この人生を、不思議と感動を融合した物語にしたい

今地球上で暮らしている70億の人々には、それぞれ70億個の人生という物語があるわけで、一つひとつの人生にはすべて違いがありますね。

自分の人生をずっと見てきて思うのですが、この人生はさほど見ていて面白いものではないなという感想なのです。

それはきっと、自分を最優先する人生、常に自分のために、それを貪欲に貫き続けてきた人生だから、物語としては面白みに欠けるのかもしれないなと、今になって思うのです。

これまでは、それでもいいと思っていました。つまり、人生を誰かに見てもらってそれを喜んでもらえるようにすることは、意図していなかったからです。

如何に自分が快適に、つつがなく毎日を過ごせるかということが大事だったのですから、当然といえば当然の結果なのです。

けれども、ここにきて、この人生という物語を深いところからずっと目撃している本当の自分という存在に気づいてしまったのす。

そうなると、どうも人物としての自分がただ安泰であればいいというだけでは何ともつまらないと思うようになったのです。

映画やテレビのドラマなどであれば、ただ観ることしかできないのですが、この人生という物語では運のいいことに、自分が参加しているわけで、自分がもっと面白いものにしようと思えば、ある程度はそのように変えていくことも可能かもしれないと思うのです。

私は、謎に包まれた不思議な話しと、感動することを融合したような物語に興味があるので、そのような人生に今からでも挑戦してみようかという気持ちになりかけています。

深いレベルでは、この自分がコントロールできることはないのですが、この自分の気持ちの変化は一体何を意味しているのか、今興味深く見ているところです。

存在の非対称性が愛を起こす

「目の前に、AさんとBさんがいる」という場合、実は根本的に異なる二つの世界感がそこには広がっているのです。

一つ目は、AさんとBさんと、それに私もそこにいるという世界です。勿論、これがごく当たり前の状況のように誰もが感じるはずです。

もっと詳しく表現すれば、自分という存在の外側に世界があって、その中にAさんとBさんがいて、私は私の内側からそれを目撃している、ということです。

私という存在は、この世界のある特定の領域(肉体)を占有して、その内側に入っているということが暗示されているということです。

そして、そのことはAさんとBさんについてもまったく同じことが言えるというように想定しているのです。結果として、三人の存在の仕方は対等であるということです。

この対等性から、個々の違いがあり得ないくらいに肥大して、それを比較して評価することが起こるために、人々は苦悩するのです。

一方で、二つ目の世界というのは、ただ単にAさんとBさんがいる世界が見えているということです。

そこでは、一つ目の世界のように、二人を見ている私という存在はないということです。ただ、二人を含む世界を見るということが起きているということです。

この「存在の非対称」ともいうべき世界感が広がっているときには、純粋な愛が起こる可能性があらわれますし、本当の分かち合い、本質的な意味での心を一つにするということが起きるのです。

この世界感にするためには、AさんとBさんを見ていながらも、その方向を反対に向けて、彼らを見ている場所を見ることによって簡単に起こすことができます。

そのときには、外側の世界を見ているという幻想も同時に消えて、実際にはあらゆる姿かたちをした世界という自己を見ていることだけが起こるのです。

本当の救いとは、こうした世界感、私が消えて、その代わりに世界を手にした時に起こるのでしょうね。
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久しぶりに目に留まった他人の言葉

昨日いつものように、ツイッターのタイムラインを流し読みしていたら、毎日のように大量に投稿し続けているある著名人のツイートに目が留まりました。

普段はその方があちこち出かけた先で撮影した写真を見るくらいなのですが、昨日は記事の内容にとても惹かれるものを感じたのです。

それは以下の内容でした。

『表現者は、ナルシストになりがちだが、それでは二流のままである。自分を離れて、突き放して、利他において初めて一流となる。』

『ホームだけではダメだ。自分が無力となり、途方に暮れるアウェーの闘いに飛び込め! 呼吸をするように、ホームとアウェーを、繰り返せ!』

どちらのツイートの内容も、今の自分の心に突き刺さりましたね。私は自分のことを表現者とは思っていないのですが、こうして気楽にブログで言いたいことをただ書き放っているだけでは、確かに二流以下だなあと思っていたところだったからです。

