主体は客体によって存在を担保する

左脳優位の人ほど、知的な理解というのを求めている傾向が強いのではないかと思っています。つまり、一般論としては男性なのかなと。

もっとざっくり言ってしまえば、自我は基本的には理解したいという欲求を強く持っているとも言えますね。

理解するということは、対象に対する恐れが軽減されるという効果もあるし、理解したことで目線を下げることができるのです。

そしてもっと本質的なことを言えば、理解するということは対象に対して理解するということなので、主体としての自分が明確になるという効果もあるのです。

主体というのは、客体となる対象が存在しなければ成立しないのです。このことに気づいている人は少ないかもしれませんね。

主体が単体でも存在できると思っているとしたら、それは大きな間違いです。それは、表だけのコインがあり得ると考えているのと同じこと。

そんなことは決してないのです。生まれてからずっと、対象物が全くなかったという経験をこたことはないですよね。

必ず対象が存在し、そのことによって主体としての自己が存在しうるのです。自我とは、客体によって生かされているとも言えるのですね。

完全に降参するとどうなる?

今ある通りのこれよりもマシなものを探し出すことができる、これが我々の頭の中にずっとある悪魔の言葉なんですね。

悪魔なんて言ったら可愛そうですね、自我の声です。自我が自分を焚き付け続ける言葉なのですが、これが苦しみの大元。

ところが不思議なことに、誰も全くもってそうとは思っていないのです。だから、ずっと死ぬまでこの考え通りに生きることになるのです。

この考えがどれほど馬鹿馬鹿しいことかということを見抜くことができれば、生きる感覚が大きく変化するはずです。

というのも、こんな不可能にチャレンジしているとは、まあ毎日がもったいないと。それが分かって前のめりの人生を辞めることになるからです。

そして、心の底から緊張や抵抗が消えて、穏やかで平安な世界の方へと入ることができるのだと思います。

なにが起ころうと、どうしようもないのだと。何か打つ手があるという浅はかな考えから降りること。

完全に降参して、生の全てを甘んじて受け入れる。最後に目指すとしたら、これなのかもしれませんね。

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歳を重ねるごとに取説が読めなくなる

若い頃は、取扱説明書を読むのがそれほど億劫ではなかったはずなのに、この年齢になるとどうもいけません。

昨年家を建てた時に、メーカーさんから頂いた設備関連の取説が分厚いバインダーに2冊分あるのです。

こんなの、困った時にしか読まないよなあと思って、放っておいたのですが、節電を老後の趣味にしてからそうも言ってられなくなったのです。

それで、「冷温水熱源機」なるものの取説と最近格闘し出したのです。いわゆる家中の床冷暖房を司っている奴。

動かしっぱなしでいいですよ〜なんて言われていたので、そのままにしておいたのですが、ちょっと節電対策でもしてみるかと。

それで詳しく調べてみたら、なんだか様々な設定ができるようになっていて、すぐには意味が分からず、ああ面倒臭いと。

全てを理解できたとして、どういう設定が一番節電につながるのかは、実際に試してみないことには分からない訳で。

時間はたっぷりあるし、これといってやることもないのですから、ゆっくりと時間をかけて検証してみようと思うのです。

それにしても、文章の理解力が低下しているのが分かりますね。それを棚に上げて、もう少し分かりやすく書けば〜?って思ってしまいます。

不思議なタイムスリップ

先日お花見がてら、生まれ育った場所に行ってきました。もうその家はなくなってしまっているのですが、その近辺の地図は頭に入っています。

家が建っていたすぐ脇を川が流れていて、その川沿いが全部桜並木になっていて、とても綺麗な場所なのです。

桜の木にはぼんぼりが吊り下げられていて、夜には灯りをつけるらしいです。町内会?の人たちがやってくれていることなのかなと。

ちょうど陽気もよくて、強い日差しもない日だったので、ゆったりとその周辺を散策することができました。

