救われる言葉

以下の osho の言葉を繰り返し落とし込むと、何とも救われた気持ちになるのは私だけではないはずです。

人は何処へも行く必要がない、
ただ思い出すだけでいい。
為されるべきことは何もない–ただ知るだけでいい。
そして、知ることは到達することだ。
私たちが知る必要があるのは–私とは誰かということ、
これを知ることが、神性へと到達することだ。

自分の中をゆっくり見回してみると、自分は何も成していない、と言って咎めるような情けないような気持ちでいる部分があるのがわかります。

それはなかなか根深くて、人生の初期の頃からきっとあるのだろうなと。普段は紛れてその存在には気づけないのですが、今はかなり気づけますね。

それが持つ焦りのような感覚が、上の osho の言葉によって静かにさせられるような感覚があるのです。

それは自分の本質には全く無自覚で、人生が全てであると信じ込んでいるようです。自分の価値を見出そうと躍起になっているのです。

自我そのものが消えない限り、それも消えることなくずっとあるのでしょう。osho の言葉がもっともっと自分の中に定着していけばいいのでしょうね。

自分の気分を見守る

このところの自分の精神状態がイマイチな感覚をずっと見守っているのですが、セッションをしていると気が晴れるということにも気づきましたね。

しっかりと意識を向けるべき対象ができるからなのか、クライアントさんの内側に寄り添っている時は、気分のふさぎ込みがなくなります。

これはとても恵まれた環境だなと改めて思い知らされました。また明日になってみなければ、どのような状態になっているかは分かりませんが。

ただ、何となく気が滅入っている時に、習慣として自分の本質に意識を向けることもできるのですが、そこは全く負の影響を受けていないことにも気づくのです。

そして普段であれば、一瞬にして全体性の中へと身を委ねることができるのですが、どうもそれをしたくないというマインドがあるようです。

つまり、気分がすぐれないままにしておこうとしているのです。これが不思議なのですが、まだその中心にいる奴の姿が見えないのです。

きっとそれを見つけることができたなら、そこから抜け出すことができるのだろうなと。いい機会なので、じっくり体験してみようと思っています。

今この瞬間は、完全に普段の状態に戻ってしまったように思えるのですが、本当にそうなのか。そう都合よくはいかないはずですが、明日の朝が楽しみです。

珍しい内的体験

子供の頃から、自分の体調があまり良くないなということに慣れ親しんでいたようで、大きく崩れないものの、なんだか具合がイマイチという経験が日常的でした。

病気ではないのですが、いわゆる未病という状態と言えば言える。会社員を辞めて今の仕事をするようになってからは、だいぶ緩和されたのです。

それでも腰を痛めたり、足のどこかの関節が痛くなったり、お腹の具合が悪かったりと、日常的にあれこれちょっとした不具合を抱えています。

ただ、それは全て肉体的な不具合ばかりで、精神的なものではありませんでした。身体が弱い分、精神は安定しているのかなと。

ところが、この数週間というもの、これまであまり経験したことのない精神的な不調を体験しているのです。

これまでも、昼寝から目覚めたらちょっと気分が悪いとか、そういうごく短時間のものはあったのですが、今回はどうもそういうのとは違うのです。

長くうっすらと続いていて、気分が晴れない。あれこれ自分なりに、原因を探してはみたものの、どれも決定打にはなっていないような気がします。

いくつかの要因が積み重なっているのか、あるいは全く想像もできない何らかの原因が隠されているのか、今のところ分からないのです。

言葉にすると、何だかパッとしない気持ち、あるいは暗く沈んだような気分、おまけに身体もちょっとダル重いのです。

仕事に支障が出るようなレベルではないので、普段の生活には問題ないのですが、自分としては新しい体験をしています。

いずれ原因が明確になるか、あるいは自然消滅してしまうのかは分かりませんが、何か変化があればまたここでその詳細をお伝えしたいと思います。

父の実家での刺激的な生活

子供の頃、夏休みになると父親の実家(千葉の外房)に遊びに行って、しばらくはそこで過ごすことがありました。今思い返してみると、そこでの生活でちょっとしたスリルと非日常を味わったのです。