勿論、二流以下ではいけないということではないのですが、これはいい悪いとか、正しい間違っているということではなくて、満足度の問題なのかもしれません。

「自分を離れて、突き放して、利他において…」というところも、自分には根本的に欠けていると思われる点をするどく指摘された感じがしたのです。

そして、「自分が無力となり、途方にくれるアウェーの闘いに飛び込め…」というのも、ぐさっときました。

というのも、自分はつねにホームに常駐していて、安全なところで能書きを並べているだけだという自覚があるからです。

最近、傲慢になったのか他人の書く文章に対して、あまり感動を覚えたりすることが少なくなったなと思っていたのですが、上の文章はまさに今の私にはとても必要な教訓のように感じたのです。

気づかせていただいて、本当にありがたいことですが、今後どのように実践していくのかが鍵になるのでしょうね。

幼いころに喪失したダイレクト感を取り戻す

今までにも何度か書いたことがあったと思うのですが、私は子供の頃のあるときに、生きていることのダイレクト感を喪失したと感じた経験があります。

他にもっといい表現があればいいのですが、とにかく何か昨日までと違う薄ぼんやりした感覚になってしまったと感じたことがあったのです。

目の前に薄い膜が出来てしまったような感じと言ってもいいかもしれません。今となっては、そうした経験をしたことの記憶があるだけで、もっとリアルに世界を感じていたことの感覚を思い出すことはできません。

それはきっと、私自身が自分の肉体の中に完全にもぐってしまったときだったのだろうと思うのです。そのときには、もうすでに自我はあって自分のことを今と同じように自覚していたはずです。

けれども、まだ無邪気な部分が残っていて、その体験をする前までは、時々は世界と一つの状態で生活していたのだろうと思うのです。

それは考えただけでもすばらしい感覚なはずです。残念なことに、そのときを境に自分をこの身体の中に閉じ込めてしまったのでしょう。

それからずっと、もう二度と身体を度外視して世界と一体である経験をしなくなったのです。だからこそ、ダイレクト感を失ってしまったと感じているのでしょうね。

今のこの感覚というのは、身体という牢獄に自分を放り込んでしまった状態のままでいることからやってくる不快感なのでしょう。

ところが最近、自分が世界を見ている場所に注意を向け続けていると、ある瞬間いつもと同じ目の前の空間がとても新鮮に感じる瞬間がやってくることがあることに気づきました。

今までのところ、その感覚はすぐになくなってしまうのですが、それはまるで重苦しい着ぐるみの外へ出て、直接空気に触れたような感じなのです。

もしかしたら、これが幼いころに感じていたあのダイレクト感に近いものかもしれないと思うようになりました。

自分が身体の内側にいるという、とんでもなくしつこい幻想を手放すことができたなら、あの清々しいリアルな感覚がまた戻ってくるのかもしれないと思うだけで、とても嬉しい気持ちになれます。

瞑想的に生きる方法

忙しく活動している毎日の中で、少しの間であったとしても、伝統的な瞑想に類したことを行う時間を作って、心静かに静寂に耳を傾けるのは心身の健康にはいいことだと思います。

けれども、そうした時間を特別に設けるだけが瞑想ではありません。真に瞑想的に生きるということは、本来いつでもどこでも実はできることなのです。

それは単にどこに意識を向けているか、何に注意を向けるのかということだからです。私たちは通常自分の外側で起こる事象に心を奪われています。

場合によっては、状況やそれに対する自分の心の反応に巻き込まれてしまうことがあるはずです。そうなると、見る方向が一方的になってしまうのです。

それに対して、外側を見るのと同時に、「どこから見ているのか」に注意を向けている状態でいることが可能なのです。

つまり、同時に二つの方向を「見る」ということです。これこそが、普段の生活を瞑想的に生きるということになるのです。

なぜなら、自分がどこから見ているかに意識を向けるということは、自分の本当の姿に注意を向けているということだからです。

それは決して難しいことではないばかりか、これほど簡単なことはないのですが、私たちは自分の中心へ注意を向けることを大抵忘れてしまうのです。

簡単すぎることは、自我にはかえって難しく感じるものなのかもしれません。したがって、見ているところを見続けるためには、日々の練習が必要となります。

その練習はなかなか楽しいものです。私自身、まだまだ練習が足らない自覚がありますので、この方法が完全に習慣になるまで繰り返す必要があるのでしょうね。

幸いなことに、自分の中心を見れば、そこには何一つない完全なる無の広がりがあることは誰にでもすぐに分かります。真実は、いつでも見えるところに開示されているということです。

傷つく何者もいない

私たちは、他人の姿を見るのと同じようにして、鏡に映った自分の姿や写真に撮られた自分の姿を見ることができます。それで、自分とはこんな姿形をしているのだと知っています。

