主従関係の逆転

子供の頃に欲しくて仕方なかった自転車をようやく買ってもらって、しばらくはお決まりの練習があって、あっちにフラフラこっちにフラフラ。

そのうちに何とか乗れるようになって、嬉しくて意気揚々とペダルを漕いでいる時に、自転車に乗せられているみたいと言われたことがあるのです。

要するに、側から見てまだまだ乗りこなすまでは行ってなかったのでしょうね。自転車の方が主人で、自分が自転車に従ってしまっている感じだったのでしょう。

このような人間と道具の主従関係が反対になってしまっている場面というのは、ままあるものですね。

クルマを高速道路で走らせている時、一体どこまでスピードが出るものか知りたくて、周囲に誰もいないときを見計らって、アクセルをベタ踏みするのです。

すると、ある速度域を超えたあたりから自分とクルマの主従関係が明らかに逆転するのを感じるのです。もう自分の思い通りには操れなくなったなと分かるのです。

こうした主従関係の逆転が起きると、非常に危険だったり場合によっては苦痛がやってきたりすることもあります。

それが私たちが日々感じている本当の自分と自我の関係です。もう少し分かりやすく表現すると、マインド(思考)というのは、本来便利なツールでしかないはずなのです。

ところが、日々の生活の中でどれだけマインド(思考)によって、自分自身が乗っ取られてしまっていることか。

考えないようにしようとしても、思考を止めることがとても難しいのです。これは明らかに思考というツールの暴走でしかありません。

今一度、マインド=思考は単なるツールであり、それを操る主人としての自分を忘れないでいることですね。

「◯◯孝行」の意味

親孝行という言葉がありますが、そこからつくった子ども孝行という言葉があってもいいと思います。意味は分かりますよね?

どちらの「孝行」も、子供は親のために、親は子供のためにと思ってする言動のことですから、難しいことではありません。

ところが、この◯◯孝行を間違えて勝手に思い込んでいる場合があるのです。親孝行と聞くと、親を旅行に連れて行ってあげるなどのイメージが浮かぶかもしれません。

もちろんそれも親孝行の一つにはなり得るのですが、本当は子供自身ができる限り満たされて生きている姿を見せてあげることなのです。

これを否定する人はいないはずです。同様にして、子ども孝行も同じこと。親自身が自らの人生を大いに楽しんでいる姿を見せてあげること。

子供はそれを見て、非常に大きな安心を得ることができるのです。それなら自分も親のように楽しむ人生を生きて良いんだなと理解するのですから。

逆に、子供のためにということばかりを願って生きるような親の姿を見せつけられたら、子供は萎縮してしまうのです。

親の幸せそうな姿を見て、嫉妬してしまうような子供がいるとしたら、その子供が病んでいるだけなので、それはただ癒せばいいのです。

私たちは、病んだ人を相手に生きるのではなく、健康なマインドを持った人を照準として生きるべきなのです。それを忘れないことですね。

余裕がないと視野が狭まる

クルマの免許を取得したばかりの初心者と、ベテランドライバーの違いは何かというと、運転そのものの上手下手もさることながら、視野の広さに違いがあると思うのです。

私自身にもそうした経験があります。何かの理由で半年くらい運転から遠ざかっていたことがあって、そこから久しぶりに運転した時に何となく怖い感じがあったのです。

自分なりに分析したところ、どうやら周囲を見る時に余裕がなく、視野がだいぶ狭くなっているということに気づきました。

何処をどういうタイミングで見れば良いのかの加減が分からなくなっていて、全部見ようとするのでさらに余裕がなくなるのですね。

クルマはスピードが上がるほど、ただでさえ視野が狭くなっていくという原理があるので、見えてない部分が多くなって危険を感じるということです。

こうしたことは、クルマの運転に限ったことではなく、心の余裕と視野の広さというのは強く関連しているのだと思います。

お腹が痛くて冷や汗をかきながらトイレを探している時など、周囲にどんな美人さんが歩いていようと全く目に入らなくなるほど、視野が狭くなるのを知っています。

逆に心にゆとりを感じている時などは、すごく視野が広がっていて周囲の状況に対して自然に気配りすることができる感じがします。

ここ何年も感じていることですが、街で見かける人々の視野が狭くなっているのかもと思うことに遭遇することが多くて、日本の未来は大丈夫なんだろうかと少し心配になりますね。

