ストレス(思考)から離れるメソッド

自分の内面を見つめようとしている人であれば、もうお分かりだと思いますが、マインドは暇さえあれば何かを考え続けようとするのです。

それはもう明らかに、考えるのをやめたら大変なことになると言っているのが伝わってくるようです。

考えることで活動しているので、考えなければ活動が停止してしまい、パソコンで言えば電源をオフにさせられてしまうのに似ています。

それはマインドにしたら、少し死ぬことに似ているのです。自分がいなくなることと同じようなものなのです。

だから自分が自分であり続けるためにも、思考を止めるわけにはいかないのです。それが私たちのマインドの実態です。

そして今この瞬間のことを考えることはとても難しいので、大抵は過去か未来のことをネタにして思考し続けようとするわけです。

この一ヶ月の間、ずっと続いていた地味なストレスから今日解放されたのですが、ストレスがかかっていた間中、過去と未来を行ったり来たりしていたのに気づいていました。

このようにして、この状態は本当に嫌だなと感じながらも、思考が止まらずにいることでマインドの一部はしてやったりだったのです。

そういう時には、自分の身体、内臓や細胞などに意識を向けることで、そのストレス状態を回避できることを知ったのは、大きかったですね。

やはり何か困ったことがあった時の方が、気づきを得るチャンスが到来するのだなということを、改めて実体験することができました。

内臓や細胞の一つひとつに謝罪と感謝をするメソッド、ご興味があればぜひ試してみてくださいね。

セラピストは待つ

「俺は俺自身のことを誰よりも分かっている!」とどこかのおじさんが豪語しているのを聞いたことがあるような気がしますね。みなさんはどうですか?

それは物凄く笑えるのですが、気持ちはよく理解できます。自分は人が知らない自分のことを誰よりも知っていると感じているからです。

実際、朝から晩まで生まれてこのかたずっと自分と一緒に生きてきたわけですから、他人などよりも自分のことをよっぽど熟知しているのだと。

また確かに誰も知らない自分だけの秘密があるなら、そのことは自分が一番よく知っているのは当然のことです。

けれども、自分のことは自分が一番よく分かっていないという面があるのも皮肉なことに事実なのです。それはなぜでしょうか?

理由はいたって簡単。自分では自分の都合の悪いことからいくらでも目を背けていられるからですが、他人はその都合の悪さを持っていないのでズバッとそのまま見てしまうからです。

その上、セラピストというのはどんなクライアントさんであれ、利害関係が一切ないので、プロの目はクライアントさんの内面を細かく見通すことができるのです。

どのようにして癒されていくのかを、およそ見渡すこともできるのですが、それはクライアントさんの協力なくしては全く意味をなさないのも事実。

そんな時、セラピストは無理強いしてもいいことはないと知っているので、ただひたすら待つことになるのです。待つことも仕事の一つですね。

真実は見つけられない

真面目な修行僧は、一生をかけて真実を探求するのです。究極の存在である神を探求するといってもいいかもしれません。

それがどれほどバカバカしいことかというと、海を探求する魚のようなものだからです。魚にとっては、あまりにも全てが海に囲まれ過ぎているので、海を探すことができないのです。

