内外面の豊かさ

私たちの本質である純粋な意識というのは、別の表現を使うと全体性ということになります。全体性ですから、あらゆる全てということで、全く過不足がないのです。

自我の視点からすれば、それは途方もない無尽蔵の豊かさと見えても不思議ではありません。何から何までが自分自身なのですから。

ところが自我の立場からすると、それはとても都合が悪いのです。自我は個別性であり個人として独立していると思いたいからです。

だから全体性を完全に隠してしまう必要があるのです。その上で、個として存続しなければならないので、当然のこととして孤独と不安がのしかかってくるのです。

そればかりか、全体性には有り得ない欠乏感もおまけについてくるわけです。これを覚えておいてください。自我=孤独+不安+欠乏感。

自我である限り、これがなくなることは原理的に不可能なのです。もちろん、抑圧して分からなくしてしまうことはありますが。

自我としては、自分が抱えている欠乏感を外側の世界から何かを獲得することで補おうとするのです。それが、私たちのあらゆる欲望です。

ところが、外側から獲得したものを内側に取り込むことはできません。あくまでもそれは外側の世界のもの。

だから獲得によって欠乏感を満たすことは不可能なのです。このことは、もうすでに気づいている人も多いのではないかと。

もちろん外側から入手したもので、快適に便利に生活することは悪いことではありませんが、同時に、自分の内側は本当は無尽蔵に豊かであることに気づく必要があるのです。

外面の物理的な豊かさと内面の豊かさが、共に揃っていることがとても大切なのではないかと思っています。