宗教の本当の意味

人類のこれまでの長い営みを俯瞰して見てみれば、本当にざっくり言ってしまえば、「戦争と宗教」の歴史だということができるのではないかと。

戦争が絶えることはなかったし、宗教が地球を覆っていない時代などないのですから。そのどちらもが、人間のマインドに深く起因しているのも間違いないことです。

今思い返すと、私は小中学生の頃から宗教と呼ばれるものに何となく興味を持っていました。経典と言われるものには、一体どんなことが書かれているのか?

そんなことに漠然とした関心があったので、一度ラジオの何かの番組でハガキを出すと、もれなく聖書がもらえるというのがあって、実際にもらったことがありました。

ただし、ほとんど読まずにいたのは何かが自分には違うなと感じたからなのだと思うのです。それに、教祖がトップに君臨するような宗教組織には全く興味がありませんでした。

もっと本質的な何かを修得できたらいいのにと思っていたのです。そんな自分の感覚に最もマッチしたものに出会ったのですが、それがoshoでした。

次のoshoの言葉が深く私を包んでくれるのです。そして、宗教という言葉の本当の意味もなるほどと納得することができますね。

宗教とは入信することではない。宗教とはどんな夢も持たずに現実のなかにあることを言う。夢は過去か未来のいずれかからやって来る。宗教的な人は空っぽの人、中空の竹だ。彼はリアリティーが彼を通して生きるのを許し、それと共に流れる。彼は目的地を持たずどこにも向かっていない。ただここに在る。

自己分析は興味深い

いわゆるフットワークの軽い人っていますよね。思い立ったらすぐにどこへでも出かけて行ける速効性とエネルギーを持っているのです。

羨ましいなあと思ってしまうのは、自分がフットワーク重い系の人間だからです。それも相当に重症なレベルだと自覚しています。

じっくり見つめてみると、フットワークが云々というよりも、とにかく出かけていくことに何らかの引っ掛かりを感じているようなのです。

現在の自分には、出かけることを妨害するようなこれと言った理由は見当たらないので、きっと過去の自分の感覚なのだろうなと推測できます。

昨日のブログの通りで、普段はすっかり忘れて自覚がないのですが、幼い頃に何らかの体験を繰り返した結果、出かけることへのブレーキが働きっぱなしになっているのかなと。

普通に覚えていることで言うと、車酔いが酷くてそれでも両親が出かけるので、留守番ができない自分はイヤイヤついて行っていたのです。

クルマに乗る前からもうすでに気持ち悪い感覚になっていたのをはっきりと覚えています。それのトラウマかなと。でももっと重大な影響が他にあるような気もします。

もっと幼い頃のことをイメージすると、はっきりとした記憶ではないのですが、心配性の母親から心配や不安のエネルギーを毎日浴びていた感じがするのです。

そして、遠くへ行くことは何かとても危険なことが起きるという感覚を持ってしまったのかも知れません。きっと3〜4歳の頃のことです。

大人の自分が何か明確な理由を持って出かける時には、その子のブレーキを乗り越えて行けるのですが、ただ漠然と出かけようとすると、その子の力の方が強く作用するのですね。

この分析が的を射ているかどうかは、もうしばらく自分の内側を覗いてみないとわからないですね。自分を分析するって、結構面白いので何かネタがあったらみなさんも是非試してみて下さい。

