体験だけがあるって、夢と同じ?

人にもよると思うのですが、普段あまり表面には上がってこないものの、頭のどこかで自分はこの広大な宇宙のどこかで暮らしていると思っています。

無限に広い宇宙の中にある天の川銀河の中にある太陽系の惑星の一つである地球の片隅で、砂つぶよりももっと小さな1人の存在として生きているんだと。

そう信じて疑っていなかったはずなのに、最近実体はないということに気づいてしまったので、この宇宙という実体もないんだなあと。

空間や距離というのも概念だし、大きさという実体もないとなると完全に理解が崩壊してしまうかもしれません。

でもふと思うのですが、実体があると思われる宇宙よりも、実体がないほうが自然な感じがしないですかね?

だって実体があるって相当大変なことですよ、実体がないシンプルさと比べたら。そして、実体がないにも関わらず、体験だけがあるわけです。

そんなバカなと感じてしまうのも無理はないのですが、ただ睡眠中にみる夢というのもそういう意味では同じですよね。

完全に心が作りだした空想の世界の中で、体験は起きていて、そのためにあらゆる感情が湧き起こったり、景色の素晴らしさに感動したりするのですから。

ただし、この現実が夢だと言いたいわけではありません。なぜなら、夢から覚めて実体のある現実に戻れるというのが、この現実に関しては起こらないからです。

誰もいないし、なにもないのにこうして体験だけがあるのですから、どれだけ不可思議なことなのかまったく理解不能ですね。

先入観を脇へ置く

例えば道を歩いているとして、その時歩いている主体と歩かれている道(環境)を二元の対としてみることができます。

非二元においては、その両者には実体がありません。その時に残るのは何かというと、「歩いているという感じ」なのです。

けれども、一般的にはそうは思えないですよね。歩いている感じだけが残るなんてことは決してないと思うのです。

それはなぜかというと、そういった感じとか、足が疲れたなあとか、遅刻しそうで焦ってるとか、気分がよくない、腹へった等々。

こういったあらゆる感覚というのは、その歩いている主体の中で起きていると信じているからなんですね。

だから主体が消えてしまえば、歩いているという感じやその他諸々の感じも一緒になって消えてしまうはずと思えるわけですね。

さあそれは本当にそうなっているかということです。あらゆる概念や固定観念、先入観などを全て脇に置いてみるのです。

そうして純粋な興味とか好奇心だけになって、歩いている感じや足が疲れた感じ、遅刻しそうで焦ってる感じ、気分が良くない感じ、腹減った感じなどが「どこ」で起きているかを見てみるのです。

本当に主体の内側で起きてる証拠を見つけることができるでしょうか?するときっと、それらの感じがどこで起きているか不明となるのです。

それだけがただあるのが分かります。

「知ってる」と思うことを疑ってみる

幼い子供が生まれて初めて月を見た時に、思わず手を伸ばして触れようとしている姿って何となく想像できますよね。

月が途方もなく遠くにあるということを「知ってる」私たちは、その子供の姿をなんとも微笑ましく見るのです。

この「知ってる」ということをちょっと深掘りしてみたいと思います。私たちは、知識として知っていることを、ほとんどの場合真実だと思い込んでいます。

そうしなければ、なかなか面倒な毎日になってしまうからですね。たとえば、地球が丸いって「知ってる」けど、本当かどうかは分からないとか。

目を閉じて周りが見えなくなっても、部屋の中にいることを「知ってる」けど、それが本当かどうかは分からないとか。

そんなバカなことを考える人はほとんど皆無でしょうけれど、実はこの辺りに知ってると思っていることや先入観に騙されないというヒントがあるのです。

そうやって、あらゆる知ってると思い込んでいることや、信じていること、概念や観念、イメージなどをそれと見抜いて過ごしてみるのです。

そうすると、まったく違う世界が広がっていることに気づくことになるかもしれません。空間や距離が単なる概念であることにも気づくのです。

モノの実体が概念であることも、時間も概念に過ぎなかったと気づくことになるのです。とても不思議な感じになりますけどね。

Let’s repeat 「実体」とは?

「実体」という言葉(概念)があります。この言葉の意味について、明解に説明することってできるでしょうか?

ネットで意味を調べると、「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと。」とあります。哲学用語らしいですが。

基本存在とか言われても、ちょっと分かりづらいですね。もう少しわかりやすく説明しようとするとどうなるか。

実体とは、「現実に、あるいは現実の中でモノが存在するさま」これなら分かりやすいと思います。でも逆に今度は、現実という言葉を説明する必要が出てきました。

現実とは、「モノが実体として存在している世界」てなりますが、これで本当に説明になっているでしょうか?