けれども、それは自分の肉体の姿であって、本当の自分そのものではないということも知っています。肉体はこの自分の所有物であり、自分の物質的な側面であると分かっています。

そして、より本当の自分に近いものとしては、自分の心、自分の精神的な側面であると感じているはずです。

それは個人としての意識であるということができますね。その意識の中で、自分という存在がいると分かっているということです。

ということは、最も自分そのものだと思われるものは、他人からも自分自身でも見ることができないということです。

それなのに、普段は誰もが互いを見合って生活しているつもりになっているのです。見ることができない個人の意識の代わりに、それぞれの身体を認識し合うことで、人同士が関係しあっていることにしているわけです。

よくよく考えてみると、これは本当に不思議なことです。自分自身が身体そのものではないと知っているのに、他人のことは身体だと思い込むことができるということです。

外側を見ている意識を、180度向きを内側に向けてそこに意識を集中してみると、これ以上明確にはできないくらいにはっきりと、自分とは見えないばかりかそこには何もないということが分かります。

それはもう個人とはいえません。なぜなら、個人としての如何なる印もないし、他と識別できるものは一つもないからです。

どんなときであっても、このことを意識し続けることができるなら、私たちは常に無防備な状態でいられるはずです。なぜなら、ここには傷つく何者もいないと分かるからです。

プラスもマイナスも同じように受け入れる

この世界には、必ず相反する二つのものが存在します。それらのペアは、どちらが優れているかどうかを決められないものが大多数を占めています。

例えば、高低、熱冷、左右、前後、上下、過去未来、長短など無数にあります。けれども、誰が見てもそこに優劣をつけてしまいたくなるものもあります。

プラスとマイナス、肯定と否定、善悪、正不正、快不快、好き嫌いなどです。そして私たちは都合のいい方ばかりを手に入れようとしてしまうのです。

勿論、不快な環境よりも快適さを求めるのは、人間を含めたあらゆる動物の生存本能からくる、当然のことと言ってもいいでしょう。

けれども、人間だけがそこに本能を飛び越えて強く執着してしまうのです。否定的な自分や環境から逃避して、出来る限り肯定的な環境や自分を手に入れようとします。

しかし、この世界はプラスがあるだけマイナスもあるのです。肯定的な感情がある分だけ否定的な感情も湧くことになるのです。

これがこの世界の法則です。マイナスを避けて、プラスにばかり近づこうとすると、実は深刻な弊害が起こってしまいます。

せっかく状況がマイナスからプラスへとシフトしても、プラスを心から歓迎して喜ぶことができなくなってしまうのです。

それは、状況がマイナスだったときを十分に体験せずにいたために、それがプラスの状況に変わったあとも、内面的に追ってくるからです。

そして今度は逆に、プラスからマイナスへと状況がシフトしたときに、プラスを充分堪能していない分だけ、マイナスへとシフトしてしまったショックが大きくなるのです。

結局、プラスへの執着とマイナスからの逃避の人生は、状況がどちらにシフトしても深く人生を生きている気がしなくなってしまうのです。

人生は絶えず揺れ動く振り子です。プラスが来れば、次にマイナスに変わるのです。事象そのものは一時的に停滞しているように見えても、必ずいずれは反対側へと振れるのです。

本当に停滞してしまうとしたら、それは自分の心の中にあるプラスへの欲望と執着、そしてマイナスからの逃避、この生き方こそが心理的な停滞を引き起こす元凶だと知ることです。

「覚醒」はどこへも連れて行ってはくれない

人は人生でいろいろなことを試し、チャレンジしてその結果を手に入れて、満足するということを繰り返すこともできます。

けれども、どの満足もしばらくすると、どうしたわけかスルッと自分の手からすり抜けて行ってしまうということに気づいてしまうのです。

そうして、今度は違う種類の目標を見つけるのです。それは、本当の本質的な精神的満足はいかにしたら得られるのかということです。

その究極の境地として、覚醒することにエネルギーを注ぎ込むようになる人もいるかもしれません。さまざまな目覚め体験をすることもあるでしょうし、崇高な心境がやってくるかもしれません。

それでも、残念なことにやっぱりどんな体験をしても、それは一過性のものでしかないということに突き当たることになります。

そしてようやく、あらゆる種類の努力、目標に向かって突き進むことのばかばかしさを感じるようになってきます。

覚醒するという目標は、それを目指す自己がいるかぎり、決して達成することはできないということにも気づいてしまいます。

それは何と言う皮肉なことなんでしょう。どれほど頑張っても、その頑張る張本人を消し去ることなど不可能なことです。

誰も、自分の心から自分自身を追い出すなどという芸当をやってのけられる人などいません。それは結局、覚醒「した」人はこの世には一人もいないということを意味するのです。

