内側に意識を向ける

子供の頃は、多くの人が手と手を合わせてやや上の方向に向かって祈りを捧げる姿を見て、神はどこか遠くの上の方にいるのかもしれないと思っていました。

人間は下等で、神は精神的に高いところにいる。そんなイメージが自動的についていたように思います。

ところが、いつの頃だったのかはっきりとは覚えていないのですが、きっと大人になってからだとは思うのですが、神は外側にはいない。自らの内側にこそいると直感的に気づいたのです。

その感覚がやってきてからは、内側の世界に意識を向けずに生きているのは、ほとんど動物と同じだという感じがするようになったのです。

人間であるなら、外側の世界と内側の世界の両方をバランスよく意識する必要があると分かったのです。

神が内側に在るというのは、外側よりも内側の世界の方がはるかに大きいということを理解するのと同じです。

外側の世界が一過性の夢のようなもの、儚い幻のようなイメージに過ぎず、内側の世界こそがリアルなものだと。

ただし、あまりにも五感に頼り過ぎて生きてしまうと、内側の世界をどう捉えたらいいのかが分からなくなってしまうのです。

五感は主に自我のものであり、内側を感じるのは意識の範疇なのかなと思うのです。だから、今日も相変わらず意識に意識を向けることを忘れないことですね。 

マインドへの理解を深める

クライアントさんとセラピストである私の違いは、セッションの時に立場の違いがあるということを除けば、ほとんど同じだと言っていいと思います。

ただ一つだけ、ここが違うのかもしれないという点がありますね。それはやはりマインドに対する理解の深さです。

理性における理解ということでは、違いはないのですが、その理解が腹の底にまで浸透しているかどうかは異なるのです。

一つ例を挙げるとすると、他人に対する客観的な理解度の違いです。「あの人は幸せに違いない」とか、「あの人は恵まれているので自分とは違う」という思い込みです。

どうしても、目に見える物質的なことが目立ってしまうので、そういう勘違いをしてしまうのですが、私たちは内面であるマインドに支配されているのです。

そのことを忘れてはいけません。どれほど物質的に豊かであろうと、多くの人に尊敬されようと、稀有な才能に恵まれていようと、社会で活躍していようと関係ありません。

人は自分の幸せアピールを怠らないので、それにも騙されてしまうかもしれません。けれども、その人が真に満たされているかどうかはひとえにマインドの状態にかかっているのです。

そしてそれは簡単には推しはかることはできないのです。もしもあなたが、幼い頃に親から酷い仕打ちを受けたとしたら、その親のマインドの奥にも似たような苦しみが隠れていると思って間違いありません。

自分以外の誰かのことを羨ましいと思うのは悪いことではないですが、相手のマインドの中を覗くこともできないのに、勝手な結論を出すのは馬鹿げたことです。

マインドのことを深く深く理解すれば、自分のことも他人のことも公平に見ることができるようになり、その結果心から幸せな人なんていないということにも気づけるのです。

幸せですか?と聞かれたら、一番正直な私の答えは、「不幸ではない」というものです。幸せなんて所詮は自我の幸福感なので、そんなものは吹けば飛ぶような怪しいものだと知っているからです。

自我とマインドへの理解をもっともっと深めていくことを、是非みなさんにはお願いしたいと思っています。

なぜなら、それができると自分を惨めな存在だと思っているバカバカしい思考が吹っ飛ぶことになり、もっと悠々とした人生を送れるようになるはずだからですね。

人生ははかないもの

少し前のブログでも書いたのですが、私の人生の根底にあるもの、それはどんなものでもやってきては過ぎ去って行く、これです。

これがとてつもない救いでもあるのです。それが喜びであれ悲しみであれ、どんなことでも留まらずにドンドン過ぎていくのです。

それだけ人生というのはつかの間のものだということ、本当にはかないということなのです。それがあるから生きていられるのです。

ところが自我というのは、何であれそれを捕獲して自分のところに取っておこうとするのです。それを執着と呼ぶのです。

執着は自我にとっては自然なものですが、この世界の法則からするとかなり病んでいると言わざるを得ません。

滞れば腐敗するのです。右から左へ淡々と流れていくことの美しさに気づけばいいのです。それが清々しさを感じさせるのですから。

どれほど大切な人と共にいる時間が愛おしくとも、それも他のものと一緒に流れていってくれるからこそ、光り輝くのです。

人生の素晴らしさはそこにあるのだと思います。そして二度と同じことは起きない。常に流れて変化し続けている。

損をしたと思っても、得をしたと思ってもそんなことは川の流れに浮かぶゴミのように消えていってしまうのですから、どうということはありません。

そして全てが流れ去ったとしても、そこにいつも変わらずにいるもの、それこそが本当のあなたの姿なのですね。

人生は物語

クライアントさんというのは、何か困った問題を抱えていて、どうしたらいいのか分からないからこそ、セッションに来られるわけです。

だから、これはどのように対処したらいいのか?あれはどうすれば一番いい解決につながるのか?ということを相談したいのですね。

ところが、セラピストというのはそうした具体的な相談にはのれないのです。それは何故なのかをどう説明したらいいのでしょうか?