つまり、Aさんの説明をするときに、AさんはBさんの友達ですって言っておいて、じゃあBさんは?と聞くと、BさんはAさんの友達です、というのと同じ。

ということになって、まったく説明にはなっていないわけで、結局やっぱり冒頭のネットの哲学的な説明になってしまうんですね。

物事を空想したり想像したりできるのは、どうも人間だけらしいですね。つまり簡単に言えばイメージの世界です。

このイメージの世界では、モノの実体はないと言えます。その一方で、現実の世界では、モノは実体を伴うということ。

ということになると、私たちは現実の世界においては、モノは必ず実体を伴って存在するものだと思い込んでいるのです。

これが思い込みだったとやっと気づきましたか?目の前のりんごに実体があると言い張るなら、それをどうやって証明できるかを考えてみることです。

すぐにできないことが判明してしまいます。このように見てくると、「実体」という概念はどこまでいっても概念止まりだってことになります。

モノには実体があるということこそが、イメージだったというわけですね。

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不思議な一日

今日はホントに不思議な目に繰り返し遭遇するという変な日でした。二度あることは三度あるどころか、もっとありました。

いつもと同じ時間に家を出たのに、スポーツクラブに10分以上も遅刻してしまったのです。滅多にないことですね。

皮切りは、普段ガラガラな道路で不当な渋滞に巻き込まれてしまったこと。でもこれは5年に一度くらいはあってもいいかなと。

その後、工事のトラックが狭い道路に停めてあって、交通整理をするお姉さんがいるのですが、まったく用を成さず。

うまく説明はできませんが、行く手を阻まれたこちら側の車線が、ちょっと危険な状態になってしまうという結構まずい事態。

仕方ないので、車の中からそのお姉さんに指示を出してなんとかそこを切り抜けて、ようやく目的地のゲートのところまで来たのです。

すると、そのゲートのところでなにやら切り返し?をしようとしている車がいて。クラクションを鳴らすと、バックでそのゲートを通過しようとしている。えっ?

