どんな体験であれ違いはない

現実というものの本質は非二元だということに気づいてからは、二元の世界でどんな体験をしようと、特に違いはないということになってしまいました。

誰もが嫌な体験よりも、より良い素晴らしい体験をしたいと望んでいるのは当然なのですが、それでも全部同じなのです。

なぜなら、体験者はいないからです。ちょうど10年前にちょっとした覚醒体験のようなものが起きて、自分にとっては生まれて初めての素晴らしい体験だったのです。

そして、そんな体験を繰り返したいと願っていたのですが、そんな希望も今は無くなってしまったようです。

それはただの体験であるということに気づいたからです。どんな体験であれ、そこにはどんな意味もありません。

優劣をつけて比べることもできないし、価値もないし、もちろん善悪なんてものもありません。体験以外は全て幻想だからです。

誰もいないのにあらゆる体験だけがあり続けるという、この不思議な現象をどのようにも捉えることもできないのですね。

セラピーのベースは因果の法則

日々クライアントさんと一緒にやっているセラピーの元となる原理は、因果の法則であることは間違いありません。

クライアントさんが現在抱えているあらゆる問題には、必ずその原因となるものが存在するという立場です。

だから、結果である問題ばかりに注目していても、そこからは何も解決することができないのは当然のことなのです。

人生の初期の頃に遡って、そこで何を経験してきたのかを深掘りすることで、原因を特定することができるわけです。

ところが、一方で非二元では因果というのはありません。なぜなら、時間が単なる概念であるということに気づくからです。

非二元では、リアルなこととリアルではないことが明確に分かれてしまうので、時間も空間もみんな幻想でしかないのです。

だから主体なしに体験することだけがリアルなのです。それ以外のありとあらゆる事柄は全て偽物なのです。

ここがはっきりしてしまうと、もうどうしようもありません。ただし、通常私たちは時間の流れの中で人生物語を生きていると信じています。

つまり因果の法則の中で暮らしているので、普段行っている心理セラピーの方法が的を射ていると言えるのですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

貨幣経済のせいで面倒が増える

母親が亡くなって、これから様々な処理をしなければなあと思って、それらを書き出してみたのですが。

それで気づいたことがあるのですが、それはそのほとんどがお金にまつわることなのですね。本当にびっくりしました。

例えば、年金をストップするための手続き、遺産に関することでは税務署に提出する書類の作成、遺産分割協議書等の作成。

あるいは、銀行などへの書類提出、生命保険会社への手続き等々。唯一違うのは、納骨堂への連絡、申し込みの処理だけだったのです。

これ、貨幣経済がなければほぼ事後処理なんてないはずなのです。どれだけお金に翻弄されてしまうのか。

お金が足りてるとか不足しているといったことだけではないのですね。それを思い知らされました。

さて、次は私自身が棺桶に入る番なので、あとは残された家族が処理しやすいようにしておくくらいは考えておきたいと思います。

YouTube動画をAIに褒めてもらった

私のYouTubeチャンネルの中で、【非二元】シリーズについての感想文を書いてとAIに頼んだら、以下のような文章を作ってくれました。

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大澤富士夫チャンネルの【非二元】シリーズを拝見いたしました。これらの動画は、非二元(ノンデュアリティ)という哲学的概念を多角的に探求し、視聴者に深い洞察を提供しています。 

例えば、「【非二元】分離という概念」では、私たちが日常的に抱く「自己」と「他者」の区別や、物事の分離という考え方が、実は幻想である可能性について考察されています。

 また、「【非二元】知ってることは全てイメージ」では、私たちが持つ知識や概念が、実際にはイメージや思い込みに過ぎないことを示唆しています。   

これらの動画を通じて、大澤氏は視聴者に対し、固定観念や既成概念を超えて、現実や自己の本質を再考するよう促しています。

非二元の視点から見ると、私たちが普段当たり前と感じている「分離」や「自己」という概念が揺らぎ、新たな視座が開かれるように感じました。

全体として、大澤富士夫氏の【非二元】シリーズは、視聴者に深い内省と新しい視点を提供する貴重なコンテンツであると感じました。

非二元という難解なテーマを、具体的な例や平易な言葉で解説されており、多くの人々にとって理解しやすく、有益な内容となっています。

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といった具合ですが、AIに褒めてもらったようで、ちょっと嬉しい。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

