記憶の捏造

昨日のブログの続きとして読んでください。昨日のブログを読んでない方は、まずそちらを読んでからこっちに戻って来て下さい。

その女性歌手の名前が知りたくて、ネット検索した結果、たった一人だけ聞き覚えのある名前を見つけることができたのです。

その人は、アストラッド・ジルベルトという女性で、あの当時かなり有名なボサノバの歌手だったようです。

これだ!とうとう見つけたと思って、これまたネット上にある彼女のアルバムを順番に聞いてみたのですが、どうも知らない曲ばかり。

その上、なんだかあまり魅力的な曲が見つからないのです。歌声や歌い方は、ああこの人かも知れないとは感じるものの、どうもいまいちヒットしないのです。

そこからつらつら思い返していたら、あれ中学1年2年の頃にどうやってアルバムを一枚買うことができたのだろうか?

さらには、自分の部屋にレコードを聴く機材なんてなかったんじゃなかったっけ?というとんでもないことを思い出したのです。

中学3年の時に今の住所に引っ越してきてから、ステレオプレーヤーを買ってもらったんだった。じゃあ、あの記憶って捏造?それもピンとこないなあと。

結局アルバムを見つけられないどころか、記憶そのものが辻褄の合わないものとなってしまい、この件はしばらく保留にすることに。

都合の悪い出来事があると、思い出し難いというだけでなく、その周辺の記憶も曖昧にされて場合によっては操作されてしまうということなんですね。

所有物を傷つけられるトラウマ

中学1年か2年生の頃のことですが、ボサノバというジャンルの女性ボーカルのLPレコードを買ったことがあったのです。

今ではそれが誰の歌だったのかが全く思い出せないままなのですが、とにかく物凄く気に入っていて毎日のように聞いていたのです。

するとある日、隣の部屋にいる姉が貸して欲しいと言ってきたので、あまり乗り気ではなかったのですが、しばらく貸してあげることにしたのです。

その後少し催促して無事返してもらったのですが、さあ聞こうと思ってジャケットからレコード盤を取り出したところ、あり得ない情景が目に飛び込んできました。

瞬間的に目頭が熱くなってきたのを覚えています。非常に残念なことに、大事に大事に扱ってきたレコードの表面が爪か何かでズタズタに傷つけられた跡があったのです。

まさかと思ってターンテーブルに置いて、曲を聞いてみるとなんということか、やはりその傷によるものか音飛びが発生してしまっていたのです。

実はそれ以来一度もそのレコードを目にすることはありませんでしたし、もちろんお気に入りだった曲も聴くことはありませんでした。

当然のこと姉のことを責め立てたのですが、一切反省の色を感じることはなかったのです。自分は知らないの一点張り。おまけにそのくらいはいいだろうと。

どれほど悔しい思いをしたことか、姉には全く伝わることはなかったですね。もしかしたら、歌手名すら思い出せないのは、まだそのことがトラウマのように残っているからなのかなと。

今更ながら自分でその時の悔しくてやりきれない感情を思い出して、しっかり味わってみようかなと思っているところです。

あなたは決して見つからない

テレビのドラマや映画館で映画などを見ている時に、その物語の中の演者が急に観客であるこちらを指さして、何かを強い口調で言ってきたら、誰だってビクッとなるものです。

なぜなら、観客はその物語の中にはいないつもりでいるのに、自分の存在が見つかってしまったと感じるからですね。

もちろん演者はただ単にカメラに向かって何かを言っていただけなのですが、絶対見つからない自分の存在がバレてしまったと感じて驚くわけです。

私たちは、多かれ少なかれ自分の存在が誰かに見られてると思っただけで、微妙に自然体ではいられなくなるものです。

人の視線が気になってしまうというのも同じことです。見られるということで、あらゆる判断をされることを恐れているのです。

そこから自我の防衛が始まるわけです。そうしたことから解放されたらどれほどゆったりすることができるでしょうか?

実は大変幸運なことに、私たちの本質は決して人から見られることはないという事実があります。映画館の観客と同じで、(人生)物語とは違う次元にあるため決して見られる側にはなり得ないのです。