途中小学生の頃、好きだった女の子の家を見つけて、ああここだと思っていたら、年配の男性が庭で何やらやっている姿を見かけて。

ああ、あの人はきっと旦那さんなんだろうなと。苗字が変わってない表札があったので、お婿さんをもらったのかなとか、どうでもいいことを考えたり。

大人になって改めて昔の地元を歩いてみると、子供の頃の距離感とはかなり違いがあるなということに気づきました。

通っていた小学校とは別のお隣の小学校の近くを歩いていて、なんだこんなに近くにあったんだなと思ったり。

かつて一歳歳上の小学生の男子と決闘の約束をした、川のヘリにできた土が堆積したような場所も、今はもうなくなっていましたね。

何か不思議な別次元へタイムスリップしたような、そんな気分を味わうことができた日でした。幼い頃の自分が、ここはこう、あれはこうだと言っているのが聞こえてきたような。

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やや薬が増えてきた今日この頃

一年以上前のことですが、背中の痒みが続いていたので、皮膚科で痒み止めの薬を出してもらおうとしたら、運転しますか?と聞かれたのです。

しますよって言ったら、じゃあ強い薬は眠くなるので出せませんと言われたのです。それで弱い薬をもらったのですが、これが全然効かなかったのです。

今回は、胸の辺りと二の腕の内側の部分が痒くて、同じ皮膚科に行って薬をもらうときに、運転しますか?と案の定聞かれたので、控えますって答えたら、強い薬を出してもらえました。

この2、3日服用してみたところ、やはり効果絶大な感じがします。そして、運転中など全く眠気などやってきません。

日頃からすぐに眠いときには仮眠をとる癖があるので、大丈夫なんだと思います。薬といえばもう一つ、咳が出やすい状態が続いているので、そっちの薬も出してもらっています。

循環器内科で最初にもらったのが、アレルギー反応を抑える薬。これが全然効かないので、今出してもらっているのが、不思議ですが胃酸を抑える薬なんですね。

どんな関係があるのかよく理解できてないですが、今のところあまり効果は感じられないです。こんな感じで、最近薬をよく服用するようになりました。

そういうことが起きているだけなんですが、たまには薬に頼ってみるのもいいのかなと思っておとなしく言われるままに服用しています。

私は薬が嫌いということはないのですが、効果の出ない薬が嫌いなのです。当たり前ですけどね。逆にいえば、効果がはっきり感じられる薬は非常に好き。

副作用もあまり気にしない方ですね。薬が身体にいいか悪いかよりも、快適の方を優先する生き方なんでしょうね。

物語は実在しない

我々が暮らしているこの世界を二元と呼ぶことがありますが、この二元の世界ではそこかしこで物語が進行していますね。

自分の大切な人生を物語と呼ばれてしまったら、なんだか納得できない気持ちになるかもしれませんが、でも物語なんです。

なにを称して物語と呼ぶかというと、ただ目の前で起きている事実に対して、思考によって様々な色付けをしたり、そこに因果的なことを付け加えるのです。

そうすると、そこに立派な物語が出来上がるわけです。こういう原因があったら、こういう結果となったとか。

この物語の中に深く埋没してしまえば、もう戻ってくることはできないくらいに魅力的なものなんですね。

特に自我にとっては。けれども、その物語から少しでも距離をとって、それをただ眺める側に回ることができたら、何かもったいない時間を過ごしていたなと気づくかもしれません。

実在しない物語から離れて、目の前のこれが全てだったのだと見抜くことができたら、まるで違った人生を見つけることになるはずです。

物語という泥沼の中でもがき苦しむことに生を費やすのか、はたまた目の前にあるものが全てだと気づいて、生との戦いをやめるのか。

どちらが正しい道ということはありませんが、きっと平安は後者にのみやってくるはずなんですね。

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生を受容するとどうなる?