葬儀の習慣の不思議

母親の棺の中に一緒に入れてあげるものを持って、葬儀屋さんの遺体安置施設に行って、死化粧を施されてる母親の顔を見たのですが、ちょっと鼻が高くなっていたような。

人間て、死ぬとやはり何か違う存在になってしまうのですね。身体は単なる抜け殻となって、それこそ当然ですが生気がない感じ。

私の方針は、父親の葬儀の時もそうだったのですが、通夜や告別式をせずに、直接火葬場へ搬送してもらって、火葬のみを行う火葬葬というものです。

家族だけで執り行うものです。家族の要望もあるので、一応僧侶による読経だけはお願いしているのですが。

普段は、自分の家系がどの宗教だったかも忘れているクセに、こういう時だけ宗派に拘ってるのが不思議な習慣だなと。

当然私の葬式も火葬葬にして、読経もしないようにと家族には伝えてあります。そして不思議なことがもう一つ。

普段は全く会うこともないような親戚が、本人の葬儀の時だけ会いにくる。これには一体どんな意味があるのかなと。

そんな人を責めているわけではないですが、せっかくであれば生きている間に会いにくればいいのにと思ってしまいますね。

自己表現を抑えると不幸になる

この仕事を始めてからずっと共通して感じていること。それは、自己表現がしっかりできずに育ってきてしまった人が大勢いるということ。

そしてなぜ、そうしたことが頻繁に多くの家庭で育てられている子供の身に起きてしまうのかを見つめてみたのです。

すると、自己表現が抑えられてしまういくつかの要因があることがわかりました。それがずっと言い続けている、自己表現を抑える三つの要素です。

一つ目は、恐怖です。怖いと感じる相手には自由な自己表現を抑えてしまうのです。子供限定ではなく、人間の生まれ持った防衛本能です。

二つ目は、大変そうな人、辛そうな人、余裕がない人に対しては、罪悪感が生まれそうになるので、やはり抑えが効いてしまうのです。

そして三つ目は、自己否定感あるいは自己嫌悪感。自分がダメなんだとか自分が悪いと感じてしまうと、どうしても人は自己表現にブレーキがかかってしまうのです。

この三つの要素の一つでもあれば、子供は自己表現ができない毎日を送ることになってしまうはずです。

そしてもしも、同時に二つ、あるいは三つの要素に該当するような場合には、もう決して自己表現ができない人間になってしまいます。

たとえば、お父さんがとても怖かったし、お母さんが大変そうでいつもバタバタしていたり、つらそうに愚痴を言うなど。

このダブルパンチ状態は、普通に思っている以上に過酷な家庭です。そして、そこにあなたが悪いというメッセージをもらうようでしたら、まさにトリプルパンチとなってしまいます。

自己表現が苦手なのは生まれ持った特性だと考えている人がいたら、それは違うということをお伝えしたいのです。

そんなDNAなどないからです。思い当たるかもという人には、ぜひ心の癒しを実践していかれることをお勧めします。

なぜなら、自己表現ができなければ不自由な人生になってしまうし、その自己防衛が多大な自己犠牲を生むため、人生が破壊されかねないからですね。

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母親が旅立ちました

午前中に、老人ホームから連絡が入って、母親の呼吸がおかしいというので急遽駆けつけたのですが、まだ力が残っているようでとりあえず自宅待機に。

そのせいで、予約をキャンセルしなければならず、大変申し訳ない。ところが、遠方よりいらしたご夫婦ということが分かり、キャンセルをキャンセルしてやることに。

ご主人のセッションが終わり、少しあけて奥様のセッションをもう少しで終えるという時に、再度ホームから連絡が。

これはもう駆けつけなければならいと直感して、急いでセッションを終えて車で四十分ほどのホームヘ。

ところが、その時にはすでに母親は息を引き取った後でした。静かに、天国へと旅立ったようです。

食事がのどを通らなくなってから、5日ほどで人生を終えることになったので、まあまあ引き際が綺麗でしたね。

良心的な価格で入居することができた老人ホームで、母親は二度と自宅に戻ってくることはできませんでしたが、とても親切なスタッフさん達に介護されたなあと。

葬儀屋さんの車で運び出される前に、スタッフの皆さんが母親に丁寧な挨拶をしてくださったのも感動的でした。

所長さんによると、母親はスタッフの人たちから人気があったということで、それも嬉しい情報でした。

母親の気質は、誰とでも気さくに話ができるので、今世では親子でしたが来世では飲み友達なんてのもありかも。

96年と2ヶ月、お疲れさま!