子育てをしているお父さんお母さんの心に余裕がないと、家庭の中といえども視野が狭くなってしまい、子供の気持ちを受け止めることができなくなってしまうのです。

これが一番困ったことです。余裕のない親に育てられたかもしれないと思うなら、是非とも自分で過去の自分を受け止める練習をすることですね。

突然頭の中が真っ白に…

急に頭の中が真っ白になってしまって…、というのはよく聞く話しですね。緊張してそうなることもあるだろうし、言うべきことを言おうとした途端にそうなってしまうこともあるかもしれません。

とにかく、本人としては突然頭の中から次に言う言葉が消えてしまうわけですから、それはもう軽いパニックになったようなものです。

私にも経験があります。社会人になって初めての海外出張の時に、ニューヨークの空港で当時大人気の女優さんを見かけて、すごくファンだったので握手してもらおうと手を差し出したのです。

ところが、身体は動いたのですが言葉が出てきません。その女優さんの立場になったら、手だけを差し出して無言で立ち尽くしている若い男がいたら、困ってしまうはず。

彼女は「あらっ!」というちょっとした驚きの表情をして笑顔で握手してくれました。それがものすごく恥ずかしいやら何やらで、自分としてはあまり良い思い出にはなっていません。

強い緊張というのは、ある意味恐怖を感じているのに近いのでしょうね。だから冷静ではいられない状態になるので、防衛が働いて無言にさせるのです。

無言にすることで、とんでもないことを口走ってしまうというリスクを避けるわけです。ただ冷静になって考えれば分かることですが、無言でいることの方がどれほどリスクが高くなるのか。

ということは、この防衛は幼い子がやっていることだと分かりますね。親に日頃言いたいことが言えずに我慢している子が、ある瞬間怒りと共に自己表現しようとして、言葉が出なくなるということがあります。

これも同じことですね。本音を言ってしまったら、その結果どんな危険が待っているかを想像することで、頭の中の言葉を奪う誰かが活躍するのです。

もしも今後、あなたが頭が真っ白になる経験をしたなら、それはあなたの中にいる幼い誰かが自分を守ろうとしてやっていることだと理解した上で、その子を優しく抱きしめて安心させてあげることですね。

他人を救う唯一の方法

この世界は不公平ですね。生まれながらに恵まれた環境でなに不自由なく生きてこられた人もいれば、家族ごと奴隷として生活している場合だってあるのです。

金持ちの国に生まれて、国民みんなが大金持ちの場合もあるし、戦争や災難で国を追われて世界中を転々とする場合だってあるのです。

幸せな人は放っておいても良いですが、苦難に苛まれている人々を助ける方法はないのでしょうか?

そんな都合のいい方法があるわけはないと思うかもしれませんが、実はたった一つ方法があるのです。

それはあなたがマインドから解放されて、あなたの本質に戻ればいいだけなのです。この世界は不公平で理不尽極まりないと思うのは、あなたのマインドのせいなのです。

マインドは常に、比較や判断によって物事の優劣、善悪、正不正、幸不幸などを作り出すからです。それは実在ではないということ。

あなたが見ているこの世界はあなたのマインドの生み出した世界だからです。本当は、ただ単に起きることが起きているだけ。

あなたのマインドがなければ、他人も同じようにいなくなるのです。他人がいるように振る舞うことはできますが。

これが本当の救いですね。つまり、救われるようなものは元々何もないという救いです。なので、明日の心配をするよりも今を楽しむことですね。

かつてのmixiの日記から

以前 mixi というSNS に入っていたことがあったのですが、10年ぶりくらいにログインしてみたら、まだアカウントはそのまま残っていました。

日記を毎日書いていたことを思い出して、見てみたら今よりも真面目な雰囲気で書いていましたね。でも内容は、今とあまり変わり映えしないようです。以下は、2011年10月29日の日記です。

