無目的の人生

私たち人間は、頂上を求める生き物ですね。7合目や8合目では決して満足することができないのです。頂上が大好きなのです。

そして、一つの山の頂上を制覇したなら、今度はまた別の山の頂上を目指すことになるのです。それも間髪を入れずに続いて行くのです。

多くの人がその途上で生きているのです。仮に全ての山の頂上を制覇してしまったなら、今度は制覇した回数を競うのです。

あるいは、より難しいルートを選んでみたり、制覇した人の中の最高年齢を更新することにチャレンジしてみたり。

こうした営みに対して善悪は勿論ないですし、本人のやりたいだけやり続ければいいと思うのですが、いつの日か目指すことから解放されたいとは思わないのかなと?

偉業を成し遂げる系の人生は、どうしても自我を強大にしてしまう傾向が強いと思うのです。途上で終わるのか、燃え尽きて終わるのか、どちらにしてもあまり好みではないのです。

より自然に、より自由に生きていくためにはある意味動物のように、幼な子のように生きることが大事ではないかと。

動物や幼な子はみんな無目的で生きています。大人になったとしても、外側では社会に順応して、内側では野生のままでいること。

それができたら素晴らしいなと思うのですね。

信念が邪魔をする その2

昨日のブログでは、信念が自然で自由な人生を妨害しているということについて書きました。今日はそれの補足になります。

というのも、信念は自分の信条や確固とした生き方のためには、絶対に必要なものだから決して悪いものではないと思っている人が大勢いると思うのです。

なので、一つ事例を挙げて話してみたいと思います。例えば、あなたが「弱音を吐いてはいけない、強くあれ!」という信念を持っていたとします。

するとどうなるでしょう?この社会という荒波の中で負けずに強く生きていくためには、必要な良い信念のように捉えることもできますね。

けれども、深く見つめて見れば分かるのですが、もしも幼い頃からこんな信念に乗っ取られてしまえば、辛く苦しい人生が待っているのは当然なのです。

人間は元々弱い存在です。特に幼い頃というのは無力で弱虫で、一人では何もできないか弱い存在なのです。

そのころに、親などから弱音を吐いてはいけない、強くあるべき、という信念、正しさを与えられてしまったら、自己否定とともに生きる人生が待っているはずです。

そして、何か不満があったとしても自由に自己表現することもできなくなってしまいます。なぜなら、それは弱音を吐くということに繋がる感じがしてしまうからですね。

もうお分かりだと思いますが、弱音を吐くことは別に悪いことではなく、いたって自然なことなのです。

強くある必要はなく、自然で自由であればいいのです。信念はなければないだけいいということを、少し実感してもらえたかなと思います。

信念が邪魔をする

私たちのマインドというのは、誰のものであれ同じ仕組み、同じメカニズムで動いているというのが私の考えの根っこにあります。

それなのになぜ、個人個人で考え方や生き方が大きく違うのでしょうか?そこにはさまざまな要因が隠されていると思うのですが、その中の一つである信念について考察してみようと思います。

信念というのは、強く信じ込んでしまった考えのことです。つまり単なる思考には違いないのですが、その思考が信念のレベルまで固められると、本人にとっては真実となってしまうのです。

そのために、その人の人生に大きな影響を与えることになるのです。信念の一つに、自己イメージというのがあります。

自分とは◯◯に違いないという信念とマッチするものは受け入れて、異なるものは受け入れられないのですから厄介です。

ということは、生きれば生きるほど信念は更に固くなってゆくため、年齢を重ねてから信念をアップデートすることがどれだけ大変なことになるか、想像に難くありません。

私たちが自己イメージに縛られて生きていかざるを得ない理由がここにあるのです。自己イメージの他にも、私たちはたくさんの信念を持っています。

その人に特有の正しさ、正義感、倫理観や道徳感、その他にも私たちが持っている信念はそれこそ多岐に渡るのです。

私は本質的には信念不要論を標榜しています。何かを信じるだけでもそれに縛られてしまうのに、それが信念のレベルにまで固められれば、そこからやってくる縛りは相当なものになるのです。

私のモットーである、より自然に、より自由に生きるということを実現するために、最も邪魔になるのが信念ではないかと思っています。

一度持ってしまった信念を簡単に無くすことはできないのですが、そのことを知って不要な信念を使わずに生きるということはできる気がしています。

自分が持っている信念をできる限り洗い出して、その馬鹿馬鹿しさに気づくことができれば、その信念から離れて生きることができるかなと思っています。

母親崇拝は危険

人が3人集まると、そこにはさまざまな人間模様が生まれます。あなたとAさんとBさんの3人のグループをイメージしてみてください。

あなたが最も恐れるのは、AさんとBさんが仲良しになり、2人が結託して自分を否定してきたりすることだと思います。

そうであるなら、あなたとAさんやBさんとの関係はともかくとしても、AさんとBさんがあなた抜きに仲良くなるのが一番危険なわけです。

あなたが病んでいるなら、あなたに最も好都合な状態とは、あなたとAさんは仲良しで、あなたとBさんも仲良しであって、しかもAさんとBさんは競い合う関係であることです。

