千載一遇のチャンス

千載一遇のチャンスとは、ネットで意味を調べてみると、千年に一度あるかないかの大チャンスのことだそうです。

かなりオーバーな表現ではあるのですが、そのくらいのまたとない大チャンスがある日やってきます。

感のいい人なら察しがつくかもしれませんが、それが死にゆくということです。生と死はコインの裏表のように真反対と思っている人が多いかもしれません。

けれども、死というのは人生の一部です。人生の最後の瞬間にそれがやってくるので、生きることの範疇なのです。

それで一体それがどんな大チャンスなのかというと、自分の本当の姿が何であるかを気づかせてもらえるチャンスなのです。

ただ残念ながら、ほとんどの人が危篤になってしまったり、意識が朦朧となったりしてしまうので、その大切なチャンスを逃してしまうのですね。

非常にストイックで修行が大好きな人であれば、難行苦行に勤しむことでいつかは覚醒できるのでしょうけれど。

私のような辛いの嫌いというタイプにとっては、楽をして気づきたい気持ちが満々なので、死ぬ瞬間に期待しているのです。

意識をしっかりと保ったままでいられるなら、これが自分だと思っていたあらゆる感覚などが消えていく様を見ていることができるはず。

その結果、死が通り過ぎた後に残ったもの、それこそが本当の自分ということになるのですね。それを考えると、死ぬことも楽しみになりそうです。

ただし、大事なチャンス到来の時に、無意識にならないようにそれまでに十分に練習しておくことは必要でしょうね。

人助けには依存性がある

人は誰かを助けたいという欲求を持っています。欲求などと言ったら失礼かも知れませんね。優しさとか愛と表現した方がいいのかもしれません。

誰かのことを助けることができると、助けたことの報酬をもらうことができます。それは、お礼の言葉だったり、感謝だったり、自己満足だったり、いろいろです。

そもそも助ける立場というのは、非常に都合がいいのです。何一つ否定される恐れがないし、人助けは美徳とされているので自分の価値も上がるというものです。

誰かに迷惑をかけてしまったら罪悪感が来るのですが、助けることは逆にあらゆる嬉しい感情がやってきます。

けれども、「包帯を巻くことができなければ、傷口に触るな」という言葉があるのを知っていますか?

私は、学生の時にこの言葉と出会ってなるほどなと深く感銘を受けたのを覚えています。相手の人生という枠を見据えたなら、そう簡単に手を差し伸べることもできなくなるのです。

本当にそれが相手の人生にとってプラスになり得るのか?を考えるからです。その瞬間の相手の喜びや嬉しそうな表情、感謝の気持ちなどだけで早計に助けようと思うのは、未熟なマインドなのです。

