マインドは静かな方がいい

身近に霊能者というのか、透視能力者というのか、いわゆる超能力系の人がいるのですが、時々へ〜と思うことを言ってきたりします。

仕事でその能力を使う時には、きっと自分をニュートラルな状態にして、つまりは自我を鎮静化させた状態で行うのだと勝手に思っています。

そうなると、プライベートの時には自我に邪魔されて、本人の期待や希望が優先されてしまうので、正確な情報を見ることが難しくなるのかなあと。

その人が、何かの拍子に唐突に⚪︎⚪︎になるんじゃない?などと言うときは、なんで分かるのと思うくらい的中率が高くなるのです。

こちらから、これはどうなっているの?と期待を込めて質問してしまうと、その場ではきっとこちらの希望を叶えてあげたいが強くなって、邪魔されてしまうのでしょうね。

だから超能力系の人の能力を引き出そうとする時には、お伺いをたてるこちら側のマインドもなるべくフラットな状態にしておく必要があるということですね。

慣れてきたということもあるのですが、その人の言葉がマインドから出たものなのか、あるいはどこからかやってきたものなのかが少し分かるようになりました。

ただやっぱり、どっちなんだろうと微妙なタッチのことがあって、こればかりはこちら側のマインドの状態にも責任があるんだろうなと思っています。

いずれにしても、自我(マインド)が悪者ということではないですが、とにかくマインドは静かである方が何かとうまくいくようですね。

感謝が自我を緩める

よく聞く言葉ですが、感謝が大事、感謝をしなさい、感謝ができない人間はろくなことにならない等々。そうか、感謝をしなければと思ったことがある人も多いのではないかと。

私自身は、以前このブログでもお伝えしたことがあったと思うのですが、とにかく感謝とは縁遠い生き方をしてきていたのです。

癒しの過程で、あるとき全部が感謝だったと知らされる強烈な体験をしたことがあって、それ以前と以後では、もう同じ人間ではないと感じたことがありました。

とはいえ、日頃からあまり感謝を感じながら生活しているというわけでもないなという自覚がずっと続いているのも事実です。

ところが今日、あることに気づいたのです。それは、なぜ感謝がいいのかというと、それは防衛が緩むからだと。

当たり前と言えば当たり前のことなのですが、でもそれが自分の中で明確になったのです。だったら話しは別です。

自我は防衛することで成り立っているので、防衛を小さくすることができればそれだけ自我も小さくなっていくわけです。

つまり、日頃から感謝の方向に意識を向けていれば、そのまま自我を小さくすることにつながっていくということ。

なんでこんな簡単なことにもっと早く気づけなかったのかなと。きっと、気づきたくないというマインドがあるのでしょうね。それが邪魔していたのだなと。

さて、感謝の目で周囲を見回してみたところ、ああ確かにあらゆる事柄、現象、出来事、とにかく全てに感謝の念を感じるのです。

これはもっと早くからやっていればよかった。ただし、感謝しなければと自分に強いるのは絶対に御法度です。

なぜなら、強いることは自分との闘いになってしまって、それこそ逆に自我を強化してしまう恐れがあるからです。

自我を小さくする積極的な方法として、感謝を多用するのは理にかなっていると思いますので、ご興味があれば是非実践してみてください。

マインドを闘いの場にしない

マインドの中で闘うことは賢い行為とは言えないのです。その理由は、その闘う対象との太い関係が作られてしまうからです。

例えば、自分は意思が弱くてすぐに誘惑や欲望に負けてしまうので、欲望と闘って自分の理想を貫こうとする人がいます。

自分を戒めて強くなろうというわけです。けれども闘えば、欲望も活性化することになって仮に今回勝つことができたとしても、次は負けるかもしれません。

欲望を悪者扱いしないことです。欲望を禁止しようとか、理性が勝つ!のような生き方は闘いの人生になってしまいます。

闘わずにただ見守るだけにするのです。欲望はただそこにあるだけで、それは善でも悪でもないということ。

正しさについても同じことが言えます。自分はこうでなければならない、こうあるべきという正しさを死守しようとすれば、そこには闘いが生まれてしまうのです。