ここで初心に戻って、なぜ覚醒したいという願望を持ったのかを思い出すことです。その願望の奥には、別の願望があったはずです。

それは、例えば私の場合には、肉体的な苦痛から永久に開放されたいというものだったり、心が傷つくことを恐れて、それを超越したいという願望があったのです。

こうした願望を、覚醒することによって手に入れられるという間違った思い込みをしていたということに気づいたのです。

実際、覚醒することは、どんな特別な状態へも自分を連れて行ってくれるなどということは決してないのです。

都合の悪い苦しみや痛み、恐れなどを超越しようとする代わりに、私たちには今すぐできることがあります。

それは、そうしたものに向かって何もせずに、ただそれと共に居続けるということです。物理的な言動のことを言っているのではなくて、精神的に何もしないということです。

そして、そこにこそ、本質の自己がこの自分の中でそれ自身に目覚めるというチャンスがやってくるのでしょうね。

この世のすべては結果でしかない

この世界はすべてが結果で満ちています。何の結果かといえば、あらゆるものの源泉であるパワーが起こした現象としての結果です。

それなのに、私たちは常にこの世界の中に、その結果の基となる原因が必ず存在するのだと信じているのです。

残念ながら、私たちに唯一の原因たる源泉を知ることは不可能です。もっと正確に言えば、私たちの思考によって源泉を捉えることはできないということです。

けれども、思考は原因を見つけ出そうと探し回るのです。そして、勝手な解釈を作り出しては、原因を見出したと信じて、そこで自分は理解したとするのです。

思考による理解とは、所詮そういう独りよがりのものに過ぎません。その思考を一時的にであれ停止してしまえば、あらゆることが結果だという直接体験をすることができます。

そこには因果関係というものがありません。ただ、起きているとしか言いようがないのだということを直接知ることになります。

原因だと思えたことも、実は源泉のパワーによって引き起こされた事象であり、それも結果でしかないということ。

このことに気づくと、それまでいかに自分の思考による身勝手な解説をし続けてきたかということを、思い知らされることになります。

思考は単なる解説であって、いかなることを起こすパワーもありませんし、だからどんな結果に対する原因にもなりようがないということです。

自分が何を思考するかということすら、源泉によって引き起こされた結果なのですから、この宇宙のあらゆる現象と何の違いもありません。

そして、私たちが自分は個人としての意識だと信じているのは、実は思考に過ぎません。つまり、個人も単なる結果として起きている事象だということですね。

個人の意識を絶対的な意識に向ければ、それこそが真に唯一の結果ではないものだということに気づくはずです。そして、その純粋な意識こそが源泉であり、真の自己の姿なのでしょう。

幸せになりたいというしぶとい囚われから開放される

私たちは、どうしたら一度しかないこの人生をより幸せなものにできるのだろうか、ということをあらゆる角度から教えられて大人になります。

勿論、各人によって何が幸せなのかということについては、個人差があるでしょうけれど、いずれにしても個人が自らの幸せを目指すというところでは一致しています。

そして、その条件付けの通りに幸福を求めて、うまいことそれを手に入れられたと信じている人は、その瞬間確かに幸せなのでしょう。

あるいは、どれほど幸せを求めても、どうも不運ばかりが続いて、願ったような現実がやってこないとぼやいている不幸な人もいるでしょう。

けれども、そうした幸不幸というのは決して永続的でないことは明らかです。つまり、私たちが教え込まれたどんな形の幸せであれ、それは一時的なものに過ぎないのです。

更に言えば、幸せを求めて、不幸から逃れようとすればするほど、苦しみは大きくなるという事実は、誰からも教えてもらえなかったのです。

結局、自分が幸せかどうかということが最大の関心事になっている人生というのは、決して満たされることがないと知ることです。

幸不幸というものは、単に物語の中で起こる一過性の流れのことに過ぎないと気づくことです。そんなことに、人生を賭けてしまっていることを正直に認めることです。

自分が幸せかどうか、ではなく、自分は真の自由を知っているかどうかを探求することです。それだけが、幸不幸という物語から開放される唯一の道です。

なぜなら、自由への渇望は、自分を幸せにしようとするためのあらゆる欲望を粉砕する力を持っているからです。

それは、自由を手に入れるということではなく、真の自己こそが自由そのものだったということに気づく、奥深い人生を生きることになるのです。