非二元はどんな世界?

よく使われる表現として、「まるで〜のように見える」というのがありますね。たとえば、「2人はまるで兄弟のように見える」とか。

こういう場合には、必ず「でも本当は他人だけど」などの意味が隠れています。あるいは、「遠くから見たら、まるで豆粒のように見えた」とか。

本当の大きさは◯◯だけどね、というのが続いたりするわけです。遠くにいる人は小さく見えるけど、近づいてくれば本来の大きさに見える、など。

本当はその人の大きさは変化しないんだけどね、というのが当然のこととして共有している事実なわけです。

けれども、非二元的には「まるで〜のように見える」で終わるんです。その裏には、どんな意味も含まれないのです。

「本当は◯◯」、というのがありません。どう見えているかがすべてだからです。モノという実体がないので、本当は…のような続きがないのです。

しかも、「まるで〜のように見える」と感じている主体もありません。なぜなら、主体というモノの実体もないからです。

誰かがそのように感じているのではなく、ただそうした感じがあるのです。非常にシンプルな世界ですね。

自分は生まれたこともない

半年くらい前に、「モノはない」という内容の動画をアップしたのですが、その頃はモノというのは左脳が作った幻想だということをお話ししました。

だから逆に言えば、右脳の世界ではモノがなくて全体性だけが残るというような内容だったと記憶しています。

あの頃は、自我はいないんだということを証明するための一つの方法として、分離したモノという存在はないということを言いたかったんですね。

けれども、モノはない、自我はないと言いながらも、その一方では自我はヌクヌクとしていたのだろうなと思うのです。

その証拠に、今となってはモノはない、つまりあらゆるモノには実体がないということに気づいてしまうと、そこから「自分は生まれたこともない」んだと。

そうなるわけで、この言葉は結構私の自我にはショックなようなのです。笑えますよね、今更そんなことを?と思うのです。

きっとどんな人であっても、あらゆるモノには実体がないと聞いても、そのことを自分の身に置き換えては考えないのです。

それだけ自分というのは特別な存在だと思っているということです。自我が幻想なだけじゃなくて、物質的な身体でさえその実体はないんだと。

自分という存在はいないんだと思うよりも、自分は生まれたこともないんだと思うほうが不思議にインパクトがありますね。

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股関節痛を和らげる靴

みなさんは、靴の脱ぎ履きを面倒に思ったことはありませんか?私は無類の面倒臭がり屋だからなのか、できるだけ容易にしたいのです。

それで、これまでしっかり靴紐で結ぶ正当な靴をほとんど履いたことがなかったのです。靴紐があっても飾りのような物ばかり。

だからなのか、すっと履けてすっと脱げる。これ天国だなと思って、そういう安易な靴を常用してきたのです。

そのせいなのか、やはり歩くときにブカブカした感じは否めません。要するに、しっかり歩きにくいということ。

その結果かどうかはわかりませんが、膝とか股関節、そして腰の痛みというものが出てくるようになったのです。

これはいかんということで、膝痛、股関節痛などにいいとされるまともな靴を買ったのですが、これが全く違った履き心地。

足が軽くなったような、そして後ろ側の足が自然に地面を蹴る感じがして、スムーズに前へ進める感じがするのです。

靴一つでこんなに感触が変化するものなのですね。ただし、やっぱり履く時にはどうしても靴べらが必須のようで。

ずっと前に購入した事務所の靴べらの出番が、ようやくやってきたようです。皆さんも、膝や股関節の痛みには、注意してくださいね、という日常的な物語のお話でした。

手抜きサムネをなんとかしたい

昨夜はNetflixで映画を観たのですが、観る前にどれにしようかなって少し時間をかけてめぼしいものを探しますよね。

しばらく探し回って、コレでもない、アレでもないとやって、ようやくコレにしようかなとなって、見始めるわけです。

場合によっては、あらすじを読む場合もありますね。そして、しばらく観ているうちに、あれ?これ一度観たヤツじゃね?となることもあります。

要するに、人間てやはり好みがあって、サムネを見て気になるものっていうのは変わらないということなんですね。

相当数あるうちから、同じものを選んでしまうのですから。結局どれにしようかと迷っているときに、決定する要因のほとんどはサムネに対する印象な訳です。

じゃあサムネがどれほど観てもらう側からしたら重要なのかってことです。これは、YouTube動画の場合も同じです。

だとしたら、本当に見てもらいたいのであれば、内容はもちろんのこと、サムネをしっかり作り込まないのは問題です。

となると、私の動画はとにかく手間暇かけずにアップするというのをモットーにしているのですが、あんな手抜きのサムネは他にないですね。

このままいくのか、それとも何かツールを購入して、もっと興味を引くようなサムネを作れるようにするのか…。う〜ん、悩ましい。

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家族制度の是非

私自身が結婚をしていてアレなんですが、そもそも結婚制度にあまりいいイメージを持っていないというか、正直あまり賛成ではないんですね。

というのも、結婚をすることで子供が生まれていわゆる「家族」というものが出来上がるのですが、その家族という固まりが閉ざした世界になってしまう可能性があるからです。

家族同士が仲良しであれば問題はないのですが、家族と言ったってそこには人間同士の様々な関係性があるわけで。

そうなると、喧嘩が絶えなかったり、いざこざやピリピリした居心地の悪さや、そのほかあらゆる問題が起きるのです。

そして最大の問題は、それが閉ざされた空間で起きるということ。外部には分からないようにすることができるのです。

だから他人からみたら、いい家族じゃないの、と感じられたとしても内実はどうだか怪しいものなのです。

そこでいつも犠牲となるのが子供たち。問題を感じていたとしても、多くの場合はそれを外の世界に伝えることができずに悶々と耐えることになるのです。

もちろん自分の力で解決することもできないので、なるべく早く家を出ようということになったりするのです。

家を出るまでの間に傷ついてしまったこころは、大人になったとしてもそのままでは癒されずに残ってしまいます。

必ず癒すべき時期がいずれはやってきますので、その時には、決意してしっかり癒しをしてあげる必要があるということですね。

非二元の質問、大歓迎です!

