思考と共に戯れる

今日も大好きなサウナでボーっとした意識の中で、緩い思考が動いていたのですが、そのときに考えていたのが「自分」という思考の発明についてです。

全体性という真実において、自他の区別をするということは途方もなくびっくりするような発明なのではないかと思うのです。

どうやって、全体性から自他の区別ができる個別性を見つけ出したのでしょうか?それはもう不思議としかいいようがありません。

何の答えにもなってはいないのですが、実は思考こそが個別性なのではないかとも考えることができます。

なぜなら、全体性を思考することはできないからです。思考には、全体性という真実についての明確な解明は不可能なのです。

サウナの中では、実はもっともっとこの先が続いていたのですが、もう忘れてしまいました。結局、思考は思考自身をもてあそんでいるだけなのですね。

それはまさしく、この世界についても言えることです。思考が人生という物語を作り出して盛んにプレイし続けているのですから。

天は遊ぶことが好きなのかもしれません。それなら、私たちもそれぞれの人生を存分に楽しんだらいいのでしょうね。

どんな状況がやってこようと、それを心から楽しむことができるはずです。もしもとても楽しめないという状況がやってきたら、それ自体を楽しめばいいのですから。

セラピストとクライアントさんの関係

セラピストという商売は、嫌われてナンボ、否定されたり憎まれたりするのはある程度やむをえないという側面がどうしてもあるのです。

誰だって、否定されるよりも肯定されたいですし、嫌われるよりも好かれたいのが本音です。セラピストとクライアントさんの関係が良好であることは、必要不可欠の前提です。

けれども、そうなるように努めるだけでは残念ながら100点満点とは行かないのです。なぜなら、セラピストはクライアントさんにとって都合の悪いことに自ら気づいてもらう必要があるからです。

耳障りのいいことばかり言って、ただただクライアントさんの言葉に耳を傾けて深い共感的態度でいればいいのではありません。

クライアントさんの苦しみの原因の多くは、元をただせば自分が惨めだという間違った思いから目を背けようとし続けることからくるのです。

したがって、ずっと避けてきたその惨めな思いへと何とかして誘導しなければなりません。クライアントさんは、それでも自己防衛システムを駆使してそこから逃げようとします。

けれども、追い詰められてそのもっとも見たくない自分の姿を見せ付けられるとき、セラピストに傷つけられたと感じるとしても、それは当然のことなのです。

クライアントさんはそのとき、セラピストに対して攻撃的な態度に出るかもしれませんし、セッションでは黙っていて後で何かの形で敵討ちするかもしれません。

もちろん、そうなることを望んでいるわけでは決してないのですが、残念ながらセラピストを切り捨ててしまうケースもあるのでしょう。

場合によっては限られた予算の中で、高額なセッションにいらっしゃるクライアントさんの気持ちを考えたら、悠長にいずれ気づいてもらえればいいなどとは言ってられなくなるのです。