バックでゲートをくぐってなにするつもりなんだろうと思ってみていると、今度はそのまま前進して反対方向に向かって進んでいってしまったのです。

こちらとしてはなにが行われていたのか、まったく理解不能で茫然自失。そして今度は自宅へ戻った時のこと。

車庫のゲートを開いていると、子犬を三匹連れた散歩の女性がやってきたのですが、そのうちの一匹が歩きながら3つほどフンを落としていったのです。

自宅の真ん前で。これから車を車庫入れしようとしているときに。こんなことって人生で初めての経験。

チョット〜と慌てて声をかけて、無事処理をしてもらったのですが、今度は母親の老人ホームに面会に行く時間になって。

2階の住人に行くよ〜と声をかけても返事がないので、見にいったらどこへ行くの?と。完全に忘れていたようで。

これも今までになかったことです。変な日。実はここに書ききれない小さくて嫌な感じの出来事が他にもいくつかあったのです。

過ぎてしまえば、どうっていうこともないので、早々に忘れてしまおうと思っているところです。

事実とそうでないものを見分ける

実は私たちは、これは間違いなく事実だと思っているものであっても、かなりの割合で勝手に作っているものが混ざっているのです。

作っているというのは、もちろん自覚なくやってしまっているということです。例えば、目の前に美味しそうなリンゴがある、は事実です。

けれども、このリンゴには実体があるというのは作り物、思い込みです。これが分かると、この世界の実態が分かってきます。

この部屋にはテレビがあるというのは事実ですが、扉を隔てた隣の部屋にもテレビがあるというのは作り物です。

もしも隣の部屋にテレビがあるのが見えているなら事実ですが、見えない隣の部屋にテレビがあるというのは思い込みです。

でも本当のことを言うと、目の前にリンゴがあるとか、テレビがあるというのも実は事実ではありません。

事実は、目の前にリンゴがあるというふうに見える、あるいはそんな感じがするということだけなのです。

私とテレビの間に数メートルの空間があるというのも作り物です。事実は、私とテレビの間に空間があるように見えるということ。

分かってきましたか?事実と作り物の違いが明確になってくると、これまでの認識の仕方が間違いだったと気づくようになります。

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瞑想をしない日々はつまらない

あれだけ熱心に毎日続けていた瞑想が、ここのところ影を潜めてしまっています。瞑想をすれば、気分がよくなるのは知っています。

だから、もちろん身体のためにも精神のためにも瞑想はとても良い効果を期待できるのは間違いありません。

それなのに、瞑想がやれなくなってしまった理由は、自我の後押しをするような感じがしてしまうようになったからです。

ここに来るまで、それなりに紆余曲折があって、今の状態までやってきてしまったので私の場合はちょっと例外かも。

なので、瞑想を続けたほうがいいと感じている人はそのまま続けることをお勧めします。瞑想をすることに特別な目的がないのであれば尚のこと。

私の場合もまたいつ再開することになるのか分からないので。ただ、瞑想に限らず、自我を強めてしまうようなことは、今までもこれからも避けるようにするでしょうね。

瞑想をして深く入っていくことに無上の喜びを感じていたものとしては、残念で仕方がないのですがしょうがない。

思考を止めようとして、頑張ることももうなくなってしまったので、自動思考を目の敵にしていた頃が懐かしいです。 

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深いところの動揺があるようで

やっぱりすごく影響しているんですね。実は、今日初めてこのブログを書くのを忘れてしまったのです。

いつもは、時間が空いたときに書いて、午前0時に自動でアップされるように設定しているのですが。

2009年3月から書き出したこのブログ、1日も欠かさずアップし続けてきたのに、とにかく書くことを忘れてしまい、今午前0時を過ぎたところで気づいたのです。

いやあ、こんなことはなかったのですけどね、やっぱりあの最近の非二元のちょっとした気づきが原因なのだろうなと。

自分でもびっくりしてしまっています。正直言って、気づいた内容がかなりショッキングだったのでしょうね。

それも頭で分かっていたものが、気づきとしてやってきてしまったので。もう無視することが絶対的にできなくなったわけです。

誰もいないということの事実を、どうやって認めればいいのかなと。自分だけは実在するなどとはどれほどやりくりしても、できないのです。

そんなわけで、今日のブログはまったくなにも内容のないものになってしまいました。中途半端にはしたくないので、続けるか止めるかどちらかになるかもですね。

宇宙の中にいたはずなのに

この宇宙はだいたい138億年前にめっちゃくちゃ大変な爆発が起きて始まったとされていますね。高密度のピカピカの状態だったと。

その時は針の先よりも小さかったと思っていたのですが、今はそうでもないらしいですね。単に密度が高かっただけで、無限に大きなものはどうであれ無限に大きかったのだろうと。

そんなことを考えていると、とてもロマンを感じたりしますね。その一方では、そういう宇宙なんてないんですね。

子供の頃に、地球の大きさから始まって、太陽やその他の恒星の大きさを比べて、途方もない大きさに驚愕したものです。

私たちの太陽系が所属する天の川銀河には、数千億個の恒星があり、それをはるかに上回るような超巨大な銀河が宇宙には無数にあるのだと。

子供の頭では処理しきれずに、しばし思考停止状態になっていたような記憶もあります。そんな素晴らしい宇宙がないなんて。

とんでもないことに気づいてしまったなあと。宇宙がなければ、この宇宙に含まれているあらゆるものもないということですね。

素粒子から構成されるこの宇宙ではない、他の何かがあると言うことです。なんなのかは皆目分かりません。

それなのに、毎日の生活はなんの変化もなく淡々と続いていくように見えますね。それも不思議だなと。

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「体験」にモノはいらない

最近「実体」という概念について、思いを巡らすことが増えてきた感じがしています。自分の中の誰かが、実体があるということで生きてきたのに、実体がないことが判明してしまったのが辛いのでしょうね。

「実体」という言葉は「モノ」という言葉とほぼ同義語ではないかと思うのです。なぜなら、普通に考えて実体がないモノなどないからです。

夢の中とか、イメージや妄想で現れるモノの時だけは実体がないという表現ができますけれど、この現実の中ではあり得ないと信じていますね。

ところが、私たちの日々のこの現実の中で起きるあらゆる体験では、実はモノの実体はないのです。言い換えれば、モノは存在しないのです。

モノはなくても、体験はできるのです。正確に表現すれば、モノはなくても体験は起きるということです。

そしてもう少し違う表現をすれば、体験自体はモノの存在、モノの実体というものを必要としないということ。

この世界にモノが充満しているからこそ体験が起きると考えがちですが、そうではなかったということですね。

体験、あるいは起きることの方を主軸にして見ればいいのです。そのようにして見方を変えてしまえば、まあそんなものかと。

モノがないということは、この宇宙も地球も誰もいないままに、体験、もしくはこれだけがあるということですね。