自我から目覚めれば、愛しかない

愛の定義は難しいと思っている人もいるかもしれませんが、純粋な愛の定義は非常にシンプルで単純明快です。

それは、自分を明け渡すということ。個としての自分が全体の中へと溶けて消えていくこと。もっとシンプルに自分はいないということです。

自分が溶けて消えていくことを良しとするということは、個としての自分を守ろうとしないということを意味しますね。

つまりは、自我の最も得意とする自己防衛をしないということ。無防備ということです。別の言葉で表現するなら、無邪気と言ってもいいかもしれません。

だから幼い子供が無邪気でいるうちは、愛の塊として生きているということです。彼らにはまだ自我がしっかり出来上がっていないのですから。

結局、自我の本質は自分を守ろうとすることなので、自我には純粋な愛が理解できないのです。自我は愛を非常に恐れているとも言えます。

もしもあなたが自分の命を差し出して誰かを助けるとしたら、その時にはあなたの自我は一時的であれ消えている状態なのです。

誰もが本当の愛に憧れています。それが遠くにあるように感じるからですね。確かに自我からははるかに遠くにあって、決して手が届かないのです。

けれども、あなたのマインドのずっと深いところにあの無邪気な頃の小さなあなたが、今でも厳然と存在していて、それこそが愛であることを思い出せばいいのです。

私たちは決して自我そのものではないし、かつては愛として生きていた。それは単純な事実なのです。愛は遠いものではなく、とても身近なものだということですね。 

言葉を使わない練習

街を歩いていて、誰かのお家の庭先にとても綺麗な花が咲いているのを見かけて、「ああ、何て綺麗な花だろう!」とつい口にするかもしれません。

その言葉が、例えほんの少し口を動かすだけで、ほとんどは口の中で小さく独り言のように言ったとしても、やはりそこには言葉があるのです。

そんな時に、心の中でも全く言葉を発せずにいられたとしたらどうでしょう?きっと、見るということにもっと意識を向けることができるはず。

そうなんです。私たちは、色々なものや出来事などを見るにつけ、必ずと言っていいほどほんの少しであろうと、口が動いてしまうのです。

必ずや言葉を発生させてしまっているのです。その結果、ただ見るという純粋で無防備なやり方を忘れてしまっているのです。

そこで是非、言葉を発しないようにする練習をしてみて欲しいのです。どれだけ、見ることに付随して言葉がやってくるのかに気づくはず。

私たちが日頃、どれだけ気付かぬうちに思考(言葉)に依存し切って生活をしているのかを、思い知らされることになるでしょうね。

そして、見るということに言葉がくっついて出てこなくなった時、それは即瞑想的に生きることができるようになったと思って間違いないです。

思うようにいかないは洗脳

人生というのは、そうそう思い通りになるものではないという考えが誰の心の中にもあるのではないでしょうか?

挫折とまではいかないまでも、希望する学校へは入れなかった、好きな人と結ばれなかった、期待通りの成績を残せなかった、なりたい職業に就けなかった等々。

そんなに都合よく物事が進んで行ってくれるなんて事はないと思ってしまうのも無理もないことかもしれません。

けれども、私の中には自分が本当に願ったとしたら、それが宇宙のどこかに届くような純粋で無邪気なものなら、願い通りの現実がやってくるという感覚もあるのです。

この矛盾について考えてみたのですが、実は全く矛盾などしていなくて、自我の作戦がそこにはあるのではないかと。

あらゆることが願い通りになってしまったとしても、その瞬間の喜びや有頂天、大きな快楽などはやってくるでしょうけれど、それが内側の真の満足にはならないのです。

本当に満たされるためには、自分の正体を見抜くことでしかあり得ないのです。それは、自我にとっての存続の危機なのです。

だから、自我は我々を外側の世界に夢中にさせて、真に満たされることがないように仕向けているのではないかと。

そのために、世界は思い通りにはいかないものだという信念を植え付けたのです。そうすれば、日々努力したり頑張ったり戦ったりして、常に外側の世界に意識を向けさせておくことができると。

それは自我にとって好都合なのですね。繰り返しますが、世の中は思うようにはいかないという思い込みは、自我による洗脳でしかないので、もうそろそろみんなでそれを払拭しませんか?