表現は悪いですが、AさんとBさんがあなたを求めて競い合う状態がベストなのです。この関係性を維持できるなら、あなたはやりたい放題になるはずです。

こうした関係性が家庭内で起きることもあるのです。大体の予想がつくと思いますが、お母さんが子供達をうまく支配したい時に、似たような戦法を使うのです。

子供達は、誰もがお母さんは絶対、いつも正しいと思い込んでいるだけでなく、お母さんに自分が一番だと思われたいとして、互いに競い合う関係になるのです。

こうなると、子供達はお母さんのことをある意味崇拝するようになるので、口答えはおろか正直な表現もできなくなってしまうのです。

その結果はもう明らかです。兄弟同士は大人になってもなぜか仲が悪い状態となり、一人ひとりは他人と対等の関係を作るのが難しくなってしまいます。

そうして、自己表現ができなくなり結果としてあらゆる自己犠牲を自分に強いる人生になってしまうのです。

このような場合には、母親を崇拝してしまっていた時代のことをしっかりと思い出し、どんな我慢や抑圧をしてきたのかを明らかにし、蓄積している感情を解放してあげることです。

時間はかかるかも知れませんが、母親への崇拝が解けてくればもっともっと生きやすい人生へと変わっていくはずですね。

マインドの中の欲張りさん

私たちのマインドというのは本当に欲張りだなと思うのです。興味の対象は、現状何を持っているかではなく、次はもっとより多くを手に入れたいということなのです。

手に入れるまでのプロセスを楽しむというように、ポジティブに表現すればできなくもないですが、所詮はもっと欲しいのです。

欲しがるものはお金なのか、あるいは快楽なのか、はたまた地位だったり名誉だったりもするわけです。

そうした欲望を欲しいままにするのに、一番必要なものとは何だと思いますか?それは権力なのですね。

自分は権力などには全く興味がない、そう思っている人も大勢いると思いますが、実際に権力を手にしてしまうと変わってしまうものです。

それは大抵の政治家の態度を見れば明らかです。彼らが生まれながらに貪欲だったわけではなく、権力が彼らをそうさせたのです。

権力を持った人を見れば、人間のマインドの欲張りさ加減が明瞭になりますね。共産主義国家のトップになると、もうやりたい放題になってしまうのも当然なのです。

今、家を建て替えるための資金を作るために、ある資産を競売にかけているのですが、欲張るといい結果が出ないだろうと思って、自重しようと思い返したところです。

自分のマインドの中の欲張りさんを、しばらく見張っていようと思っています。

死のプロセスを見守れるか?