闘わずにあるがままの自分を見守るのです。それを徹底してやっていけば、自ずと自己嫌悪や罪悪感なども小さくなっていくのです。

自分のマインドを闘いの場にしないことです。マインドの隅々まで見守り続けることが、唯一の解決方法だと気づくことですね。

思考が現実を創る

思考が現実を創るという話しは、ああ聞いたことがあるという程度の人はたくさんいるかもしれませんが、本当にそうだと分かっている人は少ないかもしれませんね。

あまりにも非科学的だし、じゃあなんで望まないことがたくさん身の上に起きてしまうの?という疑問がいつもあるからです。

だから確かにそういうことはあるかもしれないとは思っていても、それが100%では決してないだろうくらいに思って、真剣に向き合うにはバカバカしいと感じているのです。

以前このブログで書いたことがあると思うのですが、この原理を理解するためには空間というのは一体何なのだろう?というところから紐解いていく必要があるのです。

それが思考が現実を創るということとどう関係があるのか、ものすごく簡単な説明をしていきたいと思います。

まず初めに、空間には何もないと思われていますが、実際には分子や原子がウヨウヨあるのです。私たちが真空と思っていたとしても、そこには必ず素粒子が存在します。

そして、その素粒子は何もないところから発生しては消えていくということを高速で繰り返しているのだそうです。

つまり、何もない空間というのは実はあらゆるモノの根っこである素粒子を生み出す元で満ち満ちているということ。

そしてここからが本題なのですが、私たちの思考のエネルギーはその素粒子を生み出す大元(無)に直接影響を与えることができるのだと。

思考とは正反対のことが起きるのは、私たちの無意識下の思考がそれを求めているからなのです。だから、自分は金持ちだと思っても、潜在意識では貧乏だと強く思えばそうなってしまうのです。

どちらのパワーが強いかで、結果が出てしまうということですね。もしもあなたが裕福になりたいのなら、それを強くイメージするのです。イメージは思考からやってくるので。

それと同時に、不要な思考をたくさん持っている潜在意識をなるべく癒して、そのパワーを小さくしてあげることも必要ですね。

今日は自我の欲望の話しではあるのですが、自我として生きている以上無視するわけにも行かないので、書いてみました。

私自身も私の自我にもう少し自分の願いを叶えさせてあげたいなと思っていますので、思考を操って色々実験してみようと思っています。

思い入れを小さくする

昨日のブログでは、「期待」することこそが、自分を惨めな思いに縛り付け、そこから悲しみもやってきてしまうということを書きました。

それの少し補足をしたいと思います。大海原の中に住んでいる魚たちは、周り中があまりにも海なので、海がどこにあるのかを知らないのです。

それと同じで、私たちは期待の海の中で暮らしているため、自分がどれほどの期待に囲まれてアップアップしながら生きているのかに気づいていないのです。

もうそれは期待だらけでしかありません。だから昨日も、期待を手放すことなど不可能だと言ったわけです。

ただし、少しだけ救いもあるのです。それは、期待しているという時に、その中にぶち込まれる思い入れの大きさという要素を知ることです。

実は期待というのは、当然これから起きる未来についての予想なのですが、期待と予想の違いは思い入れの量だと言っていいと思うのです。

思い入れが全くないのが単なる予想であり、そこに思いが込められていれば期待に変化するのです。

例えば、サッカーのW杯でどこの国が優勝するのかを客観的に予想して、それが当たっても外れても何でもないわけです。

ところが、どこかの国を熱血応援していたなら、その国の優勝を強く期待してしまうので、優勝したら大喜びだし、そうでなければ落胆することになるのです。

つまりは、期待を落としていくなどは不可能なことだと分かったとしても、その期待に注入する思いをできるだけ小さくすること。

そうすることで、期待が外れたとしても予想がハズレたというだけになってくるわけです。ただし、惨めさも小さくなると同時に、喜びも小さくなるでしょうね。

他人への期待、そして自分自身への期待が大きいと人生は本当に辛く苦しいものになってしまいます。期待値を少しずつ下げる工夫をするか、あるいは思い入れという熱量を小さくする練習をすることですね。