良好な関係を保ちつつ、クライアントさんがセッションで痛いところを突かれたと肯定的に感じられるなら、それがベストなのでしょうね。

「人生は物語」という視点

私のモットーの一つに、「人生は物語である」というのがあります。ですから、セッションのときにも時々はそのことについて触れるのです。

けれども、その言葉の本質を見抜くことができないと、非常に反発を感じてしまう言葉であることも理解しています。

それは、たとえば必死に生きてきた人、逆境に耐えながら血の滲むような苦労をしながら生きている人にとっては、不真面目な印象を与える言葉なのだと思うのです。

軽はずみな言葉のように聞こえてしまうのは無理もないことです。でも、人生が物語りだということは、決してそういうニュアンスのことではありません。

誰もが映画やテレビなどで、さまざまな物語を観る機会があるはずです。そのときに、あまり気が乗らない内容なら、つまらない時間をすごしたことになりますね。

逆に、自分がそれを観ていることすら忘れてしまうくらいに、のめり込んでしまえるときには、その映画やドラマをまるで自分のことのように感じているわけです。

だから、観終わったときにはいい時間を過ごせたなという感想を持てるのです。けっして物語だからといい加減な気持ちで観ていたわけではありませんね。

深刻さはないものの、真剣に観ていたということです。この「深刻さのない真剣さ」でいることを表現した言葉が、人生は物語であるということなのです。

満ち足りた人生を生きるためには、逃げずにしっかりと人生と向き合う必要があります。これが、真剣さです。

その一方で、恐れに負けずになるべく無防備に生きるためには、深刻さがもっとも邪魔になるのです。

自分の人生も含めてこの世界全体が物語りであるという視点、それは何からも逃げずにまんまを感じきる生き方を指しているのです。

すべては御心のままに

ここだけの話しですが、心の癒しはどんなにすぐれたセラピストのところへ通っても、どれほど真面目に言われたことを実践したところで、自分が思ったようには進んでいかないものです。

いくら頑張っても、何も変わらないじゃないかと怒りを覚えることもあるかもしれませんし、その逆に気が付いたら何だか楽になっていたということもあるのです。

実のところ、癒しは向こうからやってくるものです。自分の力で前へ進めていけるものと思っているとしたら、それは人間の驕りです。

癒しに限らず、人生がどうなっていくのかということは、100%神の意志に委ねられているものです。そのことを、すべては神の御心のままに、というのですね。

だからといって、じゃあ何もせずにただ寝そべっていればいいのかというと、そんなことはありません。自分にできることは精一杯するのです。

その上で、どんな結果になるかは神の御心のままであるということを忘れないということです。このことを忘れてしまうと、私たちは苦悩することになります。

なぜなら、自分のコントロールどおりになど人生は決して推移してはくれないものだからです。エゴは上手に、思い通りの人生を手に入れられると錯覚する作戦を取ることがあります。

でもそれも一時的なことです。そのことにほだされることなく、人生を物語として見ることのできる視点を育てることです。

その視点こそ、過去や未来といった思考に翻弄されずに、その時々のありのままの自分にOKを出せる成熟した大人の意識なのです。

自己否定感を受け入れる その2

誰だって自分自身を否定したまま、生きていくのはとても辛く苦しいことです。だから、是が非でも自己否定を止めなければならないと思ってしまうのです。

そうして、自分を愛するにはどうしたらいいのかということを考え出すわけです。いろいろな本を読んで勉強して自己愛を育てるにはどうすればいいかなどを試したりするのです。

けれども、そうしたことがあまり効果が出ないのも無理のないことなのです。なぜなら、自分を否定していることを否定してしまっているからです。

自己否定の気持ちを変えようとして、その気持ちそれ自体について深く見つめたり、しっかり感じてあげることをしないのです。

もともと自己否定は、受け止めてもらえない自分には価値がない、いなくてもいい子なんだという間違った思い込みが原因なのです。

だから、自己否定を否定していては、幼いころに受けた傷口を自分でさらに大きくしてしまうことになるのです。

そのことにしっかりと気づくことがどうしても必要です。自己否定をせざるをないでいた幼い自分の気持ちを受け止めてあげることです。

自己肯定とは、自己否定も含めてOKを出せる気持ちになることをいうのです。自己否定をやめて自己肯定にするのではありません。

誰しも自己否定していますし、そんなことは当たり前のことです。自己否定したっていいじゃないですか。どんな自分であろうと、丸ごと抱きしめてあげてください。

そうしたら、それと同じことを自分以外の人にもやってあげることができるようになり、自己否定のことなど忘れてしまうかもしれません。

自己否定感を受け入れる

この世界に完璧な人というのはいません。誰でもが、すばらしい部分とその反対に否定的な部分を持ち合わせています。

けれどもそれは客観的事実ではなく、判断する人の心がそれを決めているのです。もっと言えば、人のどの部分に目が行くかということは、見る側の人の心によって決まるのです。

つまり、人の肯定的な部分に主に目が行く人は、相手のすばらしい部分に心が反応してくれるので、その人のことを好きになるでしょう。

一方で、人の否定的な部分にばかり注意が向いてしまうなら、相手のことを忌み嫌うことになってしまうのです。

そして、その人はそれが事実であり、そのように裁くことができる自分は正しいに違いないと信じることで安心しようとしているのです。

どちらが清々しい心でいられるかは、明らかですね。では、どうして人の否定的な部分に目が向いてしまうようになるのかについて、考えてみたいと思います。

それは、実はその人の心は相手を裁く前に気づかずに自分自身を裁いているということです。そのことを自分に対して隠すために、相手を否定の目で見ることになってしまうのです。