それはただ見るだけの存在なのです。それが観照者としての自己です。姿形も何もなく、大きさも位置もない荒唐無稽な非存在。

だから自我としての自分がどれだけ人の目が怖いと感じたとしても、そんなもの放っておけばいいのです。

本当のあなたは、物語の現場から距離ゼロのところに在るのですが、決して物語の中に入っていくことはできないし、見つかることもないのですから。

物凄い印象操作

マーケッティング戦略などで商品をより売れやすくするために、さまざまな印象操作がなされると聞きますね。

そういう意味では、この社会では一般的になされていることだと言えます。ただ、操作という言葉を聞くと、どうもあまり肯定的な意味を感じないのも正直なところ。

例えば、お母さんが子供をコントロールしようとして、「お前のことをみんなが悪い子だと言ってるよ」と言えば、これはもう立派な印象操作の一つになると思います。

「みんな」というフレーズが、お前は悪い子という表現に重みを感じさせるからです。こんなあからさまな印象操作は普通はしないかもしれませんが。

ところで、印象操作というのは他者に対してなされるのが一般的だと思われがちですが、実は自分で自分のことを印象操作することも多々あるのです。

どういうことかというと、例えば幼い頃が辛い毎日だったとして、その傷を見たくないがために過去を印象操作するのです。

過去には色々あったかもしれないけれど、それはそれで成長できたし感謝するべきことの方が多いなどと考えて、自分に対してポジティブな印象操作をするわけです。

そうして、大人の自分が色々問題を抱えていることと、幼い頃の生活、体験を結びつけようとしないのです。多くのクライアントさんはこうした傾向を多少持っているものです。

印象操作を上手にやられてしまうと、起きたことをあるがままに見て、あるがままの感情を味わうという癒しの作業に、全身全霊で打ち込むことが難しくなってしまいます。

どんな印象操作をしていようとも、それを丁寧に剥ぎ取っていくことでいずれは癒しを進めていくことになるでしょうね。

トラブルはチャンス

ある有名なインフルエンサーの人の動画を観ていたら、頻繁に海外に出かけていくらしいのですが、その先々でさまざまなトラブルに遭遇するのだとか。

それは確かにじっと自宅に引きこもっている私のような生活者とは、比べ物にならないくらいにあらゆるトラブルに見舞われるのは容易に想像できます。

彼が言うには、トラブルがやってきたと思った瞬間に、とにかくワクワクするそうなのです。右も左も分からない海外でトラブルに見舞われたら、大抵の人は心細く感じるはず。

彼もそういう心持ちにならないわけではないのでしょうけれど、それでもどこかでワクワクしている自分がいるらしいのです。

これは凄いことだなと。好きなことを好きなだけやってワクワクするのは当然のことですが、予期しない困った問題が発生した時に、ワクワクが起きるのですから本当にびっくり。

なぜワクワクするのかを聞くことはできませんでしたが、これは生きる上で最強なのではないかと思うのです。

冷静になって自分に起きた過去のトラブルを思い返してみると、確かにそのどれにも木っ端微塵にやられてしまったという記憶はないのです。

結局のところ、そうしたトラブルによって得難い気づきを得ることができたとか、過ぎてしまえば何ということもなかったと分かるのです。

それをトラブルの渦中で気付けるようになれば、それこそ達人の域だろうなと。トラブルが問題なのではなく、そこから何も気づけないでいるならそれが一番損なことだと思いますね。

古傷を癒す

私たちは、人生の中で様々な苦難に遭遇してしまうものです。それを避ける方法はないのかもしれませんね。

例えば大好きな恋人に裏切られて、失意のどん底に突き落とされてしまうかもしれません。そんな時どうすればいいのか?

手っ取り早く立ち直るには、忙しく過ごすようにするというのがあります。仕事を多忙にするとか、趣味に没頭するとか、あるいは次の恋人を探しまくる等々。

ただし、このようなやり方では負ってしまった心の傷は癒えないままに放置されている状態なのです。

気づかないようにしていただけで、自動的に傷が癒えるということはありません。そうなると、いずれはその古傷が何らかの形で表面化してくるのです。

同じような体験を繰り返してしまうとか、あるいは理不尽な目に遭ってしまうとか、傷はあなたに気づいて欲しいのです。介抱して欲しがっているのです。

だからこそ似たような体験をあなたにさせて、思い出してもらおうと画策するわけです。逃げおおせないのです。

そういった傷をたくさん持ったまま死んでいくという方法もあるかもしれませんが、それは次の人生に持ち越されるだけ。

外側にばかり気を取られている人生から、内側に意識を向けるように変えていくことです。そしてその傷の痛みを十分に味わってあげるのです。

そうすることによって、いずれは古傷が癒されていくことになるのですから。

疑うことの大切さ

おすすめにあがってきた動画の中に、チャネリング関連のものがあったのでたまたま観てみたのですが、結構面白い。

その中で、チャネラーの方がいうには、私たちの奥深くにある信念が「これは現実、これは現実」と強く唱えているために、この世界があたかも現実であるかのように思えるのだと。