本当は何でも叶ってしまうのがこの世界なのだろうと。そして、それを堪能しつつ、結局は内側の世界に戻って自分のことを明らかにすることに向かうのだろうと思っています。

意識について

一般的に言えば、普通「意識」というのは自覚できるマインドの部分のことであり、「無意識」というのは、自覚できないマインドの部分のことです。

ところが、意識という言葉と深く向き合っているうちに、そういうことではないということに気づくことになるのです。

意識の本質とは、マインドとは無関係なのです。無関係どころか、全く次元の異なるものなのです。

意識こそがこの宇宙の究極の真実であって、それはこの宇宙の次元を超えていると捉えることもできるのです。

であれば、それがこのちっぽけな自分のマインドなどと比べるべくもないと分かるはずです。ただし、意識(目覚めていようがいまいが)はこの宇宙のあらゆる森羅万象の裏側にあるのです。

そういう意味では、私たちのマインドにも意識は張り付いていて、目覚めている意識が自覚できるマインドに、目覚めていない意識が自覚できないマインドに、それぞれ対応しているのです。

そして目覚めている意識が、一部とはいえマインドと張り付いているのは人間だけなのです。他のあらゆる生物は全てが目覚めていない意識とくっついているのです。

そして今更ですが、目覚めている意識とか目覚めていない意識って何なの?ということなのですが、どのように解釈すればいいのか?

きっと、意識がそれ自身に気づいている状態であれば目覚めている意識であり、気づいていなければ目覚めていない意識ということになるのでしょうね。

少し分かりづらかったかもしれませんが、興味があれば自分自身で検証して見るのはきっと役に立つと思います。

物事の道理を知ってる幼い子

この仕事をするようになって、いくつか驚いたことがあるのですが、その一つとして幼い子供の聡明さというのが挙げられます。

子供は無邪気で何も知らず、経験豊富な大人たちから様々なことを教えてもらって、それを覚えて自分のものにして成長していくと思っていたからです。

もちろんそういう子供もいるのでしょうが、生まれ持った敏感さあるいは生まれながらの聡明さ、そして物事の道理のようなものを初めから知っている場合もあるということ。

これは本当に驚きなのです。誰からも教えてもらったわけでもないのに、すごく大切な考え方や法則などをどういうわけか知っているのです。

そうした子供は、普通の大人、そして少しばかり病んでいる親などを見て、すぐに見切りをつけてしまうということもあるのです。

この人たちは何も分かっていないし、話しが通じるということもない。愛情にも欠けていると判断して、諦めと絶望と共に生きることになるのです。

そうなると、その子は3歳だろうが4歳だろうが、無邪気さを無くしてしまって、親の期待に応えながらどうやったら生きながられるかを考えるのです。

半ば奴隷のようになって、自己表現をすることもなく、何かを訴えるでもなく、淡々と毎日をやり過ごすことになるのです。

その子のマインドは想像するのも嫌になる程、きっと孤独に満ちているはず。なぜなら、家庭の中に味方がいないのですから。

誰にも甘えられず、それでも愚痴一つ言わずに生きていく。できることと言ったら、心の奥深くで親を見下すことだけです。

受け止められた経験もないので、自分の存在価値を知ることもないのです。その結果、人生は問題行動の嵐と化すことになるでしょう。

ご本人がこうしたことのカラクリにしっかり気づいて、一歩ずつ確実に問題行動を起こし続ける原動力を見つけて、そこを癒していくことが絶対的に必要ですね。

右脳はすでに悟っている!?

あまりこのブログで人間の脳について書いたことはなかったと記憶しているのですが、それは普段私自身が自分の脳について考えることがないからです。

とはいえ、脳をベースに考えていくことも可能かなと思い、今日は脳ベースの話をしてみたいと思います。

ご存知の通り、脳は右脳と左脳に真っ二つに分かれています。両者は脳梁というところで互いに繋がってはいるものの、ほとんどは全く別人格のように綺麗に分かれているのです。

右脳は論理がなく、主に感覚や感情を司るのであり、一方の左脳は論理的言語的で思考によって活動をしているのです。

ということは、左脳が自我の大部分をまかなっていると言えるのではないかと思います。左脳は、心理的な防衛と過去と未来を中心に思考するのが仕事です。

であれば、右脳は今この瞬間にずっと在るということですね。瞑想して思考を停止するということは、端的に言えば左脳の活動を停止するということかもしれません。

日頃から右脳を優位にしていることができれば、瞑想状態に近い感覚で生きているのと同じことになるのかなと。

ということは、えっ、右脳はもうすでに悟っているということ?自我がどれくらい右脳に関わっているのかにもよるのでしょうが…。

自我の正体を見抜く

私たちが自我として生きている限り、周りの世界から分離しているという共通認識のもとに生活をしているのです。

その分離感からやってくるのは、恐怖と孤独です。自分という個は、生まれてから死ぬまでずっと独りであることが確定しています。

もちろん、さまざまな幻想を持つことは可能です。相手を思い切り抱きしめていれば、一心同体になれるとか…。

大勢に囲まれて、みんなに見守られていれば孤独ではなくなると思ってみたり。子供であれば、お父さんとお母さんに挟まれて寝れば一人ぼっちじゃない等々。

けれども、あらゆる幻想を捨ててしまえば、完全なる孤独であることを思い知ることになるのは明らかです。

恐怖と孤独を誤魔化すために、欲望が生まれました。欲望を達成することができれば、恐怖も孤独も消えてなくなるに違いないという、切実な願い。

それが叶った試しはないのです。なぜなら、恐怖と孤独は個体である限りは絶対についてくるものだからですね。

しかもその欲望こそが、自我を存続させるだけでなく、私たちを苦しみへと導く張本人なのです。でも欲望を無くすなんてことはできません。

じゃあどうしたらいいのか?自我という個体こそが幻想であるということを見抜くこと。その分離感は偽物だったと気づけば、恐怖も孤独も消えて、全ては一つという愛だけが残ることになるのですね。

