内側と外側の話 その2

昨日のブログで、内側の世界と外側の世界を明確に分けること、ごっちゃにしてしまうと内も外も台無しになってしまうということを書きました。

その一つの例として書くのですが、例えば幼い頃にずっと寂しくて寂しくて仕方がない生活を送ってきたとします。

内側の寂しさを内側のこととして、それをしっかり味わうことができたら理想なのですが、幼い頃にそんなことができるはずもありません。

大抵の場合、寂しさを外側の何かで誤魔化してしまおうとするのです。ゲームをし続けるとか、スポーツに熱中する、勉学に励む等々。

いずれにしても、外側の何かに没頭することで内側の寂しさを感じないようにして生きるわけです。

そのまま大人になると、今度は仕事を頼みの綱として毎日打ち込むことで、寂しさを忘れてしまうことができるのです。

そんな人生をずっと続けてきて、あるときに何かの都合で仕事をやめてしまったなら、それまでずっと奥に隠してきた内側の寂しさが出てきてしまうのです。

きっとそれは本人にとってはとても辛いことになるはずです。もう外側の何かでは誤魔化すことができなくなってしまったので、直面するしか道はないのです。

それができなければ、自ら人生を終えることを考えるかもしれません。いついかなる時からでも本当は遅いということはないのです。

内側と外側を混同してきたことに気づいて、内側のことは内側の世界だけで完結するように自分との向き合い方を工夫することが必要なのです。

独りでは無理であれば、プロの力を借りるということを積極的に考えることもありだと思いますね。

二つの世界を明確に

私たちは誰もが二つの世界で生きています。一つは内側の世界であり、もう一つは外側の世界ですね。

ところが、そのように内と外を明確に分けて生活している人は少ないのかもしれません。その証拠に、内側が満たされていないのを外側の世界で代用しようとしてしまうのですから。

内側と外側は確かに連動しているのですが、だからと言って外側のものを内側に入れ込むことはできないのです。

ここをはっきりさせておくことがとても大切なのです。そうでないと、いつまで経っても実りのない、不可能な努力を続けた末に死んでいくことになってしまいます。

内側というのは自我のいる場所です。自我は外側の世界のいかなるところにもいたためしはありません。誰の自我であろうとそれは同じです。

確かに身体は外側の世界に直接接触してはいますが、やはり身体は自我ではないのです。内側に閉じ込められている自我の特徴は、欠乏感です。

いつも足りないという感覚で生活してるのです。そして、誰もが間違ってしまうのですが、内側で足りないという感覚をなんとかしようとして、外側で何とかしようとするのです。

ところが外側の世界で何を手に入れようと、内側にいる自我の欠乏感が消えることは決してないのです。だからこの努力は虚しいのです。

外側の物質的世界を豊かなものにすることと、内側を満たすことをそれぞれ別々にバランスよく進めていくことです。

外側の豊かさは、元々があなたの思考によって作られた宇宙なのですから、外側の豊かさはあなたがそのことに気づけば保証されているものです。

一方の内側の豊かさについては、自我という偽りの自己に気づいて真の自己に目覚めるなら、そこには豊かさ以外の何ものもないと気づくことになるはずです。

内外ともに元々豊かであるということに、早く気づきたいものですね。

この世界の法則に救われる

この世界の一つの大きな特徴あるいは法則と言えるのですが、それは「あらゆる物事は通り過ぎて行く」というものです。

何かが居座って延々と続いて行くものなどないという事です。ごく当たり前の事ではあるのですが、生きる上での私の大きな支えになっているのです。

私の根本にあるのは、嬉しいことであれ辛いことであれ、何であろうとドンドン通り過ぎていってくれ、というのがあるのです。

よく、幸福感に包まれている時に、この時間が永遠に続けばいいのにというセリフを聞くことがあるのですが、私には当てはまりません。

何故かはわかりませんが、とにかく通り過ぎることが健全な感じがするのですね。物事は滞ると腐敗してしまうと思っているようです。

もちろん辛い事があれば、どんな理屈も関係なく早く通り過ぎてくれと祈るのです。そしてその祈りが届かなかった試しはありません。

だからそれでいつも救われるのです。絶対に救われると決まっているのです。それがこの世界の掟だからですね。

渦中にいる時には、通り過ぎるのに時間がかかると感じてしまったとしても、通り過ぎてしまえば、あっという間だったという事になるのも知っています。

だからこの世界が一過性であること、その儚さには感謝しかありません。

相手の防衛を見抜く目

もういつ来てもおかしくないとまで言われるようになった首都圏直下型大地震のことを考えて、42歳という高齢となった我が家はちょうど建て替え時なのかなと考えていたのです。