ほう、なるほどですね。だとしたら、「これは幻想、これは幻想」と繰り返し唱えるようにしてみたら、もしかしたらこの世界の見え方が変わってくるかもしれませんね。

いずれにしても、この世界をどのように見ているかというのは、確かに信念というフィルターを通して見ているに違いないのです。

マインドの奥には、さまざまな信念が埋め込まれていて、その頑固さは尋常ではないのです。自分は身体の中にいるとか、自分は個人だ、自分は◯◯だ等々。

もしもどんな信念も通さずにあらゆるものをあるがままに見て、感じることができたなら、どれほど違ったものを見ることになるのか。

どうしたら信念という色眼鏡をかけずに見ることができるのか?それには日頃から見たり感じたりしていることを、とにかく疑ってかかるということなのかなと。

例えば、自分というのは一つのまとまった存在だという信念がありますが、それに関してはある程度は、はずれてきている気もします。

あるいは時空に関してですが、宇宙は途方もなく広大だという信念がありますが、それについてもかなり強く疑っている自分ができてきた感じです。

疑うということは、どうも否定的なニュアンスを持っているように感じてしまいますが、実はとても大切な態度なのではないかと思っています。

あなたの存在とは無関係にこの宇宙は存在する…。これなどは、大いに疑ってかかる価値があると思いますね。

「無」は最強

昨日のブログの内容への補足ですが、あの中1の時の担任の先生が書いた「無」の文字ですが、書道のできる友人にこんな感じの書体なんだけど?と聞いてみたのです。

すると、それは隷書じゃない?と教えてもらったので、ネットで検索してみたらありました。隷書体というのがあるのですね。

そっくりではないかもしれませんが、こんな感じだったような。もう少し崩してあったかもしれません。

あの担任、取っ付きづらい神経質な表情をした技術科の先生だったのですが、今思えばなかなかオツな計らいをしてくれていたかもしれないなと。

イメージの中で、中1の自分がホームルームか何かの時に、先生に向かって「あの無という漢字にはどんな意味が込められてるんですか?」と聞いてみたのです。

すると先生はしばらく考えた後、「どんな意味が込められているかなどを考えないでいることだね。」と言うのです。

なるほど、無とは?とやった瞬間に無から離れてしまうわけです。ジーっと無の文字を見つめて、ゲシュタルト崩壊がやってきてもそのままにしておく。

その時、無という漢字すら消えていき、どんな疑問も無によって消滅していってしまうということですね。やはり、無は最強です。

無から来て無へと戻る

中学生になってすぐの時に、担任による家庭訪問というのがありました。先生が生徒の家を順番に訪問するというアレです。

当日先生が来るのを待っていると、やってきたかと思ったら家に上がるでもなく、ただやってきたという足跡を残しただけで風のように去っていきました。

それと連動しているのかどうかは定かではないのですが、記憶では一週間もしないうちにその先生は学校から消えていきました。

そして突然違う先生が担任としてやってきたのです。どんな説明もなかったのではないかと思うのですが、とにかく今度の先生はちょっと陰気な雰囲気の男性の先生。

教室の黒板の上のあたりに、「無」という感じ一文字の額縁に入った仰々しい「書」が飾られていて、確かその新しい担任が書いたものだったようで。

授業中だけだったと思うのですが、その「無」の文字が気になって、何度となくチラチラ見ていたのを覚えています。

当時から、「無」は最強だと感じていました。自分の感覚では、無というのは無言というのと直結していて、言葉を紡げば紡ぐほど真理から遠ざかるのを知っていたのかなと。

あの時の感覚と全く変わることなく、無→無言→無思考であり、「無」が全ての大元であることを今も感じつつ生きています。

無から全てが始まって、あらゆる事象が起きて、また無へと戻っていく。これがこの宇宙の全てなんですね。

自我から離れると問題は消える

小学一年の頃、雨が降ると校庭で遊べないからなのか、授業開始前に上級生たちが教室にやってきて確か紙芝居などをやってくれてたのです。

子供心に、さすが上級生のお兄さんお姉さん達はすごいなあと感じていました。ところが、自分が上級生になった時には、全然大人になったとは思えませんでした。

中学生の頃は成人式を迎えたら、あるいは社会人になったら、すごく立派な大人になっているに違いないと思っていたのです。

けれども、やはり実際にその年齢になってみると、別にどうという変化もなく、以前と変わらないわけですね。

高齢者になったら、それこそ煩悩が小さくなったりしてきっと生きやすくなるに違いないと予想していたのですが、いざなってみると若い頃と遜色なし。

結局のところ、人間というのは自我として生きている限りは、年齢をいくら重ねたところで変わりようがないのだなと思うのです。

ところが年齢によって大した変化をしないのは自我として生きている部分だけであり、自我から離れた部分では、全く様相が異なるのです。

自我をみる側である純粋な意識としての自己の発見は、生きている感覚を次元の違うところへと持っていってくれたのです。

私の中でそれが明確になってきたのは、2011年当たりからだったと記憶しています。それが少しずつほんの少しずつ明確さを増してきていて、そこに戻ることができれば全ての問題は問題ではなくなるのです。

自我と真の自己の間を自由に行き来することができれば良いのですが、そういうわけにはいかないのです。きっとこのことが解決する前に死がやってくるのだろうなと。