マインドの中に勢揃いしてる

今日あなたが目覚めると同時に誕生したのだとしたら、マインドの中は空っぽになっているはずですね。

けれども、実際には今日のあなたのマインドの中には、これまでの全てのあなたが勢揃いしていると思ってください。

え、なんか気持ち悪いと思うかも知れませんが、私が検証してきた限りでは、生まれた時から現在まで生きたそれぞれの過程の自分が盛り込まれているのです。

もっと正確に言うと、マインドの潜在意識の部分に過去の全ての自分が残っているということですね。

あの時の自分を忘れてしまいたいと願っても、消すことはできないのです。もちろん、潜在しているので自覚することはないかも知れませんが。

過去生きていた全ての自分の中で、今の自分にいい影響を与えるものはそのままにして、都合の悪い影響を与えるものは無くしたいと思うものです。

ただ、すでにあるものを消すことはできませんが、その影響力を小さくすることはできるし、それで十分なのです。

それをするのが心の癒しなのですね。思い出したくないと思う記憶の中に生きていた自分ほど、悪い影響力を強く持った状態で残ってしまうのです。

癒すことで、その記憶を思い出してもあまりいやな感覚にならなくなれば、それだけ影響力が低下したということなのです。

理想的には、過去のどの場面の自分を思い出しても、引っかかるものが残っていないという状態になることですね。

「兄」の上にチョンチョン

小5から中1の途中まで塾に通っていたのですが、その塾で毎月テストがあったのです。これからお話しするのは、英語のテストの記憶なのできっと中1の時だったのだろうと。

その頃そこそこ成績の良かった私は、英語のテストは大抵が100点だったのですが、ある時99点という不思議な点数を取ったことがあったのです。

答案用紙を返しながら先生曰く、「大澤、99点。大澤は漢字を間違えたので…。」それを聞いた友達に「大澤、もう外人じゃない!」と言って大笑いされたのを覚えています。

何だろうと思って答案用紙を見てみると、英文和訳のところで訳そのものは合っていたのですが、「兄」という字を間違えていたのです。

みなさんは、「兄」といういたってシンプルな漢字をどう間違えたのかと疑問に思われるかも知れませんね。

実のところ、「説」とか、「悦」という字の右側部分のように、兄の字の上の部分にチョンチョンをつけてしまっていたのです。

このエピソードを思い出した時に、テスト中に回答している自分の気持ちを非常にリアルに思い出すことができたのです。

訳を一通り書き終わったところで、何となく「兄」という漢字の上の部分が足りてない気がしたのですね。それで、わざわざ正しい「兄」の字の上にチョンチョンを付け足してしまったのです。

曖昧な記憶を辿ってみると、「兄」という漢字を習ってからしばらく経って、「脱」とか、「税」といった漢字を習った時に、これらの右側部分(つくり)を「兄」と勘違いして覚えていたような。

つまり、オリジナルの「兄」の記憶と、チョンチョン付きの字の記憶の両方を持ってしまったのだと。だから最初は正しい兄を書いて、その後チョンチョンをわざわざ書き加えたのだろうなと。

私のような適当な人物が先生だったとしたら、漢字の間違いを見逃して100点にしていたかも知れないなと思うのです。

そうだったとしたら、もっともっと後になって間違って漢字を覚えてしまっていたことに気づいて、もっと大きな損失を被っていたかも知れません。

マイナス1点とはいえ、しっかりと間違いを指摘されたことで、私はその後「兄」という字を間違えることはなくなりました。

何であれ先延ばしにしがちな私ですが、間違いは早いうちに修正しておいた方がいいという教訓になるなと改めて思いますね。

心の癒しも同じです。本人のタイミングなどもあるのは重々承知しているのですが、なるべく早いタイミングで癒しを進めていく方が有利だなと感じています。

個人という狂気

自我の根本的な病みとは、自分は他と切り離された独立した存在だという信念を持っているところだと思っています。

その自我のほんの一瞬の隙をついて、全ては繋がっている、分離など存在しない、全ては一つという感覚を体験した人も多いのではないでしょうか?