相手を否定することで、自分を裁く心を隠しておくことができるというわけです。心を癒していくどこかの時点で、このことに気づかねばなりません。

自分を激しく否定していることとしっかり向き合うことができれば、そのことを素直に認めて、惨めな自分から目を背けずにいることができるようになります。

そうやって、自己否定感を受け入れていくことができれば、相手を否定の目で見ることがなくなっていくはずです。そして、ようやく愛の目で周りを見ることができるようになっていくのですね。

無に身を委ねる その2

昨日のつづきです。

~久しぶりに、ガンガジの言葉より~

何かをする、保つ、隠す、守る、弁護する――どんなにたくさんの理性の戦略が湧き起こっても、この無限の平安は常にここにあり、それはあなたの本当の避難場所です。

実際それこそがあなたの本当の顔なのです。あなたの本当の顔を見つけるのに、長年の精神修行は必要ありません。なぜならそれはいつでもそこにあるからです。

今よりもよい人になる必要もありません。たった今、あなたがどこにいようと、自分をどういう人間だと思っていようと、あなたの本当の顔は光り輝いています。

でもそれは実は顔などではなく、性別もなく、形もありません。それはただあるがまま、輝きそのものとして輝いているだけなのです。

私たちがそもそも自分を誤ったものと同一視し、本当の顔を覆い隠してしまうのはなぜなのか、とよく聞かれます。

それに関する精神的、形而上学的な理論はいろいろありますが、私が一番納得できるのは、本当の顔を発見する強烈な喜びは、顔を隠すことによる強烈な苦しみがあって初めて可能になる、というものです。

あなたの人生において、見つかることへの欲求が起こったとしたら、見つかるときが来たのです。今こそ、無という概念から隠れるのを止めて、無の真実の中に立ち戻るときです。

その中に身を委ねるときが来たのです。そうしたとき、間違った自己認識の習慣、コントロールと身を隠すための戦略、身を隠さなければならない、という条件付けられた信念などがすべて明らかになり、あなたはただあなたであるための自由を得ます。

個体化がもたらす力は、経験としては素晴らしいものであり、それ自体には何の問題もありません。でもそれは身を隠すという経験であり、完全な全体が個人という仮面を被るという経験です。

今こそ、この完全な全体が、個人という仮面を貫いて輝くことが可能です。必要なのはただあなたにその準備ができていること、その意思を持ち、『ええ、私には準備ができています。本当に、見つかる準備ができています』と宣言することだけです。

もちろん、あなたはもう何百万年も、この人間という特定の遺伝型の様々なバージョンに隠れてきているわけですから、『いいえ、まだ、まだもうちょっと経ってから。今はまだそのときではない』と囁く大きな力が顔を出すでしょう。

でも私は言います。そう、今です。過去からのどんな圧力がそれを阻もうとしても、今こそ見つかるときです。

すると、あなたを固定の枠にはめようとする力は、あなたの帰郷の道を照らす大きなかがり火の燃料となるでしょう。

あなたの中にある過去の条件付けのすべてを、このかがり火の中に、真実の自己探求の光の中に照らし出してごらんなさい。

無に身を委ねる

~久しぶりに、ガンガジの言葉より~

これを読みながら、リラックスしてごらんなさい。

リラックスしたら、何かをしようとか、この瞬間を有意義に使おうとか、この瞬間をキープしよう、あるいは遠ざけようとする傾向が自分にないかどうか、チェックしてごらんなさい。

こうした傾向はみな、あなたがすでに感づいており、そして深いところでわかっていること、つまり、あなたは実は単にあなたという個別の肉体でもあなたという人格でもなく、それどころかまったく何者でもない、ということに対するある種の抵抗から派生しているのです。

この『何者でもない』ということを、理性は、恐ろしいことと解釈します。つまりそれは死であり、無価値であり、なくてもよいものなのです。

あなたは肉体・思考と自分を強く同一視しているので、このことは非常な恐怖となります。無であること、空であることに抵抗しようとする理性の傾向は、この恐怖が中心にあります。