期待が人を不幸にする

このブログでは過去何度も話題に上がっているど定番とも言える「期待」にまつわることをまた性懲りもなく書きたいと思います。

私たちが日々、悲しくなったり怒ったりしてしまう原因というのは、それが全てとは言わないまでも意外にもシンプルな理由によるものなのです。

自分は惨めだなと思うことがあれば、それは悲しみという感情を生むのです。惨めさは単なる思考なのですが、そこから悲しみという感情が作り出されるのです。

そしてそれだけではなく、その惨めだという思いとそこからやってくる悲しい気持ちのどちらも非常に辛いものなので、直視したくないのです。

そのために今度は怒りという感情を生み出すのです。怒っていることで、惨めな思いも悲しみも蓋をされて気づけなくされるのです。

だからあなたが何であれ怒りを感じているなら、その下には惨めさと悲しみが隠されていると思って間違いありません。

ではこうしたことの根っこにある惨めな思いというのは、どのような時に起きるのかが重要なことになるのです。

それは、期待値と現実との落差なのです。自分が⚪︎⚪︎に違いないという期待を持っていると、それに対して現実はこうだったという時の、期待はずれ感こそが惨めさなのです。

それなら何事にも期待をしなければいいだけだということになるのですが、理屈としてはそうなのですが我々の自我というのは、何事に対しても必ずや何らかの期待値を持ってしまうのです。

これはもうどれほど気をつけていようと、避けることは難しいでしょうね。やれることとしたら、何に対してどういった期待を持っているのかを注意深く見つめることです。

そしてその馬鹿馬鹿しさに気づくこと。その期待値が当然だと思う限りは、その期待が消えてしまうことはないからです。

それと、期待を減らすことの難しさの原因のもう一つ大きなものは、期待することも期待されることも良いことだという思い違いが根深いからです。

自我というのは、期待をエネルギーにして頑張れるという面もあるでしょうね。期待されることが本当に自分の喜びにつながるのかも、しっかり見つめる必要があるのです。

また自分が日頃誰に対して、何に対してどのような期待をしているか、それに都度都度気づくように練習することですね。地道な訓練だと思います。

人格はほんの一部

私たちは、朝目が覚めた時には当然のことながら、昨日までの自分がそのままに今日を生きると思い込んでいるのです。

昨日までの続きを今日からまた開始するわけです。自分はずっと継続しているのですから。どこかで途切れたり、違う人格になってしまったりしていないのです。

けれども、この人格を持った自分という存在は、本当に昨日までの自分と同一人物だと言えるのでしょうか?

単に記憶を引き継いでいるだけだとは言えないでしょうか?しかもその人格こそが自分100%だと本当に言えるのでしょうか?

こうしたことを突き詰めていくと、甚だ疑問だなということに気づくようになるのです。毎日の物語の中に没入してしまっていると、こんなことに気づく余裕はないでしょうけれど。

私はいつも疑っています。昨日までの自分、あの慣れ親しんだ人格を持っている彼が、100%本当の自分であるとどうして言えるのか?