私はとにかく見守るというのを自分の基本的なスタンスにしています。確かにすぐ手を差し伸べたら、自分は楽かもしれませんが、それはあまりに身勝手というものです。

すぐに相手のために何かしてあげようとしてしまう人、あれこれと相手のケアをして喜んでもらいたいと思う人、相手の期待に応えようと頑張る人。

まずは見守るという姿勢を覚えることを学んでもいいと思います。何であれ、長い目で見るという習慣を身につける必要があるということですね。

時間の流れから抜ける

私たちが思考の中にいるときには、現在を知ることはできません。なぜなら、思考は過去と未来の中でしか活動できないからです。

ところが、過去はもうすでに過ぎ去ってしまい、未来はまだやって来ていないのですから、実在しないところでしか思考は生きられないのです。

私たちの潜在意識は過去で膨れ上がり、それをベースに未来をイメージしつつ毎日を生きているということですね。

残念ながら、ここにはどんなリアリティも入り込めません。その逆に、深い瞑想状態のように思考が止まると、今度は実在しない過去と未来が消えてしまうのです。

その一方で時間というジャンルではない現在だけがここに存在するということが分かるようになるのです。

つまりは、私たちが日常的に活動している思考の世界では、リアルな世界を見ることはできていないということですね。それが、私たちの持っている時間感覚なのです。

こうしたことがあらためて分かってしまうと、この世界に流れる絶対的な時間というものなどどこにも存在しないということを認めるしかありません。

一瞬でも無思考を体験したことがあるなら、それを知っているはずです。言葉で表現するのは難しいですけど。

物語としての人生から脱出して、リアルな世界で生きたいのであれば、今日からでも瞑想を始める必要がありそうですね。

我慢には2種類ある

何も我慢せずに生きて来た、という人はまずいないはずですね。人間生きていれば、必ず我慢することは付いて回るのですから。

けれども、同じ我慢でもその原因、あるいは根拠となるものが2種類あるのをご存知でしょうか?今日の話しはそれほど難しいものではなく、ある意味当たり前のこと。

何かの熟達を目指して頑張っているとき、もう辞めたいと思ってもそこを何とか我慢して継続することで、望んだ目標に近づけるのです。

この場合は、そうしたいと願ってすることなので、その我慢には自己犠牲がありません。筋トレでも、楽器のレッスンでも水泳の練習でもなんでもそうです。

それで心が疲弊するということはまずありません。逆に、我慢を乗り切ったことで達成感がやってくるかもしれません。

その一方で、全く異なる理由からくる我慢もあるのです。それはシンプルに表現すれば、自己防衛からくるものと言えます。

人は安心したいという根深い欲求を持っています。不安や恐れ、あるいは罪悪感などがやってくれば、あっという間に安心が消えて行ってしまうのです。

そうなったら是が非でも安心しようとして、あらゆる防衛を繰り出すのです。特に、敏感な人ほど他人との関わりの中で罪悪感を作り出しやすいものです。

その罪悪感から逃れるために、相手の期待に応えようと無理やり我慢をすることになるのです。この我慢は繰り返されれば必ず、いずれは牙を向いて本人に襲いかかってきます。

そして鬱になったり、あらゆる問題行動を引き起こしたり、身体の不調を起こしたりと言ったことが起きてくるのです。

自分がどちらの種類の我慢をより多くしてきたのかをしっかり認識することです。もしも、防衛からくる我慢を繰り返してきたなら、その生き方を変えていく決意が必要ですね。

相手の立場で考える

子供を対象としたある実験があるのですが、ある家庭で二人の子供がいるとします。上の子は4歳で、下の子が3歳とします。

その子供たちの前に2つの箱が置いてあり、それぞれをAの箱とBの箱とします。その部屋にお母さんが入ってきて、Aの箱におもちゃを入れてフタをして部屋を出ていきます。

次にお父さんが入ってきて、Aの箱からおもちゃを取り出して、それをBの箱に入れてフタをして出ていきます。

箱の中は外からは見えないようになっています。さて、しばらくしてまたお母さんがおもちゃを取りに部屋に入ってくるのですが、ここで子供たちに質問するのです。

「お母さんはどちらの箱を開けようとしますか?」と。すると下の子はBの箱を開けると言うらしいのです。

一方で、上の子はAの箱を開けると言うそうです。この違いはどこからくるのかというと、相手(この場合はお母さん)の立場に立って物事を考えているかどうかなのですね。

下の子は自分がBの箱におもちゃが入っていることを知っているので、その知識をそのまま使ってしまうということです。

上の子の方はあくまでもお母さんはBの箱におもちゃが入っていることを知らないという、お母さんの事情を理解しているのです。

このように、個体差はかなりあるのでしょうけれど、ある年齢を超えて初めて相手の事情を考慮することができるようになるのです。

マインドのこういった仕組みが何かの理由で発達不全を起こすと、相手の立場に立てない大人になってしまう可能性が出てくるのでしょう。

そのような人が仮に結婚して親になったとしたら、その親に育てられる子は健康な心を持って成長できるとはとても思えないですね。

X=3 って何?

私の記憶では、一次方程式を習うのは中学一年生の時だったと思います。例えば次の式 2x=6 があるとして、これを解くと、x=3となりますね。

大人になってこれが解けない人はあまりいないだろうと思いますが、初めて計算式の中に数字に紛れて x というアルファベット文字が入ってくるわけです。

そのせいで、x という文字と3 という数字がイコールだということが、生理的に理解できないという子供がいるらしいのです。

確かに 2+1=3 なら分かるのですが、どうしてxという文字が3という数字と同じなのか?と密かに心の中で不信感を抱いてしまったら、その先の数学の勉強が苦手になっても不思議ではないですね。

こうしたことの心のケアを生徒一人ひとりに対してきめ細かくしていくのは、現実的には難しいことなのかもしれません。

そのくらい人の感性というのは、思っている以上に違いがあるということですね。それが最初のちょっとした違和感を生むのです。

そしてそれが、一つ目のボタンのかけ違いのようにその後にずっと大きな影響を及ぼし続けてしまうわけです。

子供たちに物を教えるということが、どれほど注意深く熱意を持ってなされなければならないかが分かりますね。

私の密かな希望として、子供たちにこのブログでいつもお伝えしているようなことを、できるだけ分かりやすく教えることができたらなと思っています。

ただし、子供たちに興味を持って聞いてもらえるようにできるかどうか、そこが一番大事なところですね。

人間なんてそんなもの

多くのクライアントさんとセッションをしてきて、時々すごく違和感を感じることがあるのですが、それは自らの否定的な部分を思いのほか激しく攻撃してしまうということです。