身体を動かさずにいると…

瞑想をしていて感じることがあるのですが、それは瞑想中に身体を動かしてしまうと、どうも感覚を普段の状態へと戻されてしまう傾向があるなと。

だからこそ瞑想中は、なるべく身体を動かさずにいるようにするわけですね。けれども、それはどうしてなのか?

私なりに導き出した答えなのですが、身体を動かすということは空間内を移動するということを意味しますね。

それはとりも直さず、自分は局所的な存在であるということを印象付けることになるのです。そうやって、個体として空間から分離しているという確固とした感覚を絶やさないためなのかなと。

身体をなるべく動かさないでいるようにする方が、全体性の感覚がやってきやすいのもそのためなのだろうなと。

全体性の感覚とは、時空はない(幻想である)もしくは、時空を超えているというものです。どちらも同じことです。

子供の頃、身じろぎもせずにじっとしていることがなぜか好きでした。あの頃は自覚はなかったですが、今思い返すとそうやって全体性の感覚を取り戻していたのかなと。

子供の頃は、この世界にやってきてからまだ日が浅いだけあって、来る前の感覚が色濃く残っていたりするのかもしれませんね。

内側にこそお宝が在る

私たち自我の特徴は、周りの人々や出来事への関心ばかりで、一向に自らの内側を見ようとしないということです。

外側の世界は華々しいことが山ほどあるし、魅力的な人やモノにも溢れかえっているように思えるので、仕方のないことかもしれません。

けれども、外側の世界と共に暮らしているあなた自身は、実は内側にこそ在るのです。だから、おかしなことになっているのです。

人生のどこかのタイミングで、内側を覗き込んでみる必要があるのです。自分のマインドの中は一体どうなっているのだろうか?

自分自身に無関心のまま、人生を楽しむことなど本当にはできないと知ることです。とはいえ、内側なんて見たことがないので、見方が分からない。

そういう声が聞こえるようですが、それは無理もないことです。ずっとずっと外の世界にばかり囚われて生きてきたとしたら、すぐにその視線を内側に向けるという意味すら不明でしょう。

でも安心してください。時間をかけてじっくりとゆっくりと、自分のペースで意識を内側に向けるということを工夫しながらやっていけばいいのです。

内側の世界にしばらくいるだけで、外側の世界の見え方が変わってきます。どちらが本当でどちらがイミテーションなのか。

まず何かを見ていなければならない時以外は、とりあえず目を瞑る習慣をつけてみるといいと思います。

視界がブロックされるだけで、自然と意識は内向きになっていってくれるのです。そしてそこにこそお宝が埋蔵されていることに気づけたら、人生が大きく変化してしまうでしょうね。

裁くマインドを使わない

この人間社会で暮らしていれば、必ず何が正しくて何が間違っているか、何が道徳的で何が非道徳的なのかと言ったことがやってきます。

もしかしたら、そんなことばかりを気にしながら生きている人だっているかもしれません。これに関しては、自我の一つの特徴でもあるのです。

自我がこうした考え方に依存してしまうのは、それを自己防衛として利用できるからなのです。自我の目的は自分を守りたい、安心したい、これだけです。

自分自身や他人の言動を見るにつけ、いつもそれは正しいことだ、それは間違ったことだとやっているのなら、防衛ど真ん中の人生だと気づくことです。

誰のマインドであれ、こうした傾向が大なり小なりあるのですが、大事なことはそれを優先的に考えるかどうかということです。

あの男性は可愛い子供が何人もいるのに、外に愛人を作っているのは人間として許されるものではないとか。

あの政治家は日本のことを考えずに、自分の私利私欲のために他国に我が国の情報を売っているような売国奴だとか。

善悪の判断によって、他人を裁く目的は単に防衛なのです。そのことに気づかなければ、自分は正しい判断をしているだけだとして、永久にこの防衛の人生から抜け出すことはできません。

善悪、正不正の判断をしなくなるなんてことは自我には土台無理なことです。けれども、その優先順位を下げる練習はできるはずなのです。

物事を裁くマインドを担ぎ上げないようにすることです。それがあってもそれを使わずにやり過ごすことができれば、人生の見え方が大きく変わってくるはずです。

正しさは、とても大事なことのように思えてしまったとしても、それは防衛が習慣化してしまっただけだと気づくことです。

本当に大切なことは、決して正しさなどではなく、気づくこと。深く気づくことができれば、やってきた甲斐があったというものですね。