一つは体験から分かっていることなのですが、私がこうしたらいいのではないですか、と助言めいたことをしても、それが的を射た言葉だったと思えることがないのです。

そしてもっと根本的なことは、そうした具体的な助言というのは、結局クライアントさんが演じている物語の中に私も一緒に入ってしまうことになるということ。

端的に言って、セラピストの仕事の一つは、クライアントさんが自らの人生を一つの物語として見ることができるように促すことなのです。

ということは、例えばクライアントさんがこの人と結婚すべきか、あるいは別れた方がいいのか、という分岐点にいるときに、その選択を私がすれば完全に物語に加担することになってしまうのです。

選択が正しいとか間違っていると言ったことはないということ。どちらにしても、その物語の中で気づきを得ることができれば万々歳なわけですから。

テレビドラマや映画を観れば、そこにはあらゆる物語が展開されていて、その一つひとつが正しいとか間違っているなどとは思わないのと同じこと。

どのような物語であれ、それを見ることで気づきを得られたなら成功だし、何も気付けなければそれはそれで次の物語を待てばいいのですね。

信仰を落とすこと

また久しぶりに気持ちのいい osho の言葉を見つけました。是非、ご一緒に味わってみてください。

すべての信仰を落としなさい
他人に教わった嘘を、すべて落としなさい
そして無垢に、空のまま
何も知ることなしに進みなさい
そうすればまもなく、すばらしい宝を
すばらしい智恵を、自分自身の中に見つけることができる
それはすでにそこにある
あなたが空の手で来るのを待っている

癒しというのは、これまでに培ってきてしまったあらゆる知識や正しさ、そうしたものをできるだけ捨てていくことを言うのです。

上の osho の言葉と通じるところがあると思います。宗教にハマってしまった人に限ったことではなく、誰もが幼い頃に信仰を持たされてしまうのです。

家族や身近な人々、あるいは学校や社会からそれはやってくるのです。知らず知らずのうちに、膨大な量の嘘を身につけてしまうのです。

その全てを落としなさいと osho は言っているのです。生まれた時のような無垢な状態に戻ることでしか、本当の宝物には出会えないと。

自分の内側深くに入っていくためには、そうした余計なものを捨てて素手の状態でしか入っていけないのだと。

何も信じないこと、信じてしまったらそこで止まってしまうしかないのです。あなたが手の中に握りしめているものを見て、ガラクタしかなかったと気づいて笑えばいいのです。

その大笑いの中から力が抜けて、自分本来の感覚や感性、あるいは才能などが開花することにもなるのだと思いますね。

問題行動で人生を失う

人は自分のことを分かって欲しいといつも思っているのですが、それが叶わないとそれを何とかしようとして行動に出るのです。

それを私は20年以上前から問題行動と呼ぶようにしています。つまり、「問題視してもらうための行動」を略して問題行動と言っているのです。

それは幼い頃から始まります。大人になってから急にやってくるということはありません。ただ本人の年齢によって、問題行動の内容が変化することはあります。

幼い頃は、おねしょやアトピー、小児喘息などがよく知られているものですし、不登校や引きこもりといった形を取ることもあるわけです。

大人になってからは、それこそ社会に出ていくことを拒んで社会生活を棒に振ってしまうこともあるかもしれません。

あるいは、結婚に失敗するなどはごく普通にある問題行動の一つだと考えられます。また、身体の不調や病気として現れてくることもあるのです。

ご本人が自分の本音(自分を分かって欲しい、自分の気持ちを汲み取って欲しい、自分を見て欲しい等々)に気づかなければ、いつまでも問題行動は続いてしまうのです。

問題行動の裏側にあるのは、訴える気持ちなので、当然のことながら満ち足りた幸せな人生を自ら拒否することになるのです。

そうやって日々を問題行動に当てることで、人生の貴重な時間をあっという間に失ってしまうことにもなるのです。

こうしたカラクリにしっかり気づいて、心の奥深くに隠された本音に十分に光を当ててあげることがとても大切ですね。

理想の親とは?