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「私とは誰か?」と問うよりも、「私とは何か?」とやったほうが自分の場合はうまくいくようです。それは、「誰」という言葉にかけられたフィルタを通さずにいられるからです。 

そして面白いことに、何か?と問われると、ほんの少しだけイラつく気持ちがあるようにも感じます。自分は人物なんだぞ!とでも言いたげな。 

しかし、もっと明確に根っこを感じるには、「私はどこにある?」という問いが一番適切だということが分かりました。 

この問いはものすごく強烈に自分の本性を見ることへといざなってくれます。以前、ダグラスさんの実験をやり始めた頃にずっと使っていたものです。 

私は身体の中にも外にもどこにもいない、どこをどう探してもどうやっても見つけることができないとなった瞬間に、私はすべてだという感覚がやってきます。 

私はいないということが、私の本質なのだという何とも言えない感覚が、最大の救いなのかもしれません。いつもそれであれば、恐れがなくなって無防備でいられるからです。 

これほどの平安はどこにもありません。すべてになったとき、時間と空間を越えているのが分かるような気がします。 

気がするというのは、そのときには何も思考しない大いなる気づきがあるだけで、そこから抜けて普段の自分に戻ったときに、振り返ってそう感じるだけだからです。 

だからどうしても表現が曖昧になるのだと思っています。「それ」を信頼することができれば、いや信頼することによってより一層馴染んでくるはずです。 

その何もない空(くう)である気づきから、「私」という想念が立ち上がって、そこからあらゆる想念のお化けがやってくることが不思議でなりません。 

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気分の良い時とは?

誰でも気分が良いのが好きだと思うのですが、私なりに気分がいいのにも種類があるなあと思っています。

大きく分けて三種類ほどあるなと。一つ目は、明らかな外的要因がある場合です。例えば、試験に合格したとか、宝くじに当たったとか、好きな人に好きと言われた等々。

気分が良い原因が自分でもはっきり分かっている場合です。この時の気分には、多少なりとも興奮のようなものが混じっています。

二つ目は、自然環境的な要因がある場合です。私であれば、程よい気圧と気温、そして湿度が揃っていると、多少嫌なことがあったとしても気分が良いのです。

気候に左右されるという人は意外に多いかもしれませんね。憂鬱な海外出張があって、現地まで行って急に元気になったことがありました。

それは、日本と比べてその国の湿度が非常に低かったのが原因だと思っています。とにかく、気候は気分を大きく左右するのです。

そして最後の三つ目は、外側には何も要因となるものがなく、だからすぐには自分でもこの気分の良さは何だろうとなるのです。

最近でははっきり分かるようにもなってきました。それは、きっと自我が静かな状態になっている場合なのです。

自我が静かということは、自我からそれだけ解放された状態になっているということです。だからその時の気分の良さには、独特の雰囲気があるのです。

非常に静寂な落ち着きと、柔らかさと、広がった清々しさのようなものをまとっている感じがするのです。

残念なのは長続きしないということです。自我はいつだって活躍する時を狙っているのですから。自我=防衛=煩悩 ということが理解できれば、当たり前のことですね。

ジョウゴから抜ける

下のようなジョウゴの中に小さな玉状のものを投げ入れたら、少しの間斜めの部分をクルクル回りながら、いずれは下へと落ちていくのをイメージできますね。

逆に言えば、落ちないようにするためにはある程度の速度で回り続ける必要があります。玉の回転運動による遠心力と重力が釣り合えば、そのままずっと落ちずにいられるのです。

なんでこんなイメージが出てきたかというと、私たちの自我ってちょうどそんな感じなのではないかと思ったからです。

回転運動とは、思考活動のことです。常に思考を使って何かを考え続けていれば、自我として成立していられるのです。

ところが、万が一思考が止まってしまえば、真っ逆さまに下へと落ちて消えてしまう運命にあるということです。それが覚醒ということです。

それが自我の正体です。それならなぜ、深い瞑想をして思考が止まったかのようになっても、おいそれとは覚醒することができないのでしょうか?

