

ホラティウスの言葉で次のようなものがあります。いつも心に留めておきたいですね。

『未来がどうなるか、あれこれと詮索するのをやめよ。 そして、時がもたらすものが何であれ、贈り物として受けよ。』