例えば、人の不幸を喜んでしまったり、逆に人の幸福を妬んでしまったりと言ったことを、とても嫌うのです。

素直に人の幸せを祝福したり、人の不幸を悲しんだりすることができない。そうしたことを必要以上に忌み嫌うのです。

私からすると、そんなことは誰の心の中にもあるものだし、少しばかりの大小の違いはあったとしても、人間なんて所詮はそんなものだと思っているのです。

私たちは、自分が惨めな状態でいることをとても恐れているし、何とかして惨めではない自分になろうと必死になって生きているのです。

その必死さのエネルギーが仇となって嫉妬心を作り出すし、自分と他人を比べて一喜一憂してしまうのです。それを責めてしまったら、立つ瀬がないでしょう。

こうした度を過ぎた自己否定はどこからくるのでしょうか?それは、幼い頃に繰り返し親から否定された(と感じた)ことが原因なのです。

この自己否定感が自己イメージの土台となってしまい、否定するべき自分を見つけるや否や、ほらやっぱりとばかりに否定に走ることになるのです。

私に言わせれば、言われなき否定なのです。マインドの仕組みをしっかり理解すれば、どんなマインドでも否定する必要はないと気づくようになるのです。

そうなったら、それまでどれほど自分のことを理不尽なほどに否定してきたか、しみじみ分かるというものですね。

進路を絶たれる経験

人生では成功することもあるし失敗してしまうこともありますが、どちらがより気づきを得ることになるかと言えば、勿論失敗した時だと思っています。

成功は嬉しいけれど、失敗は辛いです。けれども、その辛さが骨身に沁みるほどであればあるほど、そこから大切な気づきを得ることができるのです。

ブッダが6年もの間、あらゆる難行苦行を経験した後に、少しも変わることができなかったとして心の底から挫折したのです。

その大きな大きな失敗のおかげで、自我が落ちていってくれたのです。自我が観念したのです。それで覚醒することになったのですね。

親鸞聖人が、阿弥陀仏の慈悲を信じてひたすら念仏を唱えれば、本当の幸せを手に入れられると説いたのも、実はその前に決定的な挫折をしたからです。

比叡山で散々修行をした結果、1ミリも煩悩が減ることはなかったとして、一人その修行を中座して山を降りてきてしまったのです。

そういったとてつもない大きな失敗によって、心底自力では無理だと悟ったからこそ、他力本願を推奨するようになったのです。

だから、一般人が言われるままに念仏を唱えたところで、そうは問屋がおろさないということになるのです。純粋な帰依の状態にはなれないのです。

徹底的に打ちのめされるような失敗をすることで、人は確実に路線を変えることができるようになるのですね。

モノは存在しない

私たちは様々なモノに囲まれて生きています。あなたが今過ごしている部屋の中には、ソファやテレビ、あるいは机やパソコンなどがあるかもしれません。

ところがそうしたモノは、確固とした存在ではないということが先端の量子論によって分かってきたのです。

あなたが認識するということで、それらとの「関係」を持つことで一時的に存在するように見えているということです。

その証拠に、あなたがその部屋から出ていってしまえば、部屋の中のあらゆるモノは不定の状態になるのです。

つまり、「色即是空」ということです。色というのはモノという意味で、モノはこれすなわち「空」であると言っているのです。

この「色即是空」が言わんとしていることに、人類はようやく科学の分野から追いついてきたということですね。

確固とした存在がないのは、モノだけではなく私たちの自我についても同じなのだろうと考えています。

以前より、自我というのは他者との関係性の上にあるということを言ってきました。ところが、私たちは自分(自我)を独立した個別の存在(モノ)だと思い込んでいるのです。

残念ですが、もうそろそろこの馬鹿げた信念を取り下げる時が近づいているのだと思います。私やあなたはいないのです。

それは関係性でしかなかったのです。だから私たち自我は、本当には独りでは生きていけないのです。ただし、思考によって擬似的に他との関係性を維持することは可能です。

思考をグルグル回転させておけば、自我は思考内の対象との関係性の上に存続できるからです。自我にとって、瞑想が好ましくないと感じるのはこうした理由があったのですね。

ゆったりと過ごせてますか?

自我が防衛を緩めてくれたら、人生は自ずとゆったりとしたものになっていくはずです。大人になれば、自分で自分をゆったりさせようという選択肢も生まれます。

ところが、幼い頃から親自身がゆったりとした生き方をしていなければ、その環境下で子供がゆったりすることなど不可能なのです。

そして、深いところではゆったりしたいと願っているのに、そんなことには全く気づくことなく毎日をセカセカと過ごすことになるのです。

つまりは防衛の毎日、戦いの毎日、あれこれ気忙しい毎日、少しもゆっくりしていられない人生が、続くことになるのです。

そうした環境下で育つと、あるがままの自分でいてはいけないというメッセージを毎日受け取ってしまっているようなものなのです。

これが子供の問題行動を誘発することになってしまうのは、想像に難くありません。本当はこんなの嫌だ、が積まれていき、それが問題行動となって起きるのです。

子供自身にそれを気づいて欲しいと願うのは、全くもってお門違いですね。家庭での洗脳がとても深く染み付いてしまうのですから。

加えて、親の道徳感、倫理観、正しさ、そう言ったものを強く子供に押し付けてしまえば、子供は強烈な問題行動を起こして抵抗するようになるはずです。

人生が何かうまくいってないなあと感じたら、自分が自然でいられるようなゆったりとした時間を過ごせているかどうかをチェックすることですね。