それは、マインドの中の無自覚の部分、一般に無意識とか潜在意識と言われている部分の中に吹きすさぶ思考の嵐がいつも渦巻いているからです。

その部分が静かにならない限りは、ジョウゴの下から落ちて自我が消滅することはないということです。

私たちが見る夢の正体がそれですね。だから覚醒した人はもう夢を見ることがなくなってしまうのです。

瞑想の訓練をして、表面意識を静かにすることはとても大切なことですが、それだけではいつまで経っても本当にはマインドを静かにすることはできません。

癒しによって潜在意識のエネルギーを小さくして、その中の思考をも鎮めてあげることによって、ジョウゴから下へと落下していくことができるのですね。

死を意識することの大切さ

年齢を重ねていくと、若い人々と比べて有利だと思えるようなことがいくつかあります。一般的なイメージで言えば、年齢とともに次第に穏やかさが増していくのです。

若い時には、これから自分の人生を開拓していかねばならないし、未知数なことが盛りだくさんなので、どうしても力が入りがちなのです。

そのため余裕がなかったり、毎日が戦いの様相を呈したりすることになるのです。一方で、人生の先が見えてくればおよその見当がついてくるのです。

そうなれば、カリカリしていたものが肩の力が抜けてゆったりとした態度にもなれるわけです。高齢者の余裕のようなものをまとうようになるのです。

ところが、年齢を重ねていっても若い時と変わらないどころか、よりひどくなっていく人もいるのですね。

その違いは何かというと、そう言った人々の場合は、死が間近に迫ってきているということから目を背けて生きているのです。

そうなると、もっともっと結果を残さなければいけないとか、若い人には負けられないと言った気持ちが強いので、高齢者であることのメリットを享受できないままなのです。

偏屈な人がより偏屈になったり、頑固な人がもっと頑固になったり、より怒りが強く出るようになったりして、手がつけられなくなったりするわけです。

やっぱり、老いては子に従えではないですが、死をしっかりと意識することがどれほど大切なことかが分かりますね。

勝手な期待を捨てる

20世紀最大の物理学者と言ったら、アインシュタインの名前を挙げる人が多いかもしれませんね。天才というだけでなく、どことなく愛嬌のある容姿も素敵です。

きっと彼は年中頭の中で、誰も気づいたことのない理論を考えていたのだろうなと想像できるのですが、実は非常に女癖が悪かったのです。

というと聞こえが悪いですが、女性がすごく好きと言い換えればいいのでしょうか。なんたって、ノーベル賞を受賞した時に、その賞金を奥さんへの慰謝料に当てたようです。

私はそうしたエピソードを聞いて、一瞬はびっくりもしたのですが、より彼の人間的なところに触れられた感じがして、よかったなと思うのです。

もう一人、量子論の元となる波動方程式を発見した、シュレディンガーという有名な学者がいたのですが、彼はもっと破天荒だったようで、あちこちの女性に自分の子供を産ませていました。

難しい顔をして、一人静かに数式と向き合っているイメージを勝手に持っていたので、これまた意外だったのです。

覚醒してしまった人は、醜いエゴが消えてしまった状態なので、物凄い人格者のような立ち振る舞いをするものだと想像してしまいますが、実際は人格が消えているので人格者でもありません。

私たちは知らぬ間に、自分に都合のいい期待をしてしまうということですね。私は、自分の期待を見事に打ち破ってくれる事実に出会うのが好きです。

なんだか、小気味いいし、自分の勝手な期待の馬鹿馬鹿しさにも気づけるからですね。