無邪気な心は天候を気にしない

ここ数年はほとんど散歩らしいことをしなくなっていたのですが、数日前に久々に近くの大きめの公園に行ってきました。

ちょうど曇り空だったので直射日光に当たるでもなく、さりとて寒いということもなくて、程よい散歩日和でした。

考えてみると、ちょっと寒いと嫌だし、少し暑いとこれまた汗をかくので嫌だし、ということで散歩に適した日が滅多にないなと。

子供の頃などは、よほどの風雨の強い日以外は、天候のことなどほとんど気にすることもなく、毎日外で遊んでいたように思うのです。

この違いはどこから来るんだろうかと。確かに年齢のことを考えれば、こうした違いが多少あっても当然かもしれないのですが、それだけかなと。

きっと今、自分が何かに夢中になっているようなことがないので、身の回りのちょっとしたことにも必要以上に気づいてしまうのかなと。

夏の暑い日に、顔を真っ黒にして汗だくで外で遊んでいた頃の感覚を思い出そうとしても、出てこないですね。

優劣をつける必要はありませんが、一点集中でいられるあの無邪気な状態をもう一度味わいたいなと思ったりします。

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主治医との意思疎通は大切

今日、母親が入居している老人ホームに行って、主治医の往診に立ち会うのと同時に、今後の治療の方針について主治医の方とお話をしてきました。

私が伝えたことは、食事ができなくなっている状態が、何か特定の病気が原因であるなら、それを治療してもらいたい。

けれども、全体としての老衰によるものであるとするなら、身体が食べ物を受け付けなくしているということを意味しているのだろうなと。

だとすると、外側から無理に栄養などを身体に与えることは、かえって身体に負担になるだろうし、本人の負担も増えるのではないかと。

だから延命などの目的で、点滴などをするのは控えて欲しいと。その上で、本人の痛みや苦しみがあるならできるだけの緩和措置をして欲しいと。

こうした意図が、スムーズにその主治医の方に伝わったと感じることができたので、とてもありがたかったです。

その上で、まさかのときには24時間いつでも駆けつけて下さる旨を確認できたのです。これも併せて、ありがたいことですね。

そんな話し合いをよそに、ベッドで横になっている母親は意外にも声がデカくて、力強い感じがしてまだまだ余力がありそうだなと。

あの美味しさは二度と味わえない

誰にでも経験があると思うのですが、今までに食べた忘れられないモノ。単に味が美味しいというだけでなく、とにかく印象深い食べ物。

私にもいくつかあるのですが、一つは小学3年生の時に隣の次郎ちゃんの家に遊びに行った時に、おばさんが出してくれたアレ。

ホットケーキを小さくしたようなもので、もっと平べったいのですがそれがとにかく美味しかったのです。

家に帰って母親に同じようなものを作って欲しいとお願いしたのですが、結局その願いは叶えてはもらえませんでした。

また、やはり小学生の頃のことですが、母親が冷蔵庫でアイスクリームを作ってくれたのですが、それがなんとも美味しい。

はっきりとは覚えていないのですが、容器に取っ手のようなものがついていて、それをグルグル回して、粘り気のあるソフトクリームのようなものにするのです。

それにバニラエッセンスで香り付けしたのでしょうね。もう夢のような食べ物だったのですが、それもいっときのブームで終わってしまいましたね。

そして最後は会社員の時に飲んだ赤ワインの味。これが忘れられないのです。工場長から1万円をいただいて、NHKの若手職員と一緒に行ったレストラン。

ごく普通のファミリー向けのレストランだったのですが、そのお店で一番高いコースを注文した時にグラスワインとして出てきたあの赤ワイン。

それがなんという名前のワインだったかは分からないのですが、その後似たようなワインを探してあれこれ飲んだのですが、未だに見つかってない。

あの次郎ちゃんの家で食べたおやつも、家で食べた手作りのアイスクリームも、そしてささやかな打ち上げで飲んだワインも、今味わって見たら大したことはないのかも。

かけがえのないあの瞬間の自分だったからこそ、忘れられない美味しい体験ができたのかもしれないと思うのですね。

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