本当にリアルなものだけがただあるということに気づくようにしていると、これまでどれだけリアルではないものが本物であるかのように信じていたか、知ることになります。

それはもう恐ろしいほどの間違いをしているのです。今ここにあるもの以外は決してないのに、それ以外の何かをいつも探しています。

もっとこうなったらいいのになあとか、前回は失敗したから今回はうまくやろうとか、明日はもっと頑張るぞ!とか。

そんなのは全部たわごとなんですね。だって、今あることがただあるだけなので、これ以外は決してやってこないのです。

そうかあ、境界は見つからない、ということは全部が繋がって見えてくるのかな?なんてことも決してありません。

ただ境界などないということを見抜くだけです。見え方が変わることはないのですが、境界がないので「モノ」というものが無くなってしまいます。

だから、見えているものは全て理解不能なんですね。身近にある自分の身体だと思い込んでいたものも、その正体は不明です。

どれほど頑張ったところで、なにも頑張らずにゆったりしていても、起こることがただ起こるだけなんです。

少しだけでも生を受容しようと思うだけで、ちょっと非二元の方によることができるような気がしますね。

誰かの痒みなんてない

山の奥にヤマタノオロチという怪獣が住んでいて、満月の夜には人をさらいに下界に降りてくるので、外出しないようにしないとね。

こういう噂話が広がっていくのは、私たち人間がイメージを共有することができるという、稀有な能力を持っているからです。

この能力はホントに大変強力なもので、みんなで懐かしい昔話に花を咲かせたり、未来への期待を共有したりできるわけです。

それの最たるものが、科学の立場です。科学は、多くの人に共通する客観的データに基づいて進歩発展してきました。

けれども、その客観的データというのは、実はイメージだと言ったら驚くでしょうか?そりゃそうですよね。

科学が一番相手にしないのが主観的情報、つまりはイメージだからです。でもやっぱり、客観的データ、客観的事実というのはイメージなんです。

なぜなら、それはリアルではないからです。今目の前に客観的事実があるのか、実際に検証してみてください。

あるのは、理由なくただあるものだけ。それしかありません。それだけがリアルなんです。(私の身体にできた発疹の)痒みはリアル。

ちょっと耐え難いレベルですが、非二元的には誰かが痒がっているという訳でもなく、ただ痒みがあるということですね。

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過去と未来を行ったり来たり

ここ一ヶ月くらいのことですが、ちょっと身体に赤い発疹のようなものができて、それが結構な痒みを伴うものだったのです。

それが、少しずつ全身に広がってきて、こまめにクリームのようなものを塗って保湿をしていたのですが。

それが、ここ一週間くらいの間に、急にその広がりがひどくなって、痒み自体も思った以上に大きくなってしまいました。

一体自分の身体に何が起きているんだろうか?できれば1日も早くまた痒みのなかった頃に戻りたいなと。

これが私たちの恒例となっている考え方、生き方なわけです。過去のよかった頃を思い出して、未来に対してそれを望むのです。

あるいは、いつかもっと健康な身体になっていたい。そうやって、過去と未来を行ったり来たりしてしまうのです。

そして今あることがただあるだけであることを忘れて、妄想の世界へと深く入り込んでしまうのですね。

今ここにないもの、今あるこれとは別の何かを求める無駄な努力をやめて、リアルな現実に戻ることにしましょう。

理由なく満たされているために

自我というのは、どうしたって自分に都合のいいことが起きれば嬉しいし、気分がいいし、楽しい気分にもなるのです。

その一方で、都合の悪いことが起きれば、当然のこと気分は悪いし、悲しんだり怒ったり、苦しみを感じたりするわけです。

ということは、自分の身にどんなことがやってくるのか分からない限り、明日の自分の気分がどうなるのか知ることもできないのです。

もしも、起きていることの是非にかかわらず、ただただどんな理由もなく、気持ちが穏やかで気分が優れているということができれば、これが最強に違いないですね。

それにはどうしたらいいのだろうかと、時々考えたりしているんですが、少し気づいたことがあるのです。

それは、今あることに意識を向けるということ。ないことを全て忘れて、ただあることだけに集中させるのです。

普通によく言われることではあるのですが、やっぱり満たされていることに気づくということかもしれないですね。

いつか満たされるはずというのをやめて、今あるものがただあるだけということに気づくことなのですね。

そして満たされる必要もなかったという自由にも気づくことかもしれません。

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