そしてすでに日課となってしまっているのですが、この人格以外の自己を感じている時間を大切にするようにしているのです。

もう自我というこの人格こそが、本当の自分だなどとは断じて思えないのです。そんな薄っぺらいものではなく、この世界や宇宙に遍在している感覚の方が遥かに真実味があるのです。

これほどの救いはありませんね。

待つことの大切さ

この社会では、受け身の人生よりも能動的な生き方をよしとする傾向が強いですね。それは当然のこと、自我はやり手でなければならないからです。

自分が何かを成し得る存在でなければ意味がないし、何かを達成するための成し手でなければならないからです。

つまり社会というのは、自我にとって都合のいいことこそが、正しいことだという教えでできているのです。

私たちは幼い頃から、そんなことに気づきもせずにただ大人たちが教えることが正しいことだと信じ込んで生きてきたのです。

だとしても、もうそろそろ自我として生きている自分が100%であることをやめて、それ以外の部分があるし、それこそがとても大切な自分の本質に関わることだと気づくこと。

男性性は能動的、女性性は受動的と言ってもいいと思うのですが、そうだとするなら男性よりも女性の方が一般論として、気づきに近いということになりますね。

最近つくづく思うのですが、男性は女性から学ぶべきことが山ほどあるということです。地球人が皆受動的になってくれたら、人類から戦争はなくなっていくはずです。

成すこと、達成することよりも、気づくことに重点を置くようになればいいのですが。一足飛びに変化はやってきませんね。やっぱり待つことですね!

敏感体質の功罪

ベンチプレスのマシンで、1日おきくらいに筋トレを続けているのですが、私くらいの年齢になってもほんの少しずつですが、カメのようなスピードで進歩するのです。

若い人のようにメキメキより重いものが持ち上がるようになるなんてことはないのですが、地味〜に進化するのです。

先日ベンチプレスのベンチ台が新しいものに変わっていたのです。そのベンチ台に仰向けに寝そべった体勢で、バーベルを持ち上げるわけです。

新品になったのはよかったのですが、それが一瞬もしやと思ったのですが、恐れていたことが起きたのです。以前の台と比べて、硬いし台の高さも高いし、幅も広いのです。

使ったことがない人からしたら、その違いなどほんのちょっとしたものだろうと思われるかもしれませんが、実際に使ってみると違和感しかないのです。

感覚では、いつもの7割くらいの力しか出せないのです。やっていて何だかあまり楽しくないし、そのうち慣れるのかなとか、でも困ったなと…。

次の日、私と日替わりで同じマシンでベンチプレスをしている人が、その新しいベンチ台でトレーニングをしていたのです。

その人はきっと大した違和感も感じずに、私よりも遥かに重いウェイトでガンガン筋トレに励んでいるのです。

ああ、そういうことかと。なまじっか敏感体質な分だけ、やれベンチ台が変わってどうのとか文句を言う人もいれば、そんなことは気にもせずバリバリトレーニングに励む人もいる。

どっちがお得なんだろうと思ったのですが、でもこれだけは生まれついた感覚でしかないので、仕方のないことだなと諦めたのです。敏感さん、あるあるなお話しでしたね。

気分は変えられる

私たちは自分の人生が万事調子よく行っている時には、あまり自分自身を見つめることをしなくなってしまうものです。

上手くいっているのですから、ただその波に乗って毎日を楽しく過ごすようになるのですね。これが無意識的に生きることを助長するのです。

逆に何か問題があるなと思うと、そこで立ち止まって、外に向いていた意識を内側に向けるようになるのです。

一体自分自身に何が起きているのだろうと。そこでようやく、物語から距離を置くことを思い出して、自分の中に没入するのです。

自分の内側に、気付かぬうちにあれこれとガラクタがあったことに気づくと、どんな努力もせずにそれらは一人でに消えていってくれるのです。

自分が置かれている状況は全く何も変わらないのに、気がつけば昨日までとは全く違う気分になっているのです。

最近やってきていた気分の悪さは、古くから自分の中にあるネガティブな思考の癖が知らぬ間に発動していたせいだと分かりました。

その思考パターンは、時間に縛られていて、人生を楽しむことができない奴でした。日頃からそれがあるのは知っていたのですが、久しぶりに乗っ取られたのです。

珍しく乗っ取られていたのは、いくつかの外的要因が重なったからかなと。風邪が身体から抜けた時のあの感覚に近いものを今感じています。

やっぱり自分の気分は、自分で変えることができるということですね。また一つ勉強になりました。