どこに海があるのだろうという発想では、決して見つからないのは明らかですね。それと同じように、真実はあまりにもあらゆる物過ぎるので見つからないのです。

神をどこかに探そうとすれば、それが対象物としての様相を呈してくるので、それがどれほどお門違いのことなのかが分からないのです。

真実、神を外側のどこかに見出そうとしても無駄な努力です。私たちの内側にこそそれは隠れているのです。

本当は隠れてもいません。自分自身の本質なのですから。全てであるということは、どこかに見つけることはできないという単純な理屈です。

それは見つけるものではなく、ただ単に気づくことができるだけ。目を閉じてしばらく静かに内側へと入っていけば、フワッと広がる感覚がやってくるはず。

その全体性こそが、神であり真実であり、私たちの本質であるということですね。こんな感覚は、自我が活性化していると邪魔されて分からなくなってしまうものですね。

なので、自我がちょっとお休みしているわずかな間がチャンスです。そのスキを使って、自分の広がりを体感できるといいですね。

自然体は心を緩ます

街を一人で歩いていて、ふと気がつくと眉間に皺を寄せたような表情をしているなということがよくあるのです。

難しそうな表情というのか、大して眩しくもないのに日差しを遮るように目を細める感じというのか、あまり好ましくないかなと。

周りからどう思われようと関係ないのですが、せっかく一緒に生きている大勢の人に不快な印象をわざわざ与えるのはどうだろうと。

こうした表情をするにはそれなりの理由があるはずで、少し内面を見つめてみるとどうも周囲に対して友好的な気持ちではない感じがするのです。

極端にいえば、周りのみんなをまるで敵のように見ている誰かが自分の中にいるのかもしれないなと。これって残念だし、決して気持ちのいいものではないのです。

定期的にクルマを充電しに行くのですが、充電中の30分くらいの間に音楽を聴いたりボーッとしたりしていて、たまに◯チョウ倶楽部のリーダーを見かけるのです。

いつも犬の散歩をしているのですが、それが寝起きのような風情で人の目を全く気にしてないというのか。

犬に引かれて少し後ろにのけ反ったような姿勢で飄々と歩いているのですが、なぜか少し笑顔のように見受けられて、私としてはすごく好印象。

あんなふうに自然体でいて、見ず知らずの人を無防備な感覚にさせてくれるのは、とても素敵だなと。少し見習いたいなと思った昨日でした。

高血圧も様々

先日、家の近くのお医者さんに行って血液検査をしてもらったところ、少し心配していた肝臓は正常で、代わりに腎臓と膵臓が弱っていると言われました。

生活習慣を見直さねばと思ったのですが、帰宅してからもう少し突っ込んだ話しを聞きたかったし、検査結果も貰い損ねたなと。

特に不親切なお医者さんではないとは思うのですが、この際だから専門医のところへ行って詳しく診てもらおうと思い、また別のクリニックへ行ったのです。

血液検査の結果はまだ出ていないのですが、意外にも血圧が高いとのことでした。自分でもアレ〜という感じで、そういえば最近全く血圧を測ってなかったなと。

私くらいの年齢になったら、血圧くらいは毎日測っておいた方がいいのです。それで、一つ新しい血圧計を新調したのですが、その取説の中に面白いことが書いてありました。

それは、「白衣高血圧」というのと、「仮面高血圧」という言葉です。白衣高血圧とは、診察室や医療現場で測定した血圧が高くても、家庭などで測定すると正常域血圧になる人のこと。

そんな人もいるだろうとは思っていたのですが、まさか自分がそれだったとは。自宅で測定したら、クリニックでの値よりもだいぶ低い血圧になったのです。

理由はいろいろあるのでしょうけれど、最近のストレスと久しぶりの測定でちょっと緊張があったのかも。それにしても興味深いですね。正式な名称として認知されているわけですから。