それは恐怖に対する戦略です。理性は突如活発に活動を始めるかもしれません。「でも、それはいったい何を意味するの? そんなはずはない。仕事ができないじゃないか。」

今、この瞬間だけ、こうしたすべての思考を脇にどけてみてください。そしてあなたの理性を無に委ねてごらんなさい。

何者でもないこと、何もしないこと、何も持たないこと、何も手に入れないこと、何も持ち続けないこと。

今この瞬間、あなたが本当に、進んで、意識して、ただ何者でもなくあることができたなら、一瞬のうちにあなたは、無の中に内在する平安を、広がりを、限界からの自由を見つけるでしょう。

事実あなたは無であり、何者でもありません。けれどこの無こそ、充実し、完全、無限であり、あらゆる場所のあらゆるものを充たしているのです。

この無こそ、意識そのものです。それはすでに完全、完璧で、不足するものがありません。これは驚くような皮肉です。あなたがそこから逃げ出そうとしているものとあなたが探し求めているものは、同じものなのです!

少なくともあなたは、ここに存在する無限の平安の気配、あるいは残響を体験することがあるはずです。それは、いつでもここに存在しているあなたの本当のアイデンティティの残響なのです。

存在と実在の違い

モノが存在するとはどういうことなんだろう?という素朴な疑問が、子供の頃からずっとあったのですが、今ではそれが知覚だということが分かります。

つまり、自分が知覚するということが、その知覚の対象が存在するということと同等だということです。この発見は気持ちを安らかにしてくれました。

けれども、もう一つの存在が実はあることにも気づいています。それは知覚とはまったく関連しない領域のことです。

区別するために、あえて言葉を変えて、実在と呼んでもいいかもしれません。それは、対象ではなく、ただ在るのです。

そのことに私たちはずっと気づいているのですが、常に知覚が優先されてしまうために、意識に上ってこないだけなのです。

存在は思考と切り離して見ることができないのに対して、実在は明らかに思考の範囲を越えたところに在るものです。

私たちが心を静かにして、つまり思考を充分に緩めた状態においてのみ、実在を感知することができるのは、そうした理由があるのです。

実在を感知していると、すべてにOKを出し続けることしかできなくなります。なぜなら、実在は完全性であり全体性であるからです。

それこそが私たちの本質なのですね。

思考の外側

子供の頃に、数人の友達たちと何かについて自分なりの意見や思いを言い合っていたときに、ふと気づいたことがありました。

ああでもない、こうでもない、自分が正しくて、君の考えは間違っている、等々。でも結局、何も言わずに黙っているのが一番優れていると…。

あらゆる考えを考え尽くしたところで、実は何も考えずにいることこそが最強(他に言葉が見つからなかったので)なんだと思えたのです。

それこそが、「無」なんじゃないだろうかと。今になって思えば、それはただ思考の外にいること、それが「無」ということだと分かります。

「無」とは単に何もない、ということではなくて、あらゆる思考の外に出ることだったのですね。思考自体が、みずからの限界を知るということでもあります。

私たちは、思考の中でゲームを楽しんでいるに過ぎません。それを真実だと勘違いしてしまっているだけなのですね。

思考そのものは現実の中にあるのかもしれませんが、思考の中身は実在ではありません。だからこそ、子供のころに思考の外側が最強だと感じたのです。

思考の外側が「無」であるというのも、真実ではありません。「無」とは、思考が作り出した概念、観念でしかないからです。

思考の外側とは、思考が到達することのできない領域としか言いようがありません。でも、私たちは誰もがそれを知っています。

なぜなら、私たち自身の本質こそが「それ」だからです。勿論、こういったことも思考の中で繰り広げられていることではありますが、それでももっとも今にいられる思考です。

どうせ思考の中にいるのなら、過去や未来を操って自己防衛しようとする思考よりも、今この瞬間にいられる思考を楽しむほうがどれだけ心安らかでいられるか。

試してみればすぐに分かりますね。そして、本当に今この瞬間であるなら、それが思考の外である純粋な意識なのです。