三連休の最終日、柄にもなく山梨県の方に用事で出かけたのですが、その帰り道、中央高速道のとあるパーキングに寄った時のこと。

男子トイレで用を足していたら、私の右隣に若いパパ、そしてその右隣に小学校低学年くらいの可愛らしい男の子が並んだのです。

すると、その男の子がパパに向かって「1時間て何秒?」と聞いてきたのです。パパが何と答えるのか待っていたのですが、パパはしばし沈黙。

余計なお世話なのですが、私が「3600秒だよ」と教えてあげて、「そんな質問を考えつくなんて君はすごいね!」と声をかけたのです。

男の子は少し嬉しそうにはにかんでいたので、「将来有望だね!」と言って別れたのですが、パパが「後で計算しようね」と言っていたのが聞こえたので、パパはそういうの苦手なのかなと。

幼い子供がふとする質問というのは、その子の能力が伸びる方向をしっかりと示していることもあるかもなあと改めて思ったのです。

親が毎日の生活に余裕がないと、そんなちょっとしたヒントも気づかずに見過ごしてしまうのかもしれないのです。

それは勿体無いことですね。やはり、子供にとっての理想の親というのは、気持ちに余裕のある毎日を生きている人なのでしょうね。

マインドの中の夏好き野郎

日本列島の何処かでは大変な大雨による災害が起きているというのに、私が住んでいる東京では猛暑、あるいは酷暑となっていて、日本は広いなと今更ながら感じています。

茹だるような暑さとはよく言ったもので、大人の私は街を歩くのにもウンザリといった感じなのです。

ところが、インナーチャイルドの方は、この暑さを喜んでいるようで、夏休みだあと言ってはしゃいでいるのが分かるのです。

自分のちっぽけなマインドの中に、様々な人格が棲みついていて、それぞれに全く異なる感性、感覚で生きているのです。

普段は、自分のマインドはまるで一枚岩のようなものと錯覚して生活しているのを思い出して、どれほど自分に無頓着なのか思い知らされますね。

昨夜、事務所から駐車場までの少しの道のりを歩いているときに、ある家の前に月下美人が置いてあって、夜8時から9時くらいの間に開花しますと。

そのお宅ではきっと何年も前から育ててきたものなのでしょう。大きな蕾が7〜8つもあり、あれが同時に開花したらすごい迫力だろうなと。

どうしても見たいと思って、8時半ごろに再度見に行ったのですが残念なことにまだもう少し時間がかかるようだったので、後ろ髪を引かれる思いで帰宅しました。

暑くて参るよと言っている裏の方で、やっぱり日本の夏は最高だぜぃ!と喜んでいる誰かがいるようです。元気だな、お前。

モノが見えるとは?

私たちの五感の中でも最も重要なものは視覚だと言われています。それだけ視覚に頼って日々生きているということです。

視覚、つまりモノを見るというのを科学的に説明すると、モノに当たった光が反射して網膜の中に入ってきます。

それを電気信号に変換して視神経から脳へと伝えられ、そこで像を作ることによってモノが見えるということになるわけです。

確かに、目を閉じればモノは見えなくなるので、科学的な説明は正しいのでしょう。それはそれとして、臨死体験をした人や幽体離脱などによって肉体から離れる経験をした人がいます。

彼らはみな肉眼がないのにも関わらず、周りをごく普通に見ることができています。これは、一体どういうことなのか?

「見る」ということをもっと本質的なレベルで考察してみると、それは意識するということだったり、気づいているということなのかなと。

そしてなぜ肉眼がないのに見えるのかというと、本当は全てが自分自身だからなのではないかと。

全てが一人称なので、そこに意識を向ければそれが確認できるということなのです。それに気づいていることになるのです。

ただ自我は自分を個人だと信じ込んでいるので、臨死体験や幽体離脱状態では外側の世界が「見える」という感覚のままなのではないかと。

外側の世界など本当はないので、意識した瞬間に時空を超えて過去、未来のどこへでも飛んで行けるような感覚になるのでしょうね。

死んで肉体から解放されたら、真っ先にそのことを試してみたいなと考えています。

自我の矛盾を理解する

私たちの自我にとって難しいと感じることの一つは、自分を解放するということです。自分を解放すると聞くと、ちょっといい感じがするのになぜそれが難題となっているのか?

それは、自我が自分を解放してしまえば、自然と溶けて消えていくことになると知っているからです。

だからこそその反対である、自分を締め付け、抑圧することを得意としているのです。不自由にさせることで、自我は苦しいけれど生きていくことに関しては安泰なのです。

ここに自我の大きなそして決定的な矛盾があるわけです。自我は矛盾だらけなのです。満ち足りたいと願っているのに、満ち足りたなら消えてしまうのです。

苦しみたくない、安心したいと思っているのに、それが実現してしまったなら生きる力を奪われてしまうのです。

天国に住みたいと思っていても、いざ天国に行くことになったとしたら、生きるエネルギーを失って、勝手に失速してしまうはずなのです。

もう分かっていただけたと思いますが、自我とは自己矛盾の中でそれを誤魔化しながら生きているのです。なかなか辛いものがありますね。

このことをしっかり理解することができると、自我と上手に付き合っていくことができるのです。自我は悪者ではありません。

ただし、自我が自分自身なのだと100%信じてしまうと、もう救いがありません。自我の本性を知って、それをうまく逆手に取ることです。

誰の自我であろうと、それを深く理解することができると、それはそれで可愛いものだと思えるようになるでしょうね。