そんな折、生まれて始めて住宅展示場なるところへ出向いて、いくつかのハウスメーカーでいろいろ話を聞くことができました。

どの営業マンもそれなりに優秀で、テキパキと概算見積もりを作ってくれたりして、好感が持てる感じでした。

ところが、話を聞いていて何となく腑に落ちないと思ってしまうと、率直に質問をしてしまい、そこから議論が展開されたりするのです。

どうしても大人しく聴く側に徹することができない性分らしいです。営業の方からすると、少し面倒な客が来たなと感じているかもしれません。

私が敏感に反応してしまう時というのは、どうも何かを隠しているように感じる時なのです。つい疑ってしまう。

猜疑心が強いだけなのかもしれませんが、その辺りの鼻が効いてしまうのです。そして、営業マンは大抵窮地に追い込まれてしまいます。

私はそんなつもりは毛頭ないのですが…。ウソというのは、いずれはバレるものです。正直者は損をするという諺がありますが、長い目で見たら正直者の方が得をするとも言えるかなと。

相手の自我がどういう防衛をしようとしているのか、そこに意識を向けてしまうというのは、一種の職業病なのかもしれませんね。

分別のある子は危ない

どんな人でも生まれてくる時には、無邪気で無防備な状態でやってくるのです。その姿は私たち人間にとって、一番輝いている時なのです。

生まれてしばらくすると、その子によって差はあるのですが、次第に知恵をつけていって、少しずつゆっくりと防衛を始めることになるのです。

それが自然な形で少しずつ進行していく分には問題ないのですが、早いうちから無邪気さを失って大人のような分別を使うようになった子は、非常に危険なのです。

なぜなら、無邪気で無防備で過ごす大切な時間を、早々に切り上げてしまうわけですから、その皺寄せが大人になってから必ずやってくるのです。

例えば大人になると、どれほど訴えたところで現実が変わることはないと知って、半ば諦めてしまうとか、相手の立場を尊重し過ぎることで、自分の本音を抑圧してしまったりするのです。

こんな生き方を幼いうちから覚えてしまえば、誰が見ても明らかなようにその子は抑圧的な人生を生きることになってしまうはずです。

幼い頃の寂しさや悲しさといった自然な感情は、親の気持ちや大変さなどを知って早いうちから隠されてしまうのです。

子供によっては、そんなことは知ったこっちゃないとばかりに、自然な気持ちを訴えることができる場合もあるのです。

どちらが子供にとって自然な生き方かは明々白々ですね。もしも子供の頃に分別を持った大人のように生きてきたという自覚があるなら、しっかりと癒しをしていく必要があると知ることですね。

好奇心が邪魔をする

幼い子供は、どうして?どうして?を連発する時期がありますね。最初のうちは可愛いのですが、度が過ぎると面倒になってしまうのです。

あれは我々人間が持つ好奇心が発動しているのでしょうね。だからそれは決して悪いことではないのです。

私は、大人になってもそういう面が残っていて、催眠療法のクラスなどでよく質問をしていました。講師の方にとってはやや煩わしい感じがしたかもしれません。

疑問を持つというのは、健康な自我にとっては当然のことだと思っているのですが、こと真実に近づこうとする場合には、ちょっと話が変わってくるのです。

なぜなら、疑問を解明したいという欲望は自我のものであり、疑問の中にいれば自我がそれだけ強くなってしまうのです。

ビッグバンで宇宙ができたのなら、それ以前はどうなっていたのか?など疑問を持てばそれが連鎖して新たな疑問が無限にやってきます。

自我にとってはそれがとても魅力的に感じるのですが、そういった欲に引っ張れることなく、ただこの瞬間に在ることができれば、自然と真実は見えてくるのです。

真実を解明しようとすればするほど、自我の存在が邪魔になってしまうというトリックに気づく必要があるのです。

この世界で好奇心を持って生きることと、内側に入って疑問のないただ在る状態でいることを両立できるようにしたいものですね。

自己想起を忘れずに

今日は仕事をお休みして、血液検査の結果を聞きにクリニックまで行ってきました。人気があるのか、それなりにいつも混んでいます。

待たされるのを覚悟して、しばし静かにしていると、隣とその隣の席で待っているおば様二人が何やらずっと話しているのです。

うるさいと思えばうるさいけれど、それほどでもないかと思えばそれほど気にするまでもないといった微妙な声の大きさ。

話しが途切れることがないので、自分にはできない芸当だなと思って、一体何を話し込んでいるのだろうと1分少々耳を傾けてみたのです。

その結果、日本語としては勿論聞き取れるのですが、何を会話していたのか私の中に響くものが何もなく、結局何を聞いていたのかも分からず仕舞い。

何であれだけ途切れることなく話し続けることができるのか?本当に分からない。しかも当然のことですが、無意識状態なのだろうなと。

自分が話をしているということに意識を向けるということがないのでしょう。他人のことは、本当によく分かるものですね。

自分自身も無意識に話し続けることもあるのだろうなと思って、一定時間経ったら我に戻って会話をほんの少し中断して、意識を自分に向けるようにしなければなと。

他人の振り見て我が振り直すじゃないですが、改めて自己想起の大切さを痛感しましたね。みなさんも忘れずに、自己想起、自己留意を心がけてみてくださいね。

カラダさん、ありがとう!