会社員時代の同僚の男性が、あるときガンの告知をされて病院からの帰り道に、道端に生えている雑草と一つになるという体験をしたそうです。

きっと彼の自我が前途に絶望してしまったために、ほんの少しの間だけ自我の不在状態になったのでしょうね。

だから全ては一つだという感覚になったわけです。彼はその後、誤診だったことがわかり、晴れて明るい自分を取り戻したそうですが。

かつてスピリチュアル系の人たちの間で、ワンネスという言葉が流行ったことがありましたが、これも同じことですね。

私の場合は、少し傲慢に聞こえるかも知れませんが、全ては一つというよりも、自分が全てだったという驚きに近いです。

もちろん、その自分とは自我のことではなく、純粋な意識のことを言っているのですが。何であれ、個人という狂気を、驚嘆の気持ちで眺められるようになるといいですね。

ノールールで生きる

より自然により自由に、というのを別の言葉で表現すると、自分自身に対して何も押し付けないこと、人はいかに在るべきかという観念を持たないこと。

ノールールで生きること。もちろん、社会の中で生きている限りは最低限のルールは守る必要があるはずです。

けれども、内側では常にノールールであることです。ただ、どうしても懲罰的な考えがやってきて、自分を縛ろうとするのです。

そんな時には、その考えを受容してあげればいいのです。もしもカルマによって地獄に落ちるとしたら、それは自分自身がそうさせているのです。

あなた以外の誰にも、裁かれることなどないと理解すること。とある霊視のできる方の動画によると、人は死ぬと霊界というところに行くらしいです。

そして、生きている間の所業によって、その報いを受けるためにそれぞれに見合った霊界の場所に行くのだとか。

もしもそういうことが本当にあるとしたら、それはやはり自分自身の思考によるのだと思います。罪悪感などが自分に懲罰を与えようとするのです。

生きている間に、なるべく罪悪感を恐れることなく過ごすことができたら、きっと死後霊界に行ったとしても大丈夫だと思います。

私は個人的には霊界にもこの世にも戻ってきたくないですけどね。 

自我は執念深い

osho がよく言っていたことですが、現在というのは時間の一部ではないということ。現在は永遠の一部だということですね。

私たちは常に時間の流れの中で過ごしていると感じています。ということは、現在という永遠を見失い続けているのです。

人生物語は時間の流れの中にしか見つけることはできません。あなたがマインド(自我)から生きていれば、必然的にそういうことになるのです。

独り静かにいて十分に意識的であると、時間の流れから解放されてずっと継続する現在にとどまることができる感じはするのです。

けれども、一度誰かがやってきたり何かが起きると、私のマインドが一瞬にして立ち上がって、物事を支配し始めてしまうのです。

私の自我は時間の中にしか生きられないので、現在の中にくつろいでいる間も戻って来れるチャンスを伺っているのでしょうね。

そして戻ってきたら、現在のことを忘れてしまえとばかりに、過去や未来のことばかりを考え始めるのです。

こうしたことの繰り返しが続いていて、何が起きても自我に戻らずにいられるなんてことを、想像することも難しいですね。

聞いた話しですが、数十年もヒマラヤの洞窟で瞑想をしていた人が、もう自我に戻ることはないだろうと思って、下界に降りた瞬間に自我が活躍し出してしまったらしいです。

自我の執念深さは尋常ではないですね。

在ること、成ること

自分に対して、何だか自信がないという人が大勢います。そんな時、自分の何に対して自信がないのかを見てもらいます。

自分の能力、経験、成果、あるいは自分の外見、このようなものを全部傍に置いたうえで、最後に残った自分の何に自信がないのかを見てもらうのです。

それは自分の存在に対して自信がないのだということに気づくのです。なぜすぐに気づくことができないのかというと、自分の存在に対して日頃から意識を向けていないからなのです。

人生という物語の中では、自分の存在というものがクローズアップされることがないからなのでしょうね。

いつも自分の身に何が起こったのかとか、どう思われているのかなど、どう評価されているのか等々、全て自分の存在とは無関係のものばかり。

つまり、自分はどう成っていけばいいのかということだけに焦点が当てられているわけです。それは、自我の範疇のこと。

それに対して、自分の存在、ただ在るということは自我とは無関係なのです。けれども、存在に意識が向くことでしか、真実を感じることはできないのです。

騒がしい自我を少しの間だけでも傍らにおいて、ただ在ることにのみ意識を向けることです。その時には、人間という範疇からはかけ離れた存在を感じ取ることになるはずです。

科学は客観、宗教は主観

アインシュタインの言葉で次のようなものがあります。『宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。』

確かに時々ふと思うことがあるのですが、宇宙の成り立ちや構造などを解明しようとして、頑張ってきた人類の歴史があります。

ほんの一部かも知れませんが、実際に例えば量子力学がなければスマホの出現もありませんでした。私たちの知らないところで、その理論は使われているのです。

なぜ人間が宇宙の一部を解明することができたのか、本当に不思議な感じがします。人類が宇宙の一部だから、などともっともらしいことを言われてもあまりピンとこないのです。

ただし、どれほど科学が発展したとしても、客観的な観測をベースとする科学では、明らかに限界があるのだろうと思っています。

というのも、真実は全くもって主観的なものだからです。そして主観は決して測定することができないからです。

主観を宇宙の中で共有することは不可能なのです。主観は宇宙とは次元が異なるのです。それを宗教と呼ぶらしいですね。

もちろん、私たちが普段イメージしている◯◯教と呼ばれるような、宗教組織で教えているようなものとは違います。

そこには本質的にはどんな教えもありません。あるとすると、それは方便でしかないはずです。共有できないからこそ、それについて語る時には方便となるわけです。

客観的世界と主観的世界の両方に、いつもまたがっているようにして生きることができるといいなと思っています。

過去のエピソードを見直す

以前プロのキックボクシングの選手が言っているのを聞いたことがあるのですが、試合中はスネなどを何度も蹴られても、ほとんど痛みを感じないらしいですね。

試合が終わって、猛烈に出ていたアドレナリンが収まってくると、途端に蹴られてミミズバレになっているところが腫れて、しかもひどく痛くなるのだとか。

試合中は、脳が痛みを麻痺させて感じないようにしてしまうのですね。つまりは、痛みの自覚がなくなっているわけです。

自覚があろうがなかろうが、身体は大変な傷を負っていることに変わりはないわけで、それは身体だけでなく、心でも同じようなことが言えるのです。

例えば、怒りを抑える三つの要素があるのですが、それは恐怖と罪悪感と自己否定感です。この三つのうちのどれか一つでもあると、怒りは抑えられて感じなくなってしまうのです。

この場合も、怒りがないわけではなくただ単に抑えられて心の奥底にしまわれてしまうだけなのです。したがって、このようなことが続けば、いずれその怒りは爆発することになるのです。

幼い頃に安心できずに、不安や恐怖の中で過ごしてしまうと、本人の自覚がないままにさまざまな感情や無邪気さなどが抑えられてしまうのです。

それが後々人生のあらゆる場面で好ましくない影響を与えてくるのです。幼い頃の自分には自覚がなくても、大人の自分が過去のエピソードを見直して本当の気持ちや感情に気づいてあげること。

催眠療法にはそうした効果を期待することができるのです。ご興味があれば、ぜひ一度試してみることをお勧めします。