それとは逆に、仮面高血圧というのは、診察室や医療現場では正常な血圧を示すのに、それ以外では高血圧であるというケースです。

原因は知りませんが、人間はいろいろなことを起こすものです。医療の現場ではどちらもしっかり認知されているということです。

身体を労わる時期がやってきているようなので、しばらくは身体にまつわることも書いていくことになるかもしれません。

何かに従事していたい

この一ヶ月くらいの間、セラピストになってからはほとんど体験したことのないような、大きなものではないもののずっと続く気持ちの悪いストレスの中にいました。

それがつい先日のこと、あれっと思うくらいに酷いものになって、そのストレスの中で静かに喘いでいました。

もちろん、他人がその内容を聞いたら、なんでそんなことでと思われてしまうかもしれませんが、私の苦手な状況だったのでしょうね。

状況的にはまだ変わっていないのですが、すぐに落ち着きを取り戻すことができたので良かったのですが、今思うとそんな嫌な状況でも自我にとっては活躍の場でもあるのです。

活躍の場といっても、その全てが内面で起こることなので、誰にも伝わらない種類のものなので、そういう意味では本当にバカバカしい限り。

いずれにしても、愉快な体験、悲しい体験、今回のようなストレスフルな体験も含めて、自我はそれを糧に生きるのです。

来る日も来る日も辛気臭く瞑想ばかりやっていたら、自我はやきが回ったようになってウンザリしてしまうでしょう。

自我は従事することが必要なのです。例えそれが辛く苦しいストレスフルなことであっても。そのことは忘れずにいるようにしたいものですね。

身体への謝罪と感謝

自我特有の焦りや後悔のようなものに飲み込まれてしまうと、意識的であろうとしてもそのパワーに圧倒されて、いつものようにリラックスすることが難しくなりますね。

そんな時に、ふと思ったことがあってそれを見ていたら、不意に気持ちが落ち着いてラクになったということがありました。

それは、物理的な身体への想いです。まず自分自身は身体ではないというのが必要です。身体も自分の一部だと思い込んでいると、少し難しいことになると思います。

自分というのは自我のことであり、それは目には見えない精神的な何かであって、物理的で目に見える身体とは別物ですね。

まずはそこをはっきりさせること。身体とは長い付き合いではあるけれど、自分自身ではないということ。

その上で、このような連想がやってきたのです。身体のあらゆる臓器、臓物、そして骨や筋肉や皮膚など。

もっといえば、身体を作っている数十兆個の細胞の一つひとつを民衆だととらえて、その上に君臨する将軍が自我である自分。

もしも民衆である身体から何らかのサイン(これは通常具合の悪さや病気などとして表現されるのですが)があれば、将軍である自分が間違ったことをしていると知ることです。

将軍でも大統領でも総理大臣でも何でもいいのですが、見た目は偉そうだし民衆とはランクが違うように思われがちですが、実際は人民のために存在しているわけです。

その代表のような存在が、人民のことを忘れて、あるいは人民から高額な年貢を徴収して、自分の私利私欲を貪り続けていたら、それは百姓一揆のような暴動が起きるはずです。

それが、大きな病気であったりするのです。こうしたことに気づいて、自分はこの身体のためにできるだけのことをしてあげなければならない。

このような気づきがやってきた時に、ものすごく気持ちが穏やかになったのです。身体に謝罪して、身体に感謝をしつつ生きる。

口の中の欲望を優先したり、自我の欲望によるストレスで苦しんだりすれば、それは全て身体への負荷となって身体を傷つけ続けてしまうということ。

物理的な身体と精神的なマインド、今更ですがこの二つを対等に扱うことがとても必要なことなのですね。

自我のパワーは凄まじい

自我というのは、闘いになったら活性化されるし、何か慌てたり焦ったりしても凄く活性化されて、そのエネルギーが自分を覆い尽くしてしまいます。

極端な例を挙げると、いつか買っておいた宝くじがあったことに気がついて、当選結果を調べてみたところ、なんと一等6億円が当たっていてびっくり。ウォー!!

慌てて有効期限を見てみたら、なんと今日まで。今日中に受け取りに行かなければ時効となってしまいます。6億円がパーになる。この状況で、慌てない人はいないはずですね。

急いで支度をして出かけようとしたら、これまで経験したことのないような、脚がつった状態になってとても歩けなくなってしまったとしたら。

悪いことは重なるとよく言いますから、全く起きないという話でもないのです。私はこれをかなりマイルドにしたような状況が今日起きていました。

自分が頑張ってもどうにもならないもどかしさや、間に合わなかったらどうしようという焦りなどが重なってしまい、一日中嫌な感覚の中にいました。

できる限りは自分の内側を意識するように努めてはいたのですが、いつものように気分がパッと晴れてくれることはありませんでしたね。

今は落ち着きを取り戻して、ゆったりとした気持ちでこのブログを書いていますが、自我に振り回されたらまだまだ太刀打ちできるものではないですね。

状況はまだ続いているのですが、こういった経験を生かしてより深く内側を見つめることができるようになるといいなと思っています。

内外面の豊かさ

私たちの本質である純粋な意識というのは、別の表現を使うと全体性ということになります。全体性ですから、あらゆる全てということで、全く過不足がないのです。

自我の視点からすれば、それは途方もない無尽蔵の豊かさと見えても不思議ではありません。何から何までが自分自身なのですから。

ところが自我の立場からすると、それはとても都合が悪いのです。自我は個別性であり個人として独立していると思いたいからです。

だから全体性を完全に隠してしまう必要があるのです。その上で、個として存続しなければならないので、当然のこととして孤独と不安がのしかかってくるのです。

そればかりか、全体性には有り得ない欠乏感もおまけについてくるわけです。これを覚えておいてください。自我=孤独+不安+欠乏感。

自我である限り、これがなくなることは原理的に不可能なのです。もちろん、抑圧して分からなくしてしまうことはありますが。

自我としては、自分が抱えている欠乏感を外側の世界から何かを獲得することで補おうとするのです。それが、私たちのあらゆる欲望です。

ところが、外側から獲得したものを内側に取り込むことはできません。あくまでもそれは外側の世界のもの。

だから獲得によって欠乏感を満たすことは不可能なのです。このことは、もうすでに気づいている人も多いのではないかと。

もちろん外側から入手したもので、快適に便利に生活することは悪いことではありませんが、同時に、自分の内側は本当は無尽蔵に豊かであることに気づく必要があるのです。

外面の物理的な豊かさと内面の豊かさが、共に揃っていることがとても大切なのではないかと思っています。

なぜ感謝が苦手だったのか?

ことあるごとに自然と「ありがとう!」の言葉が出てくる人がいるかと思うと、私のように感謝することになんらかの引っ掛かりを持っている人もいます。

なぜだろうと考察してみたのですが、どうやら私の場合ですが、幼い頃のヒーロー願望が邪魔をしているのかなと。

幼い頃、特に男の子というのはなぜかヒーローものに憧れるのです。そして、ヒーローが感謝の言葉を口にしているのを見たことがありません。

逆に、悪い奴らにやられて泣いている弱くて情けない人の方が、ヒーローに助けられてヒーローに感謝をするのです。

つまり、弱虫が感謝をする側で、ヒーローは感謝をされる側なのです。そうなってくると、ヒーロー願望の男の子が感謝の言葉を口にするはずがありません。

ヒーローは助けを請うてはいけないのです。助けてもらってしまったらヒーローではなくなってしまい、ありがとう!を言わねばならない。

男の子がこんなふうに単純に決めつけてしまっても不思議ではないですね。一度こうなると、誰かに感謝しろと言われても聞く耳を持たなくなってしまうのです。

大人の自分がヒーロー願望のインナーチャイルドの影響を強く受けてしまって、感謝の気持ちを遠のけてきたと思うと、少し恥ずかしいのと笑えます。

これからは、自我の私は感謝の道を爆進してみようと思っています。その様子を静かに見守る本当の自分も同時に感じつつ。