数ヶ月に一度?くらいのペースでセッションにいらして下さるクライアントさんが、先日予約をされたのです。

いつものように、日々の不安やその他の心の話が出るのかなと思っていると、突然のように非二元の話題になったのです。

そのクライアントさんが、私の動画チャンネルを観てくださっているとは知らなかったので、びっくりすると同時にやっぱりなと。

というのも、そのクライアントさんは昔からoshoの本を読んでいたり、「これ!」って言うのは一体なんだろう?的なことを話されていたからです。

だから一瞬でピンと来たのです。そしてセッションの時間中、びっちりと非二元の話に終始したのです。

私としては、癒しとはまったく違う内容の話だけでセッションを終えるというのは、ほとんど記憶がないのです。

それと非二元というのは、あまりお話しするネタがないので、質問を持ってきていただけると非常にありがたいのです。

質問に答えている間に、自分でも新たな気づきがやってきたりして本当に感謝なのです。動画のコメント欄にも数名の方々が質問をしてくださっていたり。

もしも動画をご覧になって、質問があるようでしたら是非コメント欄に書き込んでいただけたら、今後動画の中でその質問に答えていこうかなと思っています。

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「実体」を完全説明します

一昨日のブログで、「時間がなければ実体に意味はない」ということについて書いたのですが、その内容をもう少し分かりやすく説明させてください。

人間がなぜ、「実体」という概念を作りだし、そしてそれを完全に真実だと思い込むようになってしまったのかが分かったかなと。

たとえば、夕方沈んだ太陽が明日の朝また昇って来るまでの間、つまり夜間も太陽は地球の裏側にあって、決してなくなることはないと都合がいいですよね。

あの太陽が消えたり現れたりするなんて、到底考えにくいわけです。今日出かけたご主人やお子さんが、帰宅するまで会社や学校で過ごしていると思いたいのです。

つまり、目の前にいなくなった大切な人たちは、戻ってきてくれるまでの間もずっと存在してくれていると。

これを可能にするのが「実体」なのです。なぜなら、実体がなければ、太陽にしろ大切な家族にしろ、見えない間も存続しているという保証がないからです。

この時間的な流れの中で、消えてしまうようなことがなくずっと存続していてもらいたいと。それを可能にするのが「実体」というわけです。

動物や赤ちゃんには、時間の流れで物事を見るということがないので、実体を必要としないということです。

これで分かって頂けたと思うのですが、人間の時間的な感覚や感性にとって都合のいいように作り込んだのが「実体」だったということ。

だから、ただ体験だけがあるのであれば、本来実体なんて必要ないということです。やっぱり実体は作り物だったということですね。

概念や観念が悪いわけではない

「猿の惑星」という映画が始まってから、それがシリーズ化されたりして、随分とたくさんの続編などが作られてきたのですね、全然知りませんでした。

その一番初めの映画だけは映画館で観た記憶があります。大学に合格した従兄弟のお兄さんが中1くらいだった私を連れて行ってくれたのです。

最近も何編かをAmazonプライムで観たのですが、コンピュータグラフィクスがすごくて、リアル感が半端ないですね。

昔は人間にメイクをして進化したサルを作っていたのが、CG の方がもちろん自由度があって見応え満点でした。

色々考えさえられる映画ではあるのですが、ひとつだけ際立っていたのが、知能が発達したところでそれが幸せと結びつくわけではないということですね。