まだ小学生だったのに、二輪の原付バイク(カブと呼ばれていました)に乗って、近くのお店までお使いに行ったり。

その時は、少しでも大人っぽく見せるために、ジャケットを着て行くようにしていました。でもどう転んでも小学生丸出しなんですけどね。

あるいは、本物の空気銃で的を作ってそれを撃ったりして遊んで、気がついたら弾を全て使ってしまったりしていました。

子供が触ると危険だからと言って、注意する大人が一人もいなかったのが不思議です。思い返すと、だいぶ危険な感じがします。

その実家は父親のお兄さんが継いでいたのですが、夫婦揃って医者だったので、毎年一人二人が、海で溺れて担ぎ込まれてくるのです。

また、真夜中に救急で人が運び込まれてきて、緊急手術をしなければならなくて、苦しくて大暴れしている患者を押さえているように、父親は頼まれたこともあったり。

自宅での普段の平凡な毎日と比べると、本当に色々なことが起きて、野生児として生きているような感覚がありましたね。

安全で退屈なありきたりな毎日と、すごく自由で危険を孕んでいる生活のどちらが魅力的なのか難しいところですが、どちらも経験できたのはよかったかもしれません。

この世ははかない

小学生の時に、紙飛行機を作って飛ばす遊びが流行ったことがありました。と言っても、学校中でということではなく、同じクラスの男子の中でということでした。

誰の紙飛行機が一番安定して、遠くまで飛んでいくかを競っていたと思います。紙飛行機といっても、折り方は色々あってどの折り方が一番有利かはやってみなければわかりません。

あるとき奇跡的に、真っ直ぐに、しかもほぼ水平に飛んでくれる飛行機を折れたことがあったのです。それはもう、素晴らしいの一言。

自分は有頂天に鼻高々で飛ばしていたのですが、その飛行機がたまたま誰かの足元に着地したと思ったら、その人に踏まれてしまったのです。

一瞬にして飛行機はぺちゃんこになってしまい、恐れていた通り、そのあと元の形に戻して飛ばしてみても、もう以前のような理想的な飛び方はしなくなってしまったのです。

その悔しさといったらありませんでした。故意に踏みつけられたわけでもないので、誰にもその鬱憤をぶつけることもできずに。

そのあと、何度も同じ折り方で紙飛行機を作ったのですが、やはり同じような飛び方をする飛行機を作ることはできませんでした。

その時悟ったのです。この世にあるあらゆるものは、本当にはかないと。いつまでも続いていくものはひとつもないんだなと。

その頃、執着という言葉はきっと知らなかったと思うのですが、何かに心を縛られるのは問題だなあと。すぐに気持ちを切り替えるということを少し覚えたのです。

どんなに大切なものでも、あっという間に消えていってしまうんだなと。それがこの世の掟何だなと妙に納得したのです。

何かに囚われてしまうと、せっかくの人生を存分に楽しめなくなってしまうというのも、どこかで分かっていたように思いますね。

遊び心と深刻さ

真面目な人のイメージはというと、型にハマった考え方をしていて、柔軟性に欠け、自分の正しさにしがみついている人です。

そういう人から感じられるものは、一種の深刻さだと思うのです。自宅にいても、あまりくつろぐことができずに、ずっと背広を来ているようなイメージですね。

親がそんなタイプであれば、子供も家にいても全くくつろぐことができなくなってしまうでしょうね。

深刻さのエネルギーは伝搬するからです。深刻さからは何一つ心地よさが生まれることはなく、自然で自由な感覚で生きることができなくなってしまうのです。

その一方で、正しさに価値を求めることなく生きている人もいます。そういう人は遊び心を満載しているのです。

深刻な人と違って、人生の意味や価値といったことに興味を示すのではなく、瞬間瞬間を如何に楽しく過ごすのかということに意識が向いているのです。

あなたの人生を深刻にとらえて生きるのか、あるいは遊び心を持って生きるのか、この二つの違いは決定的です。

今の自分はどちらの要素が優勢になっているのか、それをしっかりと見ることです。もしも、遊び心よりも深刻さの方が多ければ、生き方を見直す必要があるということですね。

自分本位が優しさを生む

「金持ちケンカせず」という諺がありますね。ある人がクルマを運転していて、高級車であるジャガーにぶつけてしまった時のこと。

わあ困ったなと思ってどうしたものかと躊躇していると、ジャガーから降りて来た有閑マダム風の女性が、「あらあ、いいのよ〜」と言ったとか。

明らかに経済的に余裕があることで、お金で修理すれば済むことだからということなのでしょうね。

普通であれば、相手に落ち度があると思えば嫌味の一つも言いたくなるものです。そっちの保険で修理してくださいねとか。

私たちは、自分に余裕があれば人に対して優しくすることができるのです。宝くじ6億円が当選した日に、何か理不尽な目に遭ったとしても笑って許せてしまうのです。

もしも人に対して常に優しくありたいと思うなら、十分に自分本位に生きることです。できるだけ自分を優先すること。

それをしっかり確立できたなら、心に余裕やゆとりが生まれてくるので、何の努力もなしに人に優しく接することができるようになるのです。

逆に自分をないがしろにしている人ができるのは、表面的な優しさを作ることだけで、いつかは化けの皮が剥がれてしまうでしょう。

そしてその我慢の反動がいつかはやってきて、自分でも驚くくらいに人に対して冷たい態度をとってしまうようになるかも知れませんね。

疑問、質問が消えてゆく

若い頃、自分の中で勝手に思っていたことがあるのですが、それは「神はどんな質問にでも答えてくれる存在だ」というものです。

神ほどの存在であれば、人間ごときの質問であれば、簡単に答えてくれるはずと本気で思っていたのです。勿論、神という存在があればの話しですが。

けれども、今は全くそうは思っていないのです。それは、質問自体に問題がある場合も多々あるということが分かって来たからです。

質問というのは、あくまでも思考が作ったものなので、それに対する答えというのも思考レベルのものになってしまうのです。

たかが思考の世界での質問と回答なのです。思考のワールドで生きているからこそ、思考を超えた世界に気づけないのです。

だから神も思考のレベルにあると思ってしまうのですね。思考というのは非常に不完全なものでしかないので、答えることが不可能である質問もできてしまうのです。

疑問や質問というのは、瞑想に入っていけば消えてしまうもの。その程度のものでしかないのです。

疑問が消えていく無思考の世界にいる時の何とも言えない清々しさ、その世界に思考がやってくることはそもそも不可能なことなのですね。

HSPという恩寵

人間を含めて動物というのは、外側の世界からやってくるあらゆる刺激を受けて、それへの反応を繰り返しながら生きているのです。

したがって、刺激に対する反応が強ければ強いほど、それだけ周囲の影響を受けやすいと言えるのです。つまり、感度が高いほど反応も大きくなってしまうわけです。

感度というのは、人間で言えば敏感さや神経質な度合いのことですね。感度の高い人のことを、最近では HSP(Highly Sensitive Person) と呼ぶようになりましたね。

要するに、「生まれつき非常に感受性が強く、敏感な気質を持った人」というわけです。生まれつきというのがミソで、この気質は死ぬまで変わりません。

HSPの人の幼い頃というのは、きっと否定的な言われ方をされた人も多いのではないかと思います。例えば、痛がり、泣き虫、怖がり等々。

ですので、自分のことを情けない、ダメな子のように思い込んでしまったとしても、不思議ではないのです。

その否定的な自己イメージが大人になっても継続してしまうのが普通です。自分に対して怖がりで勇気のない臆病者などの烙印を押してしまうかも知れません。

一度冷静になって感度が高いということを見つめてみれば分かることですが、それは決して否定的なことではなく、逆に恵まれた才能を持っていると捉えることができます。

感覚が優れていることで、他人には気づけない様々な事柄にはっきりと気づくことができるのですから、その能力は使い方次第で大変な強みにもなり得るのです。

私自身もHSPの端くれとして、幼い頃は生きづらかったけれども、今ではその感性を瞑想やその他の感覚を研ぎ澄ます必要があるときに使っています。

HSPとして生まれたことのありがたさを、大人になって再認識できるといいですね。そのためには、しっかりと心の癒しをすることです。

覚醒を待つ

この人生に目的があるとすると、それはたった一つだけ。自分がナニモノなのかに気づくこと。覚醒するということですね。

ところが覚醒するためには、それを目的としていた自我が消えていかねばならないのです。こんな馬鹿にしたような話しがあるでしょうか?

この自己矛盾よりもふざけたことなどないですね。目的とか目標というのは、それを目指す自分があってのものであるはずです。

それなのに、目覚めるという目的は、それを目指す自分が消えることでしかないのです。自我が消えることと、肉体が死を迎えることとは全く異なることです。

肉体の死後どのようになっていくのかを知らないので、勝負は生きている間にということになりますね。

だとするとやれることは、絞られてくると思います。何でもそうなのですが、使われずにいるものは活気がなくなって萎んでいくのです。

つまりは、自我が活躍できないように注意深く生きる練習をすることです。例えば、瞑想をするとか、なるべく無防備になって、幼い子供のように無邪気に生きる。

社会の中にあって、外側ではルールを守り、内側では野生でいること。そしてより自然により自由に生きることです。

あとは、覚醒がやってくるのをただ待つということです。なるべく受け身であるということですね。