私たちは、自分の1秒と他人の1秒が違うなどということを考えたこともないし、そんなことはあり得ないと信じて疑わないのです。

時間というのは、普遍的なもので誰にとっても同じように流れているものだという信念を持っているからです。

ところが、100年も前に相対性理論の中でアインシュタインは、高速で移動すると、停止している人よりも時間の進み方が遅くなるということを証明したのです。

このように私たちの信念、常識は無惨にも見事に覆されてきたのです。それは物理学の進歩とともに、これからもいくらでも起きてくることだと言えます。

それと同じようにして、他人から見える私の姿と、自分自身から見える自分の姿とは似ても似つかないものなのです。

と言ったところで、ほとんどの人がその意味を理解することはできないはず。なぜなら、鏡に映った自分の姿が、そのまま自分の本当の姿だと信じて疑わないのですから。

それが酷い思い込みでしかないということに、死ぬまでに気づけるかどうか。私の場合は運よく気づくことができたのです。

けれども、それはどうということはないのです。本当に大切なことは、それをずっと維持していくことなのです。それがとても難しい。

すぐに鏡の中の自分、他人が見ている自分の姿こそが本当の自分なのだという思い込みの世界へと戻されてしまうからです。

自我としての自分、他人から見られる自分が死にゆく時に、そのプロセス全体に対して、高みの見物をしていられるかどうか。

それこそが、真の自己を忘れずにいられるかどうかにかかっているのですが、正直言ってあまり自信がないですね。

本質を感じるコツ

自分の本質の感覚を手に入れようとするなら、少しだけコツが必要かも知れません。慣れてしまった人の場合はともかく、慣れてないうちは少しずつ近づくしかありません。

それは、兎にも角にも自我を鎮めること。自我は表面を覆っているだけのものでしかないのですが、それが暴れてしまえば1cm奥に戻ることも難しくなってしまうのです。

だからまずは、地道なことではあるのですが、自我の興奮を落としていくこと。楽しいことや愉快なこと、あるいは心配事などから一時的に離れるのです。

それにはほんの少しの決意が必要かも知れません。なぜなら、自我はどんな興奮も自分から手放そうとは考えないものだからです。

それでも何とかなだめすかして、自我を無言の状態にしていくのです。あるいは、自我だって自分の本質を知りたいという欲望があるので、それを利用するのもいいと思います。

そして、ゆっくりと自我から離れていって、静寂の方へと近づいていくようにするのです。初めは、ここでへこたれてしまうかも知れません。

それよりも先などないと感じるからです。けれども、もう少し、もう少しとジリジリより深くへと入っていくと、また感覚が変わってくるのです。

ここで一切の見ることを放棄するのです。目を閉じていても開いていても、何も見ない。というよりも、見ることや見ないことから離れるのです。

そしてどこまでもどこまでも際限なく中心へと向かいながら、中心そのものも消えていくようになるかも知れません。

ただの背景のような感覚がやってくるかも知れません。その先は、もう何も…

滑稽な自我と本当の自己

自分の自我の雑然としたエネルギーが、少し静かになっている時には、本当の自己のあの感覚が目立ってきてくれます。

それは一言で言えば、空間的な広がりであり、とにかく何もなさなのです。それにはどんな特徴もなければ、特筆すべきどんなものもありません。

ということは、あなたの本当の自己についても全く同じことが言えるわけで、そうなるとどのようにも両者を区別することができません。

つまり、私の本質とあなたの本質はそっくりだとか、ほぼ同じような物ということもできない。そう、完全に一つであるしかないと分かります。

だとすると一体どういうことになるのだろう?と考えると、勝手なイメージが湧いてきます。この世界にはそれしかないのに、それ以外のものしか認識できないでいることの不思議さ。

私たちが日頃五感を使って見たり感じたりする一切合切は、表層的なまるで夢のようなものであって、それは起きてはすぐに消えていくものばかり。

永遠に変わらないものは本当の自己しかなく、地球上で言えばそこから80億人の目を通して、その夢を共有している。

そうそう、それは私たち人間だけに限られたものではなく、あらゆる動物や植物も含まれるのでしょうね。

なんてことをつらつら巡らしていると、自分の欲望を叶えるために必死になっていることがすごく滑稽に思えてきたりするのです。

そんな滑稽な自我と本当の自己の両輪で生きていくことしか、どうやらできないことが分かってきた感じです。

成長の証

人間である私たちが、誰かの言葉に服従するようなら、それは不自然なことだと気づかなければなりません。

ましてや幼い子供が親に服従しているようであれば、それは大変なことが起きているということです。

子供は遅かれ早かれ、いつかは親に逆らう日がやってきます。それは奴隷にならないためには絶対的に必要だし、それが成長の証なのです。

余裕のない親は、子供が自分に服従せずに逆らってくると、それを喜ぶどころか悪いことだと判断して、なんとかして奴隷のままでいさせようとするのです。

そのためには恐怖を使う場合もあるし、子供の罪悪感を使うこともあるし、あるいは少し複雑なやり方として遠回しに子供が自ら自己否定するように仕向けることもあるのです。

親のあの手この手によって服従が長く続けば続くほど、子供の心の闇は大きくなっていってしまいます。

親への服従が解除されて逆らう時がやってくるのは、早ければ早いほどいいのです。そうでなければ、子供の人生が台無しにされてしまうからです。

クライアントさんがセッションに来られて、生まれて初めて親に逆らってもいいんだと気づく場合も少なくありません。

正直びっくりですが、それでも気づけたことを喜び、できるだけ早く自らを解放して自然で自由な生き方を取り戻すことが、何よりも大切なことなのですね。

物理的距離と心理的距離の違い

親というのはとかく子供のことをあれこれと心配するものですね。特に、一般的に言えば母親の方が父親よりも子供との距離が近いということもあって、母親は子供のことを心配するのが仕事、みたいなところがあるのです。

これは母親自身の内面の不安を、子どもに投影してしまうことから起きるものです。それがひどくなると、過干渉と言われる状態になったり、口うるさい母親にもなるのです。

母親からあまり興味を示してもらえなかったと感じている人にとっては、母親から関わってきてくれるのだから有難いことだと思うかも知れません。

ただし過干渉や心配性の親というのは、子供への関わり方が一方通行なので、子供の側からすると分かってもらった感が不足しがちでもあるのです。

つまり関わってもらっているように見えても、実際には心の繋がりは希薄になってしまうのです。その不満はとても大きなものになってしまう可能性があるのです。

わかりづらいことかも知れませんが、過干渉や心配性の母親に気持ちを受け止めてもらうということはほぼ無理だということです。

かえって普段はぶっきらぼうであまり会話もしないような父親の方が、いざとなったら子供の気持ちを理解してあげられるという場合だって少なくないのです。

物理的な距離が近くても、気持ちを分かってもらえなければ心理的距離は遠いままになってしまうのです。

たくさん関わってきた自負がある親からすると、子供との距離は近いと感じることもあるかも知れませんが、逆に子供側からは親との距離を取るようになってしまうのです。

親自身が自分の不安を投影してしまっていることに気づいて、癒しを進めていくことが是非とも必要ということですね。