だからと言って、一度人間を味わっておいて動物に戻りたいと思うひとはあまりいなさそうな気がします。

動物とまでいかないまでも、赤ちゃんに戻りたいかと聞かれたら普通は「ノー」と答えると思います。

ただ、赤ちゃんだった頃のあの純粋無垢な感覚、概念や観念、信念その他の思考にまみれずに、あるがままを見ていた頃の感覚だけは取り戻したいなと。

概念や観念などが悪いということではなくて、それを事実だと思い込まずにいられるようになればいいだけなんですけどね。

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時間がなければ「実体」に意味はない

ここのところ「実体」という概念について、いろいろ考えているうちにこれまであまり思ったことがなかったことに気づくようになりました。

たとえば、人間以外の動物には概念というものがないはずなので、彼らには見たり触れたり食べたりする対象物に実体があるかないかなどは眼中にないのです。

どちらであろうと変わりはないということですね。実体があってもなくても同じってすごいことかなと思うのですが。

でもそれって人間である私たちに対しても同じことが言えるんですね。実体があろうとなかろうと、体験としては同じなので。

それと、「実体」ってどうも時間との関係性があるのかなと。つまり、実体があるということになると、一定の時間内で継続して存在するということを意味していると。

もしも時間がないとなると、そもそも実体という概念にどれだけの意味があるのかがわからなくなってしまうのです。

それと客観性というのも関係がありそうです。つまり、実体というのは主観的なものではなくて客観的な実在性を意味するからですね。

これって科学の世界はまさにこれです。そう考えると、やはり実体というのは人間が作り出した単なる概念でしかないということになりそうです。

科学がいずれ近い未来において、ものには実体がないということを証明してしまったとしたら、科学者はびっくりするでしょうね。

けれども、それでもきっと一般人はへえそんなもんなのかあ、で終わりにしてしまうのではないかと思うのです。

だって、アインシュタインが相対性理論を発表してからもう100年も経つのに、時間の進み具合や質量などは相対的なものだと、誰も気づかずに日常を過ごしていますからね。

問題視するのをやめる

知識をあまり使わないタイプのナゾナゾってありますよね。クイズで好みなのはそういうタイプのものです。

常識を問うようなものとか、知識が豊富な人の方が圧倒的に有利であるクイズは自信がないので、好みではないのです。

ナゾナゾは、解けたらそれなりに嬉しいし、解けなくてもちょっと悔しい感じがするだけで、嫌な気持ちにはなりません。

実際、解けたところでそれがどうしたと聞かれたら、別になんのご利益もないし自分が進歩したわけでもないと分かっています。

そこがまたいいのでしょうね。ナゾナゾの何が解けようが、自分の価値は変わらないし、どんな改革もされません。

もっと素晴らしい自分になるわけでもないし、もっと良い人生に変化するということでもありません。

逆に、探求というのは現状には何らかの不満があるというのが前提のような気がします。このままではつまらないとか。

もう少しマシな自分になる、といった現状打破的な要素が含まれていますよね。実はそれこそが、不満や思考に飲み込まれる要因なのです。

自分は満たされていない、不満を抱えているということを、殊更に問題視しないでいられたら、苦しみからは遠のいて行かれるように思いますね。

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