目に見えない精神は崇高なもので、物質的なカラダは低俗なものという考えは、とても馬鹿げたものだと気づかなければならないですね。

カラダを痛めつけて修行をする行者の姿をイメージできますが、それはあまりにも理不尽な感じがしてしまいます。

自分を生かすために、カラダが瞬間瞬間どれほどの過酷な仕事をし続けているのか、それをつぶさに見ることができたら、きっと圧倒されてしまうはず。

どれほど鈍感な人でも、感謝の念を禁じ得なくなってしまうでしょう。一つひとつの細胞の中に繰り広げられる奇跡の連続。

それを普段全く気づくことなく、当たり前のように生活してしまっているのです。そればかりか、精神のストレスをカラダに横流しまでしているのです。

精神的ストレスがカラダを無惨に痛めつけてしまうことは、薄々誰もが気づいていることでもあるのです。

例えば、ストレスは胃を収縮させてしまうばかりか、他の臓器にも多大な負荷を与えてしまうのです。ストレスは毒化してカラダ中を駆け巡るのです。

それは血管の中に入り込み、カラダはそれを体外へ出そうとあらゆる努力をしてくれます。肺からは咳によって、腸からは下痢によって、皮膚からは様々な炎症として。

可哀想な腎臓は普段の解毒仕事に加えて、その何倍もの負荷を与えられてしまうはず。それを考えたら、やはり瞑想することが大事かなと。

ストレスがやってくるのは仕方がないとしても、それをカラダにお願いするのではなく、精神のレベルで解放してあげることがとても大切なのでしょうね。

身体は正直に反応する

この一週間というもの、朝昼晩と毎日欠かさず血圧を測るようにしていて分かったことがありました。

それは、今朝ちょっとえっ?と思うようなメールをもらって、なんだそれと若干憤慨したのですが、それでも気を取り直してまあいいやと。

その直後に測った血圧がけっこうな高血圧レベル。このところずっと正常値をキープし続けていた優良血圧君が急上昇してしまったのです。

そんなはずはないと思って、再度測定したらもっと上がってしまう始末。気を取り直して、瞑想すること5分。

ああ、セロトニンが分泌されてきたかもと思ってから、もう一度血圧を測ったらありがたいことに正常値に戻っていました。

戻ってくれたのは嬉しかったのですが、あの程度のほんの些細な事象でストレスを感じ、それによってあっという間に高血圧に変身してしまうとは。

ストレスへの耐性があまりにも低すぎではないかと。表面的には、自分はそんなに弱いマインドの持ち主ではないと思いたいので、ショックを抑圧してしまうのでしょうね。

ところが身体は正直に反応してくれていたのです。教えてくれた身体に感謝をすると共に、なるべく身体からのサインを注意深く見守るようにしたいと思った体験でした。

ゾルバ・ザ・ブッダが理想

かつての仏教徒などの出家者が行う修行として、托鉢と言って信者の家々を巡って食料などを乞う、いわゆる乞食行というのがあったのですね。

人間の欲というものを完全に否定して苦行を積むといった感じで捉えているのですが、私はそういうのが本当に苦手なのです。

欲を抑圧したところで、いつかは反逆に合うのが関の山なのです。それは不自然極まりない生き方ですし、まるで人生を楽しむことが悪のように思えてしまいます。

だから禁欲的なガンジーの生き方には興味がないのです。美味しいものを食べずに我慢し、貧しいことを良しとするのは馬鹿げています。

精神性だけを高めた聖人が、物質的なことを価値のないことと見下しているように感じられます。osho はそれに対して真っ向から反対しました。

それがゾルバザブッダという生き方。ゾルバという男は俗な生き方、物質的な欲を解放して好きに生きた人の代表なのです。

その一方でブッダとして最高の精神性も兼ね備えている、これこそが理想だということです。誰もが本来当然のこととして持っている、物質的な豊かさの中で生きるとともに、内面はブッダとして生きる。

これって理想ですね。身体と心と本質のどれも大切で、どんな価値の上下もないということです。だからみなさん、自由に気ままに好きに生